手掴みで飯を頬張る俺に、呆れたような視線を寄こす男は出会いから変わらない。手についたソースを舐め取れば、毎度やれやれと言わんばかりにフィンガーボールを目の前に滑らせて寄こす。

その視線に目を細めながら頬張っていた肉を飲み込めば、変わらないその獣じみた視線が俺を捉えながらワインを嗜んだ。

「テメェのマナーはいつになったらマシになるんだ?」

「…さぁ」

奴隷の癖に態度がデカイ、とは随分な言われようだったと我ながら思う。もう随分と昔の話だ。

奴隷の分際で、と唾混じりに吐き出された罵倒に、奴隷、奴隷ねェと頭の中で繰り返した所で何かが変わるわけでもなく、振り下ろされた一本鞭が背中を舐める。

呻き混じりにこぼれ落ちた溜息が神経を逆撫でしたのか、再度振り下ろされた一本鞭。恐らく背中は赤く爛れ、下手したら骨ぐらい覗いているかもしれない。なんて、それぐらいの痛み慣れてる。

痛みに呻くフリも面倒で、かと言っていつまでも続くこのお遊びに付き合うのも嫌気がさして、瞼を下ろせば気絶したと都合よく受け取ったのだろう。しばらくは肌を舐める鞭を振るっていた男は、忌々しげに悪態を吐き捨て床を踏み鳴らし去っていった。さて、と再び持ち上げた瞼。

昔から、痛覚が鈍い。それは生まれ落ちた瞬間から虐げられていたせいかもしれないし生まれる前から腹の中で不具合があったのかもしれない。だが鈍いだけで、痛みも感覚もある。痛いものは痛いし、不愉快なものは不愉快だ。

何人の主人の手を渡り歩いたところで大して代り映えしない。折檻と言う名の拷問が終われば、また巣も作れないようなくだらない労働が待っているのだろう。今度は何だ。船旅の労働力か、見世物の殺し合いか、はたまた。

ぎいぎいと、俺を吊るし上げた鎖が噛み合い耳障りな音を立てた。

ああ、だが殺し合いなら気楽でいい。勝ち上がればそれなりの褒美が出る時もあるという噂だが、生憎俺はその褒美を貰ったことはない。だが戦う間は気楽だ。ガキの頃はまだ良かった。記憶に残る最初の主人は冷酷だが間抜けだった。馬鹿みたいな労働の合間、見張りから隠れ血反吐を吐きながら振るわされた剣。あれは誰にやらされたんだったか。恐らく後に起きたクーデターの首謀者なのだろう。

失敗に終わったクーデター。冷酷で間抜けな男の首を跳ねたのは誰だったのかは知らないが、それは国軍によって押さえ付けられ、幼かった俺は新たな主の元へ渡った。運が良かった。あの場でクーデターを起こした大半の奴隷は首が飛んだ。

あの時俺は逆らう事と、その危うさを知った。

次の主人は、奴隷を獣と戦わせる事を好んだ。趣味が悪いと共にいた初老の奴隷は言っていたが、俺には良いも悪いも分からなかった。大半の輩は獣に腸を食い荒らされ死んだが、俺とその初老の奴隷は生き残っていた。その初老の奴隷は、拙い剣技しか知らない俺に戦い方を教えた。力で敵わない相手との立ち回り、生き物の急所、仕留め方。実戦を俺に見せつけていた。

俺は、生き残り方と戦い方を覚えた。

やがて主人の国が傾き、俺達は戦場を虫けらみたいに這いずり回った。奴隷は奴隷の名を捨てる間もなく敵国の戦奴となった。

そこからは思い出すに耐えない。

疼く背中に身じろぎするが、古傷だらけの背中は新たな鈍痛を生むだけに終わる。

生まれて此の方奴隷であるというのに、俺はどうも主人の反感を買うのが上手い。なぜかなんて知ったこっちゃない。命令には従うし、他の奴らと同じように頭だって下げる。だけど、それでも。

くだらない。

このままくたばらせる気かもな、と静まり返った拷問部屋にゆっくりと視線を這わせ、俺は再度瞼を下ろした。くたばったって構いやしない。確かにそう思っているはずなのに、俺はどうして腕の感覚を確かめているのだろう。

