埋没(菩提でおやすみより)
「相変わらず酷い家」
「おめーは相変わらず人んちに対して失礼だよなァ〜。まあ確かにその通りなんだけどよォ」
 玄関の戸を開けると、とぼけた顔の億泰が出迎えた。寝起きなのか、いつもより若干声が低い気がする。私は億泰に招かれるまま、廃墟のような虹村家へ足を踏み入れた。
 ここは日本なのに、この家は玄関で靴を脱がない。否、脱げるほど床が綺麗ではないから脱げない。億泰も構わず革靴を履いたままだ。ここは日本だった筈、と思わず己のいる場所を確認したくなる。
 高校生一人では掃除が間に合う広さではないからか、いつ来ても埃っぽくて人が住む空間には見えない。ずっと居たら肺が侵されて病気になってしまいそうだ。当の住人は意に介していないらしいけれど。
「仏壇、やっと買ったって聞いたからお線香上げに来たよ。億泰にはそういう買い物出来ないと思ってた」
「俺もどうしようかと思ってたんだけどよォ〜。承太郎さんが杜王町出てく前に選んでくれたんだぜ〜」
「その承太郎さん様様ってやつね。確か葬式もその人が取り計らってくれたんだっけ。良い人が知り合いに居て良かったじゃん。形兆くんもこれできっと一安心だね」
「そうだなァ……。ひょっとすっと、兄貴も鈴美さんみてェに姿を見せねえだけで、どこかで幽霊になって待ってたんかなァ〜」
 誰よその女。昼ドラみたいな台詞でも言ってみようかと思ったけれど、億泰の交友関係は意外にも多岐に渡っているらしいから、その中の一人なんだろうと思って止めた。その女の人みたいに、の後に話した内容に違和感を覚えたけれど、億泰のことだから多分あまり深く考えずに話しているのだろう。自分の日本語に矛盾があってもきっと気付かない。
「この家って綺麗な部屋ある? 手ぶらで来るのもなあって思って、ちょっと良い菓子折りと一緒に飲み食いするためのお菓子いっぱい買ってきたから食べよ。こっちの菓子折りは仏壇用だから食べちゃダメだよ」
「おっ、マジかよォ〜! 早速食おうぜ、台所の方ならまだ綺麗だからよォ」
 駄菓子やスナックが入った袋を見せると、億泰は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「先にお線香」
「兄貴はそんなこと気にしねえよォ〜。たぶんだけどよォ〜」
「あの性格なら気にしそうだけれど」
 億泰は私より二歳下。私は形兆くんと同い年。虹村家とは小中と同じ学校で、町内会も一緒のご近所さんだ。幼馴染……に該当するかどうかは少し微妙な年月を、ちょっと特殊な関係で過ごしてきた。いや、特殊と言える程の関係ではないのかな。どうなんだろう。
「そういえば、中学まで兄貴のプリント持ってきてくれてたときによォ、こうやってたまにお菓子持ってきてくれたよなァ。俺、いつもすっげェ〜楽しみにしてたんだぜェ〜」
「そうだったんだ。形兆くんがいつもムスッとしてたから、お節介かなって思ってた」
「兄貴はどう思ってたんかわかんねえなァ。でもお菓子は一緒に食ってたぜ〜」
「そっかあ」
 案内された台所は、確かにここなら靴を脱いでも大丈夫だろう、と思う程度には綺麗な空間だった。でも億泰が靴を脱がないままなので、私もそのまま上がらせてもらった。億泰はテーブルにお菓子を広げた。
 飲み物を出してくる、と億泰が冷蔵庫を開いた。チラリと見えた中にはペットボトルと卵だけが入っていた。



 小学二年だったか三年だったか、ある日を境に、虹村形兆は学校を休みがちになった。それまでは子供のお手本と言わんばかりの見事な無遅刻無欠席だったから、尚更突然に見えた。担任は事情を知っていたのか知らなかったのか、同級生の男子が尋ねても子供相手特有の大袈裟な嘘で誤魔化していた。
 友達関係のいざこざとか、勉強に追いつけない不安とかで不登校になってしまう人はたまにいたから、形兆くんもそれらのどれかなのだろうかと最初は思ったけれど、どうやら事情が違うらしいという雰囲気を感じた。だって、形兆くんは学校で問題なんて起こしたことは一度もなかったし、勉強も寧ろ学年の中でも上位の方だった。テストは大抵満点だったし、成績表も出席率を除けば大体が一番良い評価だった。友達付き合いだって、嫌われていたり、誰かと喧嘩したりという話は聞いたことが無かった。
 突然休みがちになった形兆くんの出席率は、あっという間に、週に三日来れば良い方だと言えてしまう程になった。それだけじゃあなく、登校した日は給食を誰よりも大量に食べたり、着ている服が汚かったり臭かったりすることも頻繁にあった。本人もそれを気にしていたらしく、休み時間に彼が誰かと遊ぶ姿を見た者はいなかった。
