朝風呂丹前長火鉢
 生きることは悲しいことだと誰かが言っていた。人は生まれながらに罪を背負っているなんて考えもある。たしか、原罪、というのだっけ。だから宗教は大多数の人数の心の拠り所になっているし、悲しさに付け込んで詐欺を働く人だって出てくる。
 六十億人が蠢くこの世界で、生きるという行いは、悲しいことなのだ。
 では、何故人は生きるのか。悲しいくせに、何故人は生き続けるのか。何故自殺は悪なのか。何故生きることから逃げ出すことは弱いことだと後ろ指を差されるのか。
 何千年も前から哲学者達が考え続けてきているにも関わらず、明確な答えは出せていないのだから、そんなこと、私が考えるだけ無駄だ。私のような凡人が、たったの二十数年しか生きていない若輩者が、正しい答えを出せるなんて、そんなわけがない。もし答えを出せる人がいるというのなら、その人はきっとキリストにだって釈迦にだってなれるだろう。
 それでも、どうしても、その難題に、神にも仏にもなれない凡人が、無理矢理に答えを出さなければならないとしたら。
 それは、生物の本能に従って子孫を残す為だ。私はそう思う。
 人間が生きるのは、原始の時代から遺伝子に刷り込まれた本能が、生きるように命令をしているからだ。そこには、思想とか、哲学とか、理性とか、そういう後付けされたものは一切関係ない。生きなければいけないから、悲しかろうと苦しかろうと、人は生きるのだ。
 私はそう思う。
 だって、そう思えば、生きることの悲しさは、少しだけ誤魔化せる気がする。




 テレビの電源を入れると、昼のニュースが今年の最高気温を更新と紹介していた。下手糞な人が撮影したのではないかと思ってしまう程、中継映像はコンクリートが跳ね返す熱でゆらゆらと歪んでいる。美人なニュースキャスターが、紫外線対策がどうこうとか、熱中症対策がどうこうとか、私の手前に置いてある新聞のトップを飾っている小学生誘拐殺人事件と同じ空の下とは思えないような呑気さをタレントと共に披露したのを見送り、私はリモコンでチャンネルを変えた。手の中にある数字のボタンを順番に押していく。その度にテレビの中の声が暗号のようにブツブツと言葉を途切らせた。面白そうな番組が見付からないので、一定のリズムを刻んでいた私の親指は最後に赤い電源ボタンを押して動きを止めた。
 扇風機が緩やかに首を振っている。スマホでツイッターを開いて、ぼうっとタイムラインを眺めた。広告にもうすぐ公開するらしい映画の予告編のツイートが流れている。窓の外からはいくらかの喧騒が聞こえてくるが、それでも雑音に囲まれて生活している身としては無性に物足りなさを感じる。けれど、スマホに入っている音楽を流す気にもなれなかった。
 暇を持て余した私は、近所のレンタル店に、最近レンタルが始まったらしいというハリウッド映画を借りに行くことにした。映画に興味は無いけれど、家で暇を潰す方法は限られているし、テレビのコマーシャルがしつこかったから一度くらい見てみても良いかな、なんて思ったのだ。ハリウッド映画ならきっと難しくないだろうし、頭を使う必要も無く見れるだろう。
 ちょっとあそこのレンタル屋に行ってくる。固定電話で主婦仲間との通話を楽しむ母に言い残し、玄関を出た。引き戸を開けたとき、白色だと錯覚してしまう程の日差しに目が眩んだ。続いて焼かれるような気温。網の上で焼かれるサザエの気持ちが理解出来る気がした。
 今は平日の真昼間。おおよそ一般的な職に就いている二十代半ばの人間が、暇を持て余して外をふらつく時間帯ではない。
 では、何故私はそれが出来てしまっているのか。
 理由は簡単だ。
 失業中だからだ。

 先週、仕事をクビになった。