明日、まだ生きていたら動いてみようか。

明日動くなら今夜でもいいか。

どうせ今夜なら、今からでも。

どうしてこんな気分になったかなんて知らないが、本能がそうしろと急かすのだ。

ぎちぎちと鎖が騒ぐ。

古びて誰かの血が染みた鎖は錆すら浮かぶ。だれもこんなもの手入れしないのだろう。体重のかけ方を変え、力の加え方を変えていけば、僅かに鎖の泣き方が変わった。

がち。

そこからは大して時間は掛からなかった。

暴れるわけでも無理に力を加えるわけでも無く、狙いを定め引っ張れば鎖の一番脆くなっていたところが呆気なく裂け、その反動で体が地面に叩きつけられた。

手枷にぶら下がる錆びた鎖を確認し、よろよろと立ち上がる。骨ばった腕が鎖を引きずり、足が地面を踏みしめると合わせぶらぶらと揺らす高さまで持ち上がった。

行くか、と何の計画もなく扉に手を掛ければ呆気なく開く扉。ほら、今で正解だろう。誰かがそうほくそ笑んだ気がした。脳内に蘇ったのはクーデターを起こし死んだ男。

じゃり、じゃりと歩く度に揺れる鎖が泣く。

ああ、うまそうな匂いがする。食った事はないが、見かけた事ならある。あれだ、焼いた肉と、透き通る魚と、熟れた果実と、香ばしい菓子。あれはどんな味がするのだろう。食ってみたいような気がした。

匂いに誘われるように歩けば、主人の部下と鉢合わせ刀を向けられた。すぐに殺せると思ったのだろう。驚きはしたものの獣のように騒がないのは都合が良かった。

鎖を巻き付けた首から、ごきりと鈍い音がする。

男が息絶えるまで握っていた刀を奪い、再び足を匂いに誘われるように進めた。鉢合わせた部下は切り捨て、刃が血糊にくすむ。なんだ。弱いやつばかりだ。獣や剣闘士のほうが余程強かった。

じゃらりじゃらりと錆を削り落とす鎖を纏った腕を持ち上げ、扉を開けば広い机一面に広げられた食い物が視界に飛び込む。ああ、美味いのだろうか。あのパンやスープですら、俺が食ってきたものよりも余程美味そうな色艶をしている。

そこでふと、持ち上げられた銀に思わず身を横へ押しやった。何も考えずに刀を振り抜けば鈍い手応え。主人だった。でっぷりと突き出した腹を押さえ、獣のように何かを喚きちらしているが俺の意識は目の前の飯に釘付けだった。

刀を打ち捨てる代わりに主人の喉元に突き立て、俺の手は料理へと伸びる。

そこでもう一人の男が、豪勢な椅子に腰掛け俺を眺めていたことに気がついた。

その男の目は何かに似ている。昔も向き合った、名も知らぬ獣もこんな目をしていた。

しばらく無言で向かい合い、しかし男は何事もなかったようにワインを口に運んだ。

それを見て俺も、目の前の肉をつまみ上げ口に放り込み、噛む。それだけの工程が、今までと比べ物にならない程感情を生んだ。今まで食っていたものがなんだったのかと思うほどに美味い。あれも、これも。

次々と名前も分からない食い物に無心に食らい付く俺を、しばらくはワインを飲みながら面白そうに眺めていた男が不意に机を指で叩き顔を上げる。座ったらどうだ。かけられた声に目を細め、少しばかり悩んでから特に気に入った皿を手に床に腰を下ろせばテーブル越しにそうじゃねぇと声が掛かる。

「椅子に座れ。落ち着いて食えやしねぇ」

その言葉に、初めて椅子というものに腰を下ろした。床よりもずっと柔らかいクッションが尻を受け止め、思わず慣れぬ居心地に身をよじる。その向かいで、歴代の主人がしていたように器用に銀色を操る男が肉を口に運んだ。俺もそれに習うように、再び手掴みで目の前の料理を口に運ぶ。初めて飲んだワインは想像よりもずっと渋く、思わず顔を顰めてしまった。

