潮干の名残
 その日、玄関の戸を開けて、街灯の光が真っ暗な室内を四角に切り抜いている様を見たとき、私はやっと喉を震わせた。
 嗚咽と涙でぐしゃぐしゃに歪んだ視界で、明日の朝捨てる予定だったゴミ袋の口を無理やり千切り開けた。生ゴミの鼻につく臭いも袋を乱暴に開いた衝撃で飛び出してきた数匹の小バエも構わずに、首につけていたネックレスを無理矢理引き千切って投げつけた。ぼとりぼとりとアイシャドウを巻き込みながら落ちていく涙が腐った白飯まみれのネックレスの横で跳ねている。あの人から貰ったそれの哀れな姿を見て、私が夢見たいつかの理想とかけ離れていることがあまりにも悲しすぎて、生まれて初めて声を上げて泣いた。










 独特な口調のアナウンスで目を覚ました。電車の車輪と線路がぶつかり合う振動がいつの間にか私を眠らせていたらしい。今はどこを走っているのだろうかと出入り口上部の電光掲示板を確認すると、間も無く目的の駅へと到着するようだった。
「間も無く、赤塚町ー、赤塚町です。お降りの際は足元にご注意下さい」
 重たいキャリーケースを引きずって駅のホームへと降りると、懐かしい風景が目に入った。そうだ、この駅の景色はこんな感じだった。郷愁が胸をちりりと焦がすが、人ごみがそれ以上の感傷に浸る暇を与えてくれないので、私はその流れに乗るように改札へ向かった。喧騒に被せるように聞こえてきた抑揚の無い車掌のアナウンスが電車を再び走らせていた。
 大学に進学する前と、駅の中は全く変化していない。改札を出てすぐ右手にある銅像は待ち合わせ場所としてたくさん人が集まっているし、駅ナカのコンビニの看板は少し錆びて汚れている。
 まるで数年ぶりの帰郷のような言い草だが、前回帰ってから大した期間は空いていない。だからと言って、感情や表現を大袈裟に出す性格だというつもりも無い。どちらかというと私は大人しい性格だ。自分で言うのも変な話だけれど。
 そういうことじゃないのだ。実家に帰る期間も、その行為も、それ自体は然程重要な話じゃあない。下宿先に留まらずに済む方法が、帰省という手段だっただけだ。
 どこで鳴いているかも分からない蝉の叫びが耳の奥に響く。夏休みの時期だからか、まだ仕事帰りという程の時間ではないにも関わらず人の量は多い。楽しそうに高揚した声が彼方此方から聞こえてくる。手をつないで歩いているカップルとすれ違ったとき、一ヶ月前の自分を思い出して気持ちが沈んだ。もう終わったことを考えたってどうしようもないのに。
 その程度のことで、と思う人もいるだろうし、それは大変だった、と思う人もいるだろう。価値観は人それぞれだから、一つの事柄に対して私が感じることと他人が感じることは必ずしも等号では繋がらない。そういうものだ。
 そういうものなのだと、今更気が付いた。

 駅から歩いて十数分。二十年以上見続けてきた慣れた景色が現れた。
 生まれてからずっと見続けてきた景色だ。住宅街だからか、当時からほとんど建物は変化していない。目を閉じてもどこに何があるのか分かってしまうくらいまぶたに焼き付いた景色だ。
 路地は駅前とは対照的な雰囲気に包まれている。キャリーケースの車輪がゴロゴロと唸る音だけが、人気のない空気に揺れて弾けた。額から一雫が頬を通って顎へと伝うのを肌で感じる。日焼け止めを塗り直そうか、と考えて、それよりも早く空調の効いた部屋で涼みたいという気持ちが足の静止を拒んだ。