 実際は、自主的に退職届を出した。だから、不当な解雇ではない。……なんて、綺麗な言い方をしているが、本当のところは、会社側から遠回しに追い出されたようなものだ。不当な解雇が出来ない世の中で、厄介な社員を穏便に追い出す為には、自主的に仕事を辞めるような状況に追い込めば良い。
 ここは君に向いてないんじゃないか、他にもっと合う仕事があるんじゃないか、環境を変えるのも悪くないと思うよ。
 それまで溜め込んでいたかのように、ひとつの失敗に対する言葉ではないように、矢継ぎ早に言われるようになって間もなく、会社の思惑通りに、私は退職届に押印した。
 退職前後は会社の上司達を本当に恨んだし、然るべき機関へと訴えることだって考えた。でも、就労中の待遇が悪かったわけでも、私がヘマをしてしまうまでの労働環境が悪かったわけでも、働いてる人達が悪人だったわけでもない。
 私が、愚図で、使えない人間だった。それだけの話だ。
 それだけだ。

 平日昼間のレンタル店は案の定閑散としていた。元々繁盛しているような店ではないけれど、だだっ広い店内には数人の店員と客を合わせても片手で収まる人数しかいなかった。店内では、流行りの歌手が作ったような声音で呑気に人生の喜びを歌っている。初恋がどうとか、友情がどうとか、そんな内容だ。幸せな空想に陶酔しているようで胸焼けがした。
 新作映画が陳列されている棚に、目当ての映画は置いてあった。有名なハリウッド俳優が主演を務めていたり、コマーシャルや情報番組でしつこく宣伝されていたりしたこともあり、そこそこの人気らしい。判を押したように並べられた同じタイトルのパッケージはそのほとんどに『貸し出し中』の付箋が付けられている。私はまだ中身が残っているケースをひとつ取り、中身を引き抜いてレジへと向かった。
 二泊三日のレンタル料金を払って外に出た。用が済んだからとっとと店を出たが、容赦の無い熱線を浴びてすぐに、もう少し店内に居座れば良かったかも知れないと後悔した。
 目が眩むような明るさの中、横断歩道の向こうでスーツ姿の人が歩いているのが見える。見た目の若さとスーツに着せられている雰囲気から、就活生らしかった。こんなに暑いのにクールビズも出来ないなんて気の毒に。まあ、私には関係が無いのだけれど。
 蒸し暑さに辟易しながら、それでも億劫な足を一歩踏み出させたとき、店の横の細い脇道から小さく猫の鳴き声が聞こえてきた。気の所為かと思い、けれど、本当にいるかも知れないという期待も込めて、今度は耳を澄ませると、もう一度、可愛らしい鳴き声がか細く聞こえてきた。
 店の端まで歩き、影でうっすらと暗いその道を覗くと、鳴き声の主はいた。小柄な黒猫だ。暑そうに地面に寝転がっている。首輪をしていないので恐らく野良猫だろう。人に慣れているのか、甘ったるい鳴き声でこちらを見る。誘惑に誘われるまま脇道へと吸い込まれた。私は、犬よりは猫が好きなのだ。
 猫は怖気付くこともなく、近付いた私の足に擦り寄ってきた。よく見ると、野良猫の割には毛並みも整っているし、随分と太っている。野良猫じゃなくて、誰かの飼い猫なのかも知れない。それなら人に慣れているのも合点が行く。私を見上げるその顔は、どうすれば人間に可愛がってもらえるのかをよく知っているように見えた。
「ちょっと待っててね」
 人の言葉を理解しているのだろうか。たぶん理解なんてしていない。猫は人間ではないから。それでも、私はその猫に言葉をかけてから踵を返した。猫は、私が体の向きを変える動作に合わせるように、にゃあと鳴いた。
 急ぎ足で信号を渡り、歩道を歩き、レンタル店から一番近いスーパーへ入った。ペットの餌が陳列された棚へ向かい、隅に控えめに置かれているそれを手に取って、これまた急ぎ足でレジへと向かった。奪うように店員からレシートと釣り銭を貰い、我慢が出来ず小走りで猫の元へと急いだ。復路での歩行者用の信号は赤だったが、待ちきれずに車が通らないタイミングを見計らって道路を横切った。

