誰も居ない屋上で
 授業をサボった。初めての事だった。
 屋上の鍵が壊れている事をつい最近知ったのだ。普段から屋上には近付くなと生活指導の先生が口うるさく言っているから、たぶんこれを知っているのは一部の先生と用務員さんと、私だけだ。
 屋上で授業をサボる。青春の1ページに刻むべき必須イベントだと直感した私は、ちょっと苦手な授業の時間にこっそり屋上へ行くことにした。冬は晴れていても寒いので、マフラーと膝掛けはしっかり持ってきた。

「うひゃあ」

 ドキドキと高鳴る鼓動を自分の内側に感じながら、恐る恐る引き戸に手をかけた。開けた瞬間に、ブワッと風が私の顔面を撫でていき、冷たい空気がぴしゃりと頬を叩いていく。身を屈めながら戸を閉め、屋上全体を軽く見渡した。
 人の手が入れられていないらしく、屋上のあちこちに枯れ葉が散らかっている。雨に濡れながら腐っていったらしいそれらは、屋上の端にいくつかの塊を作りながら、どれも腐葉土の状態になっていた。お世辞にも綺麗な状態とは言えない有様だ。
 どこかに腰を下ろせる場所は無いかと探したが、端は大体腐葉土か濡れているかであまり気が進まない。どうせ誰も来ないのだし、と思い、屋内への出入り口のすぐ横にしゃがんだ。此処は陽当たりが良いらしく、濡れていなければ、枯れ葉等のごみも無かった。
 持ってきた膝掛けを足に掛けた。ポケットから、今日こっそり親の戸棚からくすねてきた煙草を取り出す。普段は家でしか吸わないのだけれど、一度くらい学校で味わうっていうスリリングな体験も悪くないだろう。

「優等生が珍しいじゃねぇか」

 煙草に火をつけたと同時に隣から引き戸が開く音、そして声。まさか大人の誰かかと肩を跳ねたけど、音の主の方へ顔を向ければ、そこに居たのは、校内ではあまりにも有名なクラスメイトだった。

「えーっと、く、く、く」
「空条」
「そうだ空条くん。ごめん人の名前覚えるの苦手で」
「別に構わねーぜ」

 教員の誰かじゃなくて良かったと安堵の息が漏れた。勝手なイメージだが、空条くんならたぶん誰かに告げ口するなんて事はしないと思う。そもそも、本来なら授業を受けている筈の時間に此処に来ている時点で誰かに言う気など無いだろう。
 空条くんは私の近くの乾いた場所に腰を下ろした。その大きな身体は、座り込んでも大きなままだ。
 制服のポケットから煙草の箱を取り出したが、中身は空だったらしく、その逞しい手の平でぐしゃりと握り潰した。その所作ひとつひとつに感じる男らしさが本当に同い年なのかと疑ってしまう。こんな不良だし、実は2年くらい留年してますって言われても納得してしまうだろう。

「1本貰って良いか」
「どうぞ。口に合うか分からないけど」
「ん」

 手元の箱から一本取り出し、空条くんに渡した。煙草は銘柄でだいぶ味が違うらしいから(私はこの銘柄しか吸った事が無いのでよく分からないのだけれど)空条くんの好みに合わなかったら申し訳ないなあ。
 空条くんは私から煙草を受け取ると、慣れた手つきでライターを使って火をつけた。風で火が揺れないように手を添える仕草が何だか色っぽい。こいつ本当に留年してないんだよな? 私と年齢一緒なんだよな?

「空条くん出席大丈夫なの? しばらく来なかったときあったけど」
「お前に心配される程じゃねえよ」
「そっか」

 空条くんは一ヶ月程学校を休んだ。難病を患ったとか、遂に人を殺してムショ入りしてしまったとか、生徒の間では色んな憶測が飛び交った。連絡自体は学校に入っていたらしいが、実際の欠席理由は先生達しか知らない。
 冬休みが終わって、何食わぬ顔で再び学校に顔を出した空条くんは、女の子達の質問攻めには一切答えなかった。怖い顔で喧しいと怒気を孕んだ声を荒げてからは、その踏み込んではいけない雰囲気を漂わせる彼に尋ねる人はいなくなった。私もこの場で休んだ理由を訊くつもりは無い。人が秘密にしようとする事を暴くというのは、暴く方にも暴かれる方にも利益なんて生みやしない。知らぬが仏、言わぬが花。

「そういうお前こそ良いのか。優等生さんがこんなところ居て、おまけにこんなもんまで吸っちまってよ」

 ニヤリと笑いながら自分の吸っている煙草を右手でひらひらとさせる空条くんは、何だか楽しそうだ。私はそれに応えるように、口に溜まっていた煙を思い切り吐き出してニヤリと笑い返した。寒さが相俟って、空気に消えていくそれは煙草の煙なのか白んだ息なのか区別が出来なくなっていた。