 ごみ捨て場をカラスが漁っている。生ゴミのつんとした臭いが鼻腔を煽るので、腐った食べ物で汚さないようにキャリーケースを持ち上げて足早に横切った。人に慣れた不届きものは私がコンクリートを鳴らしながら過ぎていく様子を一瞥するだけで、すぐに餌探しに戻った。散乱した残骸は誰が片付けるのだろうと一瞬だけ疑問が浮かんだけれど、帰路に視線を戻したときにはもう忘れていた。
 住宅街の中に紛れ込むようにある私の実家。私が生まれる数年前に購入したのだという控えめの一軒家は、三十年余りの月日によってそれなりに薄汚れている。見た目に支障が出る程ではないけれども。玄関の取っ手に手を置くと、あっさりと扉は開いた。
「ただいま」
「あ、おかえり。早かったね」
「うん。一本早い新幹線乗れたから」
「連絡くれれば迎えに行ったのに」
「大した距離じゃないし」
 玄関に荷物を置いたまま、私はリビングの奥にある台所へ直行した。避暑である冷凍庫を力強く開ける。チューペットを見つけたので、一本を取り出して半分に折り曲げた。片方を咥えると母がもう一本を催促してきたので、私は無言で母の口にもう片方を突っ込んだ。
「あいあお」
「お礼言うか食べるかのどっちかにしなよ」
 ちゅう、とチューペットを吸うと、温い空気に触れて間もない氷塊からは味の濃いシロップがほんの少しだけ吸い取れた。ソファーに腰を下ろして、母と同じテレビ画面に目を向ける。いつだったかにやっていたドラマの再放送だった。確か、あまり面白いと思えなくて二話で見るのを止めたやつだ。
「これ何話?」
「えー分かんない。テレビ点けたらやってたから見てるだけ」
「ふーん」
 そこから数分ほど、テレビ画面の向こうで起きている痴話喧嘩を眺めていた。けれど、母のつまらんという一言と共に原因不明の喧嘩は強制終了と相成った。絨毯の上で寝そべっていた母が私の名前を呼んだ。
「ちょっとさあ、アレ、電球買ってきて。居間の電気切れちゃってて」
「ええー、帰ってきたばっかなのに」
「自分の寝る場所なんだから自分でやってちょうだい」
「えっ、……いや、ちょっと待って私の部屋は?」
「この間帰ってきたときに物置にしていいか聞いたら良いって言ってたじゃない。どうせあんたのもの大して置いてなかったし、普段誰も使ってないし、場所的に丁度良かったし」
「ベッドあるなら別に物置の中でも良いけど」
「森田さんとこにあげちゃったけど」
「は?」
「だってあんた向こうで就職するんでしょ? うちにあってもしょうがないじゃない。アパートにもっと綺麗で小洒落たやつあるでしょ?」
「いや、だからって……そうだけどさあ……」
 言い返したいことはたくさんある筈なのに、上手く言葉が出てきてくれなくて、私の声は尻窄みになっていき、遂には閉口した。思えば、誰かに反論するという行いが私は得意ではなかった。お釣りはあげる、という言葉と一緒に差し出された千円札を、私の手は糸に引っ張られるように受け取った。

 こんな気温の中を意味も無く徒歩で歩きたくなんてなかったから、通学に使っていた自転車を出そうと車庫に向かった。日に照らされたシャッターは塗装が剥がれて錆がよく目立っている。熱を帯びていないプラスティックの持ち手を上方へと押し上げて、車の横でこじんまりと壁沿いに置かれている自分の自転車を見つけた。これは捨てられてなくて良かった、と胸を撫で下ろしてから、外出の強いお供といざ行かんとする為にグリップを握った。けれど、べたべたとした感触が手のひらから伝わってきて、咄嗟に手を離した。不快感と抵抗感が、目の前の鉄の塊が既に役立たずになってしまったことを知らしめた。よく見ると、籠は錆びているし、サドルも埃が積もって皮の色を薄めている。大学に進学して以降ほとんど使うことが無かったから、すっかり劣化してしまったのだろう。ペダルを踏みしめたがっていた足がしぼんでいくような気がした。