 一度引かれた線をなぞるように元の場所へ戻ると、猫はまだいた。ここで逃げられて折角買った猫用のおやつが無駄にならずに良かった。若干の警戒心すら見せない子猫は私が持っている袋に餌を期待しているのか、急かすようにねっとりと鳴いた。
「ほら、にゃーん」
 マタタビ入りの団子をチラつかせるが、思ったよりも猫は無関心だ。何度か鼻をひくひくと震わせて物欲しげに鳴くが、私が期待している反応ではない。
 確か、猫って、マタタビの香りを嗅ぐと酔うんじゃなかったっけ。だから、もっと無防備になって、酒に酔った人間が人恋しくなるように、猫もプライドを投げ捨てて甘えてくるのかと思ったのだけれど。
 予想に反した猫の態度の理由を考えていると、マタタビを見ていた猫の目線が突然私の後ろへと移った。かと思えば、私がその視線の先へ振り向くよりも早く、猫は私の背後へと走ってしまった。とんだ気まぐれに寂しさを感じながら、せめてその後ろ姿だけでも見送ろうかと振り返った。
 ところが、猫は思ったよりもずっと私の近くにいた。飼い猫のように喉を鳴らしながら、サンダルを履いた足に擦り寄っている。
 視線を上げてサンダルの主を確認すると、マスクをつけた若い男の人だった。気配に敏感な方ではないが、それでも、気配も無く現れたように感じた。少しボサボサとした黒髪で、その前髪の隙間から覗いているじっとりとした目線。松のような絵が入った紫色のパーカーで、猫背気味。陰気な雰囲気だと思った。あまり関わり合いになりたくないなあ、とも。
 でも、この猫の飼い主かも知れない。勝手にちょっかいを掛けてしまったのだし、何より、目を合わせてしまった。無言で立ち去るのは少し憚れる。
「……こいつ、あの、あれ、マタタビ興味ない」
 私がどうしようか逡巡していると、先に向こうが口を開いた。ボソボソとした声で、よく聞き取ることが出来たものだと自分自身に感心した。陰気な雰囲気に似合う、陰気な喋り方だった。
「……あ、あの……飼い主さん、ですか?」
 私は恐る恐る口を開いた。湿り気のある視線が私の顔を捕らえ、先ほどよりは幾らか張りのある声が返ってきた。
「……そう見える?」
「え、いや、まあ」
「……たまに、構ってるだけ。あ、か、飼い主、じゃない」
「……そ、そう、ですか」
「……」
 男の人は、手に提げていたスーパーの袋から缶詰とタッパーを取り出した。タッパーの中にはキャットフードが入っていてるらしい。男の人は缶詰を開けると、タッパーの中に入っていたスプーンを使って、キャットフードに被せるように缶詰の中身を掻き出し、グシャグシャと混ぜだした。目の前でそわそわと落ち着かない様子の猫は、餌を用意してくれていると理解出来ているのだろうか、私が聞いた中では一番の大きな鳴き声で何度も男の人の足に身体を擦り付けている。その音と鳴き声を聞きつけたのか、どこからか他の猫も何匹か現れた。にゃあにゃあと、庇護欲を掻き立てられるような、こう鳴けば人間は食料をくれるのだと理解しているような、そんな大合唱。羨ましい、と思ったのは男の人に対してなのか、猫達に対してなのか。
 黒い前髪の隙間が何を思案しているかは分からないが、男の人は黙ったまましゃがむと、足に擦り寄る猫の一匹を軽く撫でてから、猫の塊の中央へとタッパーを置いた。目当てのものが目の前に現れた猫達は、世界の全てがそこにあるように無我夢中に食らいつき始める。余計な考えなんてそこには無いような猫たちの様子に、私は無意識にため息を溢していた。