 なんとなく、何か家の事情や本人の問題があるのだろうと、クラスメイト達は幼いながらに気を遣って深い追求をしなかった。余計な邪推をする奴らもいたけれど、形兆くんは昔から顔つきが怖かったから、殊にいじめの対象になるようなことは無かったと思う。それどころか、虹村形兆に喧嘩を売ると痛い目に遭うという噂すらあった。あの噂の出所は本人に尋ねても結局分からないままだったけれど。
 虹村家が何かおかしくて、あまり関わらない方が良いのだろう、という思いは、例に漏れず年相応の成長しかしていない私も抱いていた。自発的なものだったのか、クラスメイト達が陰でこそこそと話す姿に引きずられたからなのかは、今となってはもう覚えていない。それが結果的に、私達をますます真相から遠ざけた。
 今は廃墟のようなこの家もまだ真新しさのあった綺麗なときだったとはいえ、常に全ての窓のカーテンが閉まっていることに違和感を覚えるなと言われたら難しいと思う。私がインターホンを鳴らして、不機嫌な顔の形兆くんが玄関を開けるとき、決まってそのドアにはチェーンが付いていたことが、尚更不気味さに拍車を掛けた。そして、何人たりともこの玄関の先へ招かれることは無いのだろうとも思った。
「……これ、水曜から配られてた分」
「いつも悪いな」
 無愛想に受け取る癖に、お礼はいつも必ず言ってくれる。
「あとはもっとプリントを綺麗な状態で持ってきてくれると完璧なんだがな」
「なにさ。ちょっと角が折れてるだけじゃん。文句言う元気があるんだったらズル休みばっかしないで保健室通いだけでもすればいいのに。出席数だって、もうちょっと稼いでおいた方が良いんじゃないの。このままだとたぶん高校行けないよ」
「てめェに心配される筋合いは無えよ」
 形兆くんは乱暴に言った。
「あっそう。まあ、好きにすればいいけどさ」
 私と形兆くんは、特別仲が良いわけじゃあない。こうしてプリントを届けているのも、形兆くんが休みがちになった頃に、たまたまクラスが一緒で、たまたま町内会が一緒のご近所さんだったというだけだ。偶然に偶然が重なっただけのことで、それ自体に何の感情も気持ちも抱いていない。強いて言えば、あまり休まれると荷物が増えて面倒だなあ、というくらいだ。
 だから、形兆くんが無愛想な理由も、いつも玄関の扉を少ししか開けてくれなくて警戒心の強さを剥き出しにしていることも、本人の性格の問題なのだろうとしか考えず、然程気にすることは無かった。そう思うようにしていた。
 中三の頃は稀に、弟の億泰が兄のプリントを私の元へ取りに来ることもあった。兄の机から直接取っていけば良いのに、と思ったけれど、上級生の教室に入るのは緊張するものだし、上級生の中で知っている顔は私だけだったから、彼にとっては私に頼ることが最善だったのだろう。宿題のプリントの説明を本人にしないといけないから、私も一緒に虹村家まで行く必要があって、億泰が引き取りに来ようが来まいが、結局私の手間は変わらなかったけれど。同じ帰り道を一緒に歩くから、必然的に形兆くんよりも弟の億泰との会話が増えていった。億泰は兄に似ずよく喋るから、尚更。
 でも、お喋りな億泰ですら、形兆くんが頻繁に休む理由にはいつも言葉を詰まらせた。理由を知らない、というわけではなく、知っているけれど口止めされている、という感じだ。
「兄貴が、それは家族の問題だから関係ねえ、って」
 当時は私へ言い聞かせているのだと思って疑わなかったが、今思えば、繰り返し発せられたあの言葉は、まるで自分へ言い聞かせるようだった。私は自分の胸中をどうして疎外感が燻るのか分からなかったし、見るからに狼狽している億泰にこれ以上追求する理由を見つけられなくて、そこから先はいつも会話が続かなかった。
 虹村家の問題なのだから、私が首を突っ込んだところで何が出来るというのだ。不登校の同級生を復帰させたヒーローにでもなりたいのか。そうすることで、誰かに感謝でもされたいのか。誰に。形兆くんは喜ばない。だって、私は、形兆くんの友達でも家族でもない、ただの他人だ。そんな気持ちがエゴでしかないのだと気付けた当時の私は賢かったと言えるのかは、今になっても判断出来ない。
 結局、形兆くんは中学卒業までの三年間、登校総日数の半分も学校に来なかった。私が心配していた進学先に関しても、答案用紙に名前を書けば入れるような底辺のところに行ったらしい、ということだけを人伝に聞いた。頭が良いのに勿体ないと思った。
 同じ学校という接点が無くなってしまうということは、私と形兆くんの間にある繋がりが消えるということだ。けれど、特段そのことを悔やんだり焦ったりはしなかった。通う学校が違えども、登下校中にタイミング良くすれ違ったり、休日にたまたま会ったりすることもあるだろう。だってご近所さんだ。
 そう思っていた新学期早々、虹村家が夜逃げしたらしいという話を耳にした。




『菩提でおやすみ』サンプル
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