 元々大した距離じゃないのだ。バイトを辞めてからほとんど外出しなかったし、良い運動だと思うことにしよう。そう言い聞かせて、私はこの茹だるような日の下を一歩踏み出した。
 もう少し待てば日が落ちて気温もちょっとは下がっていたかも、と気付いたことによる若干の後悔が私を余計落ち込ませた。ここ最近の自分はいつにも増して要領が悪くなっている気がする。煌々と照り付ける太陽とは裏腹に、私の目の間に寝そべる影はどんどん伸びていった。
歩いて数分。商店街の中に、懐かしい魚屋を見つけた。中学校から高校まで一緒だった同級生の存在を思い出した。その魚屋は彼女の家だ。
 そういえば高校卒業以来、時々連絡は取れど会うことは無かったなあ、と思いながら横切ろうとお店に近付くと、タイミングが良かったのか、魚屋の横から見覚えのある横顔が現れた。あ、と声が漏れた私に気付いた彼女は、一目見て私を誰なのか気付けたらしく、大袈裟に手を振ってきた。
「トト子ちゃん」
 私も名前を呼びながら駆け寄ると、視線の先の彼女は微笑んだ。彼女は見た目こそ以前よりも大人びたけど、面影はしっかりと高校の頃の記憶を踏襲していた。当時、友人から呼ばれていたあだ名をトト子ちゃんが口にして、そういえばそんな呼ばれ方をされていたな、なんていう懐かしさで少し気恥ずかしくなった。
「懐かしい顔ね。帰ってたの? 確か今はアレだっけ。大学院」
「今日着いた。院も今は夏休み」
 院生だなんてすごいね、と言われた私は曖昧な返事しか出来なかった。あまり深く尋ねられなかったことが幸いしたが、私の進学先は大学も院も有名でもなければ大してレベルが高いところではない。入学生を集めることに必死な定員割れ私立大学の一つだ。すごくもなんともない。
「トト子ちゃんは今何してるの? ご両親のお手伝い?」
「んー、実はね、アイドルやってるの」
「え! すごい! トト子ちゃん可愛いもんね。サイン貰っとこうかな」
「友達だから半額で良いわよ」
「えーお金取るの」
「そりゃあ商売だもの、ふふ」
 意地悪に微笑むトト子ちゃんは花のように可愛らしくて、そりゃアイドルも出来ちゃうよなと納得した。
 あの子は結婚したらしい、とか、あいつは最近事業に失敗してやばいらしい、とか、女らしいあれやこれやの噂を他愛もなく話していると、トト子ちゃんを呼ぶ男の声が聞こえた。誰なのか気付いたらしいトト子ちゃんの表情が少し歪んだように見えた。
「うわ出たクソニート」
 トト子ちゃんの今まで聞いたことがないような辛辣な言葉の矛先には、どこかで見たことがあるような顔の人がサングラスをつけて立っていた。
「ヘイ、麗しのガールズ……今日も太陽は眩しいほどにホットだな」
 トト子ちゃんの知り合いらしい男の人は、作ったような声音でよく分からないことを言いながら気取ったようにサングラスを外してこちらを見た。お洒落に気を使っているらしい真っ黒なサングラスの下に表れた素顔は、よくよく見ると私の知っている顔だった。知っている、というよりは、思い出した、と言ったほうが正しいけれど。
「あ、えーっと、松野くん、だっけ。どの松野くんかは分かんないけど」
「フッ……カラ松だ」
 松野カラ松。確か演劇部だった、気がする。よく覚えてるな私。六つ子の見分けも違いも全然分からなかったけれど、演劇部に所属しているのは松野カラ松、っていうのは当時何故か認識していた。たぶんクラスが一緒だったからだ。今の今までは全然頭の片隅にすら思い出さなかったことだけど。
「あ、うん」