 ぼうっと眺めていると、ふと視界の端の視線に気が付いた。釣られるように目線を上方へ移すと、湿り気を帯びた彼の双眸が、私と交わった。
「……あ、そ、それじゃ」
 逃げるようにその場から離れた。小走りで家路をなぞる中、もう少し話をする努力はするべきだろうと、照りつく太陽に責められている気がした。
 たぶん、悪い人ではないのだとは思う。そうだと良いのにという私の願望だけれど。




 仕事をしていても、していなくても、平等に時間は過ぎる。時は金なりなんて言葉もあるが、時間は時間だし、金は金だ。金は使わければ消えないけれど、時間はこちらの意思など関係無く消えていく。二つは決して等号で繋がらない。
 目を覚ますと、太陽は真上に昇っていた。時計を見る前に、リビングの方向から主婦向けのお昼のテレビ番組のオープニングが聞こえてきて、現在の時刻を教えてくれた。
 レンタル期間はあっという間だった。映画を見る時間なんてたくさんあった癖に、何だか気分が向かなくて、結局一度も見ることは無かった。テレビ画面を眺めるだけの受動的な作業に、多大な体力が必要だなんて知らなかった。
 お金が勿体無い、と母が小言を言う。私が私のお金を使っているのだから、母に迷惑かけてるわけではないのに。仕事を辞めたことだって、借りた映画を見ないまま返すことだって、全部私が自分で決めたのだ。母が口を出すことではない筈だ。もう私は子供じゃない。
 今日も暑い日だ。先日程の暑さではないような気はするけれど、暑いものは暑い。点けっ放しのテレビが今日も真夏日だと教えてくれたので、申し訳程度に日焼け止めを塗って外へ出た。これって、本当に日焼けを抑えてくれているのだろうか。実感をしたことが無いから、いつも気休めをしているだけの気分だ。
 Tシャツ、サルエルパンツ、サンダル、すっぴん。近所にレンタルの返却に行くだけだから何も問題無いだろうと思って家を出たけれど、せめて軽い化粧くらいはしておくべきだったかも知れない。だんだんと後の祭りのような気分になってきた。たかが近所のレンタル店に行くだけなのに。
 理由は、私の脳裏に先日会った男の人が過ぎったからだ。でも、同じところで再び会うなんて少女漫画じゃあるまいし、そもそも私はそういうのは柄ではない。たぶん、男の人と会話をしたのは久しぶりだったから、少し意識しやすくなってるだけだ。何か、これ、男に飢えてるみたいですごく嫌だ。それに、この間の初対面でもすっぴんだったじゃないか。何を今更、だ。
 レンタル店の前はこの間よりも少しだけ人が多い。自動ドアをくぐる前に、建物の脇へと近づいた。猫の鳴き声は聞こえてこない。日陰を覗いても、人はおろか生き物の姿は無く、捨てられた空き缶が寂しそうに転がっているだけだった。
 そりゃそうだよな。何を期待していたんだか。
 深呼吸を一息して、踵を返した。心臓の奥を何か靄のようなものが覆っているような気がしたが、たぶん気温の所為だ。だって、ほら、店の中に入れば、冷房がついているから、もやもやしたものなんて何処かに消えた。茹だるような暑さだ、少し気が滅入ることもあるだろう。
 店内はこの間と同じ曲ばかりが流れている気がする。レンタル店の癖に、レパートリーが無いのだろうか。
 レジでDVDを返却すると、死んでいるような顔の店員がそれを受け取った。呂律が回っていないような、母音しか聞き取れない口調で店員としての決まり文句を言う。今日は日曜日だから、彼の口も休みたがってるのだろう。
 真っ直ぐ帰ろうかと思ったけれど、糸で引かれるように私はレンタルの棚が並んでいる方向へ歩いていた。折角来たのだし、前回のリベンジをしよう。今回は旧作で、一週間の猶予を作れば大丈夫。