「ワインは口に合わねぇか」

「…渋い」

クハ、と面白そうに声を立てて笑った男に訳がわからず視線を投げれば、随分と若く精悍な男だという事に気が付いた。後ろに撫で付けられた黒髪、獣のような目と、その下を横一文字に走る傷跡。主人のでっぷりと脂ぎった顔とは随分違う。どちらかといえば、昔俺に生き残り方を教えた初老の奴隷の方が似ていた。

そのまま二、三口料理を口に運んだ男は最後にワインを飲み干し席を立つと、その獣のような目を俺に向け短く、来いとだけ言った。

その言葉に少しだけ躊躇を見せた俺に、もっと美味いものを食わせてやると言った男がにやりと笑う。

ちらりと食い散らかした机を見やり、男を見やる。

それからゆっくりと立ち上がると、満足げに男は踵を返した。この男が新たな主人になるのだろうか。そう考え、それでもいいような気がした。

パンと果物を掴み、男の後に着いて行く。

歩きながら飲み込んだパンの味は、今でもよく覚えている。

「ったく、身なりはマシになったんだがな」

他はてんでだと、呆れたような目は愛想を尽かしているというよりもどこか出来の悪い子供でもみているようで背中の古傷がむず痒い。

少しばかりの不満も込めてその目を見返すが、文句でもあるのかと言いたげに片眉を跳ね上げた顔に言葉が詰まった。

不満ごとパンを食いちぎり、噛むと口内に広がる独特の味。断面を確認すればレーズン入りで、うえ、と顔を顰めればにやりと男が意地悪く笑った。

「意地が悪い」

「何を今更」

食いちぎった断面から覗くレーズンが中心に集まっているところを見ると、端から嫌がらせのつもりで仕込んだのだろう。ぐう、と唸りながら残りのパンを口に押し込めば愉快そうに男が笑った。

口直しに最後のひと皿を食らい上げ、汚れた手をフィンガーボールにつっこみ洗う。汚すから襟元に入れ込めと強制されたナプキンで手を拭くと、とっくに食い終えていた男が待ちかねたと言わんばかりに腰を上げた。

それに倣い腰を上げ、男のあとをついて行く。結局、この男は出会から随分経った今でも主人と呼んでいいのかいまいち分からない。

奴隷らしい扱いをするわけでもなく上等な服を俺に着せ、折檻するわけでもなく美味い飯を俺に食わせる。身なりはマシになったと言う言葉通り、見てくれだけなら随分と立派なものになったと思う。

見世物の殺し合いも重労働もさせるわけでもなく、まるで部下か付き人のように俺を扱うがそれにしたってもっとマシな奴がごろごろいる。

「ナマエ」

「はい」

「美味かったか」

「美味かった」

あれまた食いたい、なんて我が儘すら言える程にこの男は好意的で、俺の待遇はいい。俺がここにいることもこの待遇も、なんでだろうかなんて、恐らくは大した理由などないのだ。この男は紳士ぶっている割に気まぐれで、理性的かと言われればそうでもない。多分あれだ。ペットみたいな感覚なのだろう。犬を拾ったとか、そういう形容が随分としっくりと来る。

男から漂ってきた葉巻の煙についと視線を向ければ、にまりと悪人面が笑みを携え俺を見る。

「口元汚れてるぞ」

「…おっと」

親指でぬぐい取ったソースをぺろりと舐め取れば、クハ、と男が声を立てて笑う。

店員からコートを受け取り、颯爽と先を歩く男の後を追うように歩いた。

「なぁクロコダイル」

「なんだ」

「この間食ったあれ、甘いやつ。あれ食べたい」

「ひと仕事終わったらな」

食い意地の張った野郎だと男はからかう様に言うが、それでもダメだとは言わない。多分あれだ。

クソみてぇな人生のくせにいつまでもしぶとく生き残ってきたのは、この男に会うためだったんだろうなぁなんて柄でもなく思い、にやける頬を隠すように俯いた。

まあ見られても、食い物が楽しみでにやけていると思われるだけなんだろうが。