 いわゆる、ナルシスト、というやつだろうか。話し方と所作と、纏っているオーラがそんな感じする。それに、こんな日差しの強い中で革ジャン。革ジャンって。服装に拘る人間でも季節に合わせた格好を選ぶだろうに。高校のときからこんな人間だったっけ、と自分の海馬の中身を探ってみるけれど、思い当たる節は見付からなかったし、そもそも当時六つ子はほとんど全員が一緒にいたせいで誰が誰なのか分からなかった。
「関わる必要無いわよ。痛すぎて全身の骨が砕けるわ」
「酷い言い草、ふふ」
 トト子ちゃんの言葉に口の端から笑い声が漏れてしまって、少し失礼だったかと松野くんの顔を伺った。ところが松野くんは大して気にしている様子も無く、今から大事な用がある、と言って去っていった。トト子ちゃん曰く、どうせパチンコでしょ、らしい。
「松野くんって昔からあんなだったっけ」
「さあ、覚えてないわ」
「幼馴染なのに?」
「幼馴染であることを恥じてるもの」
「うわあ」
 苦い笑いで顔が歪んだ。そこまで言わしめる松野くんの程度の酷さがどらくらいなのか気になったけれど、ほんの一ヶ月前に男に苦い思い出を作らされた私にとって、それはあまり心地が良いとは思えない好奇心だった。
 トト子ちゃんと別れて、さっと電気屋で目当てのものを買い終えると、陽は傾き始めていて、茹だるようだった気温は少しだけ下がっていた。烏の鳴き声が聞こえる。
 家に着いて玄関を開ける。ただいま、という私の言葉への返事に、台所の方向から何かを揚げている音が聞こえた。リビングでもう一度ただいまと言うと、ようやく私に気付いた母がおかえりと返事をした。揚げ物の正体は天ぷらだった。
「電気あった?」
「うん。あ、あと行きしなにトト子ちゃんと松野くんに会ったよ」
 じゅううっ、という高熱の音にかき消されたのか、母からの反応は無い。もう一度大きな声で同じ内容を言うと、やっと母も大声で応えた。
「松代ちゃんとこの? どれ?」
「どれだっけな。確かカラ松くん」
「分かんないわ」
「ですよね」
「誰が誰でもおんなじってね、アハハ」
 天ぷらの油を切りながら母は大笑いした。

 父は仕事の飲み会で帰りが遅くなるらしい。多目に作ったエビとさつまいもと人参の天ぷらは、私と母の二人で消化することになる。普段は揚げ物なんて面倒臭くて作らないから、最後に天ぷらを食べた日が思い出せなかった。
 テレビから聞こえる芸人の喚き声を聞きながら、軽い雑談と共に二人は箸を動かした。エビの天ぷらに噛みつき、そのまま続けてご飯を放り込む。ぐにぐにと口内調理。数秒後、口の中で混ざり合ったそれらを味噌汁で喉の奥に流し込んだ。肉じゃがを飲み込んだ母が、あ、と思い出したように口を開いた。
「そういえば、松代ちゃんとこの六つ子、皆ニートなんだって」
「マジで? へえ、はは、やばー」
 そういえば、とトト子ちゃんが口にしていた蔑称を思い出した。クソニートという言葉は揶揄でも何でもなく、現在の松野くんを正しく言い表していたのだろう。松野家の家計は大変なんだろうな、と思った。他人の家のことだから考えても意味は無いけれど。
「六人全員ってなかなかすごいね」
「一瞬バイトしたり一瞬就職したりっていうのはあったらしいけどね」
「全部一瞬なの」
「松代ちゃん曰く全員魂の底からクソニートだって。ハハハ」
 対岸を眺めるように母が笑う。ナルシストで痛々しくてニートって人として誇れる部分がひとつとして無いな、と革ジャンの彼が脳裏を過ぎった。



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