 旧作が並ぶ棚を眺めながら足を進めた。ジャンルを問わず、店内に並べられた背表紙に順々に目を通していく。時々惹かれるタイトルのパッケージを手に取っては戻して、何か面白そうなものは無いかと期待を込めながら、ゆっくりと棚をなぞって歩いた。でも、裏面のあらすじを眺めては棚に戻してばかりでなかなか借りる物を決められない。普段映画を見ない癖に、少しでも質の良い映画を借りようと意地になっている自分に呆れた。何が良くて悪いのかも分からない癖に。
 レジに近い棚に、店員が組んだらしい特集のコーナーがあった。暑い夏を涼しく過ごそう、なんていう小学生のスローガンのようなポップと共に、和洋問わずホラー映画が並べられている。物騒なタイトルの背表紙が並ぶ中、いくつかのパッケージは店員のおすすめと言わんばかりに不気味な表紙を主張するように立てかけられている。その内の一枚を手に取り、差し込まれているレンタル用のケースを取り出した。ホラーはほとんど見たことが無いのだけれど、まあ、夏だし、たまにはこういうのを見てみるのも良いだろう。
 他にも何かを借りようか迷ったが、そのままレジへと向かった。これ以上数を増やしたら、何もしない一週間にしてしまいそうな気がしたからだ。今の私にはそれだけの体力すら残ってない。情けない話だけれども。
 旧作一週間の料金を支払って、母音だけの間延びしたような挨拶を聞き流して、出入り口の自動ドアをくぐった。一枚だけ入ったレンタル袋は見た目から感じる印象よりもずっと軽くて、歩く振動に合わせて持て余すように跳ねた。
 家路に着く前にもう一度だけ、店の横を見る。
 猫の鳴き声が聞こえた。あの店の脇の影からだ。さっきはいなかったから、私が店にいる間に来たのだろうか。糸で引かれるように数歩進んで、浮き上がる足を地に着けた。もしかして、あの人も来ているのだろうか。期待と後ろめたさが、ずるずると私を前後に引っ張っている。
 ふと気付いて、フラフラと迷う両足を止めた。期待? どうして期待しているのだろう。後ろめたさだってそうだ。私はあの男の人に対して何か負い目を感じるようなことをしただろうか? ただ猫の鳴き声に引き寄せられただけのことじゃないか。そうだ、それだけだ。とても単純な話だ。
 もう一度耳をすませると、鳴き声はやっぱり店の脇から聞こえる。私は幼い子供に言い聞かせるように、どっち付かずにいた重心を前へと動かした。心音が早まっていることなんて、私は全く気付いていない。気付いてないってば。
 視界から店の壁が途切れて、薄暗い空間が開けた。陽の下に比べて涼しい空気と、お店が使っているらしい業務用の大きなゴミ箱、一匹の猫、そして男の人。あ、と声をあげたのは、私と男の人、どちらだったのだろう。
「……あ、えっと……こ、こんにちは」
「…………こ、こんちは」
 気恥ずかしさから、相手の顔を見ることが出来ない。その代わりにそば立てていた耳が、私の俯きながらの控えめな挨拶よりも更に小さな声で挨拶が返ってきたことを拾い上げた。
 やっぱり、少しでも良いから化粧して、もうちょっとちゃんとした格好をするべきだった。後悔が私の頭を重くする。でも、挨拶をした手前、すぐにこの場を離れてしまったら変に思われそうだ。
 誤魔化すように、男の人の足元で餌を食べている猫へと近付いた。既にほとんど食べ終わっていたらしい猫は、ゴロゴロと喉を鳴らしながら差し出していた私の手へ擦り寄った。この間見かけた猫とは別の猫らしいが、同様に随分と人慣れしている。擦り寄られる度に胸の奥がきゅうっと心地良く締まった。
 一頻り猫の毛並みを楽しみ、意を決した私は顔を上げた。しゃがんで丸めていた背中を少しだけ伸ばして、緊張で固まっている唇を無理矢理こじ開けた。



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