玉響の思い出
 花京院が突然の失踪をしてから二ヶ月程が経ったであろう一月某日。彼は行方を晦ませたときと同じように無言の帰宅を遂げた。
 無言とは隠喩だ。つまり、そんなこと、高校生にもなれば嫌という程に分かる、極めて簡単な言い回しだ。
 端的に言うと、花京院典明は、死んでしまったのだ。
 どうしてそんなことになってしまったのか私は知らない。両親との関係も良好で、学校の成績も良くて、同級生からも慕われている、まさに順風満帆な生活を送っていた筈の彼がどうして日本から遠く離れたエジプトという地でその命を散らすことになったのか。そんなの、私に分かるわけがない。分かるわけ、ない。
 葬儀の日は雨だった。冬の癖に湿っている空気が肌にまとわりついて気持ち悪い。一様に黒い服を着た人達がひとつの空間に収まっている。私もその集団の中にすっぽりと収まってしまっている。まるで餌に群がる蟻の塊を巨大化した風景だと思ってしまった。花京院の葬式なのに。
 花京院の家系は親戚が多いのか、はたまた花京院家の交友関係が広いのか、式には大人が多い。彼の両親が頻繁に色々な人に挨拶をしている。
 いつもは何重にも折って短く履いていたスカート。今日は綺麗に全部下ろしていた。学校の制服をこんな形で使うことになるなんて、入学した頃は思いもしなかった。暖房が行き届いていない会場の空気は、下ろしたスカートの中身もじんわりと冷やしてきて、誤魔化すように両手でスカートを握った。
 僧侶が念仏を唱えている。木魚の規則的な音と相俟って、私の脳内をリズミカルに叩いてくる。焼香の香りが鼻をつついた。私の中でぐらぐらと揺れる何かが少しずつ落ち着いてきているような気がして、きっとこの香りは生きている人を慰める為のものなのだろうと思った。
 念仏にどんな意味が込められているのかは知らない。死者の魂が安らかに極楽浄土へ行けるようにとか、あの世へ迷わずに行く為の道案内代わりとか、そういう話を少しだけ耳にしたことはある。けれど、無機質に唱えられる言葉の羅列の中にそんな意味が込められているようには思えなかった。
 彼は後悔していないのだろうか。彼の魂は安らぎを得ることが出来ているのだろうか。
 そんなの、私には分からない。分かるわけがない。花京院は死んで、私は生きているのだから。死んだ人間が何を思うのかなんて、死んだ人間にしか分からない。もしかすると、死んでしまったら意識も何もかもが消えて考えることすら出来なくなっているのかも知れない。
 でも、彼は博識だったから、私と違って念仏の言葉ひとつひとつの意味を知った上でそれらに魂を委ねることが出来ていると思う。私の想像でしかないけれど、そう思いたい。
 一通り葬儀が終わり、別れ花を手渡された。花京院の父、母、親族らしき人達が順々に棺桶の中へと一輪を入れていく。語りかけたり、無言で見つめたり、思い思いに花京院の最後の姿を目に焼き付けている。それら全てがまるで画面の向こうで行われているような気がして、私の耳には砂嵐の音が聞こえてくるようにすら思えた。そんなことを考えている内にいつの間にか順番は回ってきていて、私は鉛のような足を少しずつ動かして近付いた。棺桶の淵が少しずつ視界の下へと消えていき、私は数ヶ月ぶりに、そして初めて、彼の死に顔を見た。
 綺麗な顔だ。両目に大きな切り傷が付いているけれど、それ以外は私が二ヶ月前に玄関前で別れた花京院と全く同じ顔だ。肌が真っ白で、まるで人形のようだ。本当は今目の前で行われていることは全て茶番で、目の前にあるこれは精巧に作られた人形なのかも知れない。そんな考えすら浮かんできた。 
私の愚かな考えを、花京院の隣に添えられた真っ白な菊の花が嗤っていた。

「骨上げくる?」
 出棺を見送った後、花京院の母が私に尋ねた。
「いいんですか」
「きっと典明も喜ぶと思う」
 霞んで消えてしまいそうな声だ。おばさんの目は真っ赤に充血している。化粧で隠しきれていない隈が、おばさんがここ数日をどう過ごしたのかを容易に想像させた。
 骨上げは小さな部屋で行われた。狭い空間に鮨詰めになって並ばされているのは居心地が悪い。隣のおじさんの煙草の臭いが鼻をついて、尚更そう思わせた。
 大人に混ざって一人、大きな男の人がいた。顔も雰囲気も随分大人びていたから、制服姿じゃあなかったら私よりもずっと年上の人だと思ったことだろう。見覚えの無い学ランだけれど、彼は花京院の校外の友人なのだろうか。あんな友人がいるなんて話、聞いたことが無かったけれど。
 式場のスタッフの声と共に、火葬された花京院の骨が取り出された。燃え滓となった花京院の骨は、煤けて軽くて脆くて、海岸に打ち上げられた珊瑚の死骸のようだ。こんな、こんなものが、あの花京院だったものなのか。スタッフの言葉に従って、並んでいた大人達は針金のような箸を手に、納骨作業を開始した。
 沈黙した窮屈な空間で、二人ずつ、花京院の骨を骨壷へと運んでいく。骨はあっという間に骨壷を満たしてしまって、その度にスタッフが綿棒のようなもので骨を押し潰して隙間を作っていく。ゴリゴリと耳に障る音が響く中、普通はこんなに骨が形残さないものなのに若かったから、と誰かの呟きが聞こえた。
 大の大人が箸を使って死骸を運ぶ姿は、まるで玩具で遊ぶ子供のようだ。私も何度か運んだけれど、こんなに軽くてこんなに小さくなってしまったものが花京院だなんてとても思えなかった。あの死体は人形で、この骨はあの人形を象るための骨組みの部品だったんじゃあないかって、そんな馬鹿な考えが目の前の事実を私の中から追い出していた。
 あんなに大きな身体をしていた花京院は、サッカーボールよりも小さくなってしまった。



『玉響の思い出』サンプル
文庫本サイズ
46P
400円