WHO AM I ?
 幼い頃の私は、母が魔法使いだと思っていた。
 私が怖い夢を見て眠れなくなってしまったある日の夜に、母は他の家族が全員寝静まっていることを確認すると、台所の棚からマシュマロの袋を取り出した。
「お兄ちゃんとお父さんには内緒にしてね」
 そう言った母の手の平から出てきたのは、ピンク色のような淡い光の炎。星が瞬いているようで、電気カーペットの熱よりも優しい温かさを感じた。
「お母さんは魔法使いだったの?」
「同じようなものかな」
「火、やけどしないの?」
 私が尋ねると、母は「お母さんはこの炎とお友達だから火傷しないんだよ」と教えてくれた。私がその炎に触れようとすると、危ないからダメだと手の平を隠された。お友達になってからじゃないと火傷をしてしまうのだという。母に拒絶されたような気がして泣きたくなった。
「私はお友達にはなれないの?」
 泣きそうな声で尋ねると、母は優しく微笑んで私の頭を撫でた。
「お友達になれるかどうかはこの炎が決めるの。でも、お友達になりたいって思い続けていれば、きっとこの炎はお友達になってくれるよ。そしたら一緒に魔法使いね」
 そう言うと母は、菜箸に刺したマシュマロを、手の平の炎で焼いて私に手渡した。炎はマシュマロに燃え移って、小さな熱がマシュマロを包むように煌めいている。それを吹き消して、まばらに焦げたマシュマロをそろそろと口の中に入れると、この世の何よりも幸せな味がした。今この瞬間だけは、私はこの世界の誰よりも特別だと思った。
「もう一回歯をみがかないとね」
「うん」
 怖い夢の内容なんてもうすっかり忘れていた。私は、その日二度目の歯磨きを手早く終えると、母の手を握った。
「もいっかい、火見せて」
 母は私の手を優しく離すと、もう一度その炎を見せてくれた。それはやっぱり夜空のように煌めいていて、どうして父が煙草を吸うときにつけるライターと全然色が違うのだろうと不思議に思った。
「お友達になれるといいな」
 私がなんとなしに発した言葉に、母は眉を八の字にした。どうしたの、と尋ねるよりも前に母は私を抱き締めた。今思い出すと、あれは泣き顔だったんだと思う。私と向かい直した母の顔は元に戻っていた。
「お母さんが炎とお友達だっていうことは誰にも言っちゃあダメだよ」
 私を子供部屋のベッドへ送ると、母は囁き声で言った。どうせお兄ちゃんは寝ているんだから聞こえないだろうに。
「どうして?」
「怖い人に捕まっちゃうから」
「怖い人はどうしてお母さんを捕まえるの?」
「どうしてなんだろうねえ」
 困ったように笑うので、お母さんでも知らないことがあるのだ、と幼い私は世界の広さを知った。
「お父さんやお兄ちゃんにも?」
「そう。二人だけの秘密」

 母はある日、買い物に出たまま帰ってこなかった。バーニッシュであることが判明して逮捕されたのだという。当時の記憶は曖昧だけれど、父の苦々しい顔と、父と高校生の兄が口論している姿だけは、唯一はっきりと記憶に焼き付いている。そのときの私はまだ小学生だったから、その口論の詳しい内容までは覚えていないけれど、確か、隠していたのかとか、知らなかったんだとか、そう言ってお互いを責め合っていた気がする。
 テロリスト以外のバーニッシュの不当な逮捕は、法律では許されていなかったはずだが母がそれでも逮捕されてしまった理由は今でも分からない。当局から私達家族へろくな説明も無いまま、母はバーニッシュ用の刑務所へ入れられた。面会も許されなかった。
 噂は広がるのが早い。その上、尾ひれがたくさん付きながらあること無いこと言われてしまう割には、誰も本人にその真相を確かめに来やしない。私の母についても、あっという間に親から子へ、子から子へと話は広がり、学校の同級生全員が知る頃には噂される内容の半分以上は根も葉もない内容が膨らんだものだった。当時の私ですらどうしてこんなに馬鹿げた内容を信じるのだろうかとクラスメイトを哀れんだくらいだ。でも、恐怖や無知は人間の知性を鈍らせてしまうものなのだろう。そうじゃなければ、フェイクニュースなんて言葉は生まれない。
 小学校の間は、触るとバーニッシュになるとか、バーニッシュは遺伝するからこいつも目覚める前に捕まえるべきだとか、そう言われてはバイ菌扱いをされた。その度に違うと声を上げようとして、そう言ってしまったら母のことを否定することになるような気がして口を閉じた。バーニッシュの子供は火に強いんだろ、とライターで服に火をつけられそうになったこともある。兄は大学の推薦を取り消されたし、父は母が捕まって以降、職場の人達のあたりが冷たくなったらしく、酒に逃げるようになった。地方の部署に左遷されそうになり、新卒からずっと働いていたその会社を辞めた。
 最悪の子供時代だった。
 バーニッシュに対する研究は年々進んではいたものの、その情報が一般人に浸透するよりも先に、眉唾物の噂話ばかりが広がり続けた。私がどんなにそれらが科学的に否定されている事実だと訴えても聞き入れられることはなかったし、むしろ、身内にバーニッシュがいたという肩書きのせいで、科学者の研究結果という客観的な事実ですら、いくら発信しても当事者の妄想だと一蹴されていた。
 バーニッシュの力が他人を傷つけることが出来るという恐怖ばかりが、普通の人達の最大の関心であり淘汰すべき心配事だったのだ。そういう普通の人達が、私達家族を傷付け続けた。当時、仲が良かったクラスメイトにすら「みんな怖がってるだけなんだよ」なんて言われて、どうして他人の気持ちを理解しなきゃいけないのだろうと思った。他人は私達家族の気持ちを理解していないのに。





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