「たまには良いじゃん。走ってばっかだと息切れしちゃうのよ」
「なるほどな」

 私の事を優等生なんて呼ぶ空条くんだが、私よりもずっと頭が良いのは知っている。
 というのも、以前たまたま空条くんのテストの結果を見てしまった事があった。授業も真面目に取り組む様子の無かった彼の点数が、授業も課題も真面目に取り組んでいた私の点数よりもずっと高かったのを見てしまった時、この人に勝てる事は絶対に無いのだろうと確信してしまった。生まれ持った素質の差というのは、往々にして存在する。
 風が何度も髪と頬を撫でていく。その度に煙草の煙が空気にかき混ぜられるように消えていく。風の冷たさに反して、空は太陽が眩しい。

「天気いいね」
「ああ」

 ちらりと空条くんを見る。空条くんは表情を変えるわけでもなく、短い相槌と一緒に紫煙を吐き出した。
 以前母に、あんたが煙草を吸う姿は子供が背伸びをしようとしているだけにしか見えない、と言われた事を思い出した。つまり、まるで自分が大人になったと錯覚している子供の姿は、子供らしい子供よりもずっと幼稚だという事だ。結局、母のその言葉に対して私は意地になってしまい、今もこうして幼稚な証明を吸い続けている。
 私が煙草を吸う姿は幼いらしいが、同い年の空条くんからは子供らしさなんてものは一切感じない。それどころか、どこか大人っぽい哀愁すら見えるような気がした。本当の大人が見たら、全然違うのかも知れないけれど。

「空条くんさ、なんか雰囲気変わったね」
「名前も覚えてない癖にそう思うのか?」
「う、名前は確かに覚えてなかったけど、でも顔は知ってたよ。登校中は嫌でも目に入るし、身長もでかいし。第一、クラス一緒じゃん」
「一年間クラスが一緒で苗字も覚えて無いんじゃあ説得力に欠けるな」
「それはごめんって……」

 意外とねちっこい所があるらしい。それか、ニヤリと笑っているから冗談なのかも知れない。今まで目の前の大男と話した事など無かったから、性格や人との距離の取り方など、彼の内面については何一つ知らない。
 でも、確かに春に比べると彼に何かの変化が起きている、ような気がする。具体的に説明しろと言われると、困ってしまうのだけれど。

「で、何かあったの?」
「あ?」
「雰囲気変わるような事」
「知らねーな」
「本当に?」

 ひょっとしたら私の気のせいなのかも知れない。一ヶ月以上も姿を見なくなってしまうと、どんなに有名な人だとしても印象は変わってしまうものだろう。加えて、私は特別空条くんと親しい間柄でもない。ただのクラスメイトの一人だ。
 そう考えたら、ちょっと自信が無くなってきた。本当は、空条くんは何一つ変わっていないのかも知れない。変わったのは私の考え方や感じ方で、それが空条くんへの印象を変化させた、なんて可能性だって否定出来ない。
 それに、何だかこの質問は、私が深入りしないと決めた空条くんの空白の一ヶ月に踏み込もうとしているようにも聞こえた。
 話題を変えよう。

「そういえばさ、ちょうど空条くんが学校に来るようになったくらいに、一個下の学年の子が1人亡くなったらしいね。何か知ってる?」
「……さあ、知らねーな」
「そっかあ。まあ学年違うと分かんないよなあ」
「気になるのか」
「え、うーん、まあ、人並みに」

 すっかり短くなった吸い殻をコンクリートの床にグリグリと押し付けながら、空条くんが私を見た。ハーフだという彼の緑色の瞳は私に何かを言わんとしているように見えたが、それが一体何なのか、二十年弱しか生きていない私には推し量る事は出来なかった。
 ただ、その力強い瞳は、興味本位にそれを口にした私を威圧しているように感じられた。これ以上この話題に踏み込んではいけない。そんな雰囲気だ。空条くんの地雷に深入りしないようにと変えた話題のつもりが、しっかりと地雷を踏みしめてしまったような気がした。
 何に対してなのか分からない後ろめたさを、煙草と一緒にコンクリートに擦り付けた。長さの無くなったそれは、私の握力によって歪な皺を作りながら先端の熱を手放した。

 私が持ってきた煙草の味を気に入ったのか、空条くんはもう一本要求してきた。悪いなと言いながらも詫びれた様子の無い彼に釣られるように先程の事を謝ると、私が気にする必要の無い事だという意味合いの言葉が返ってきた。それは、私が感じた威圧と後ろめたさへの暗黙の認容にもとれた。
 空条くんに煙草をもう一本渡してから、私達は沈黙した。時々風が周辺の木々を引っ掻いたり、学校の前を車が通ったり、そんな日常の音が誤摩化してきたが、それでも私と空条くんは、終業の鐘が鳴るまで口を開く事は無かった。
 口を開かない間、空条くんは何を考えていたのか、私は知らない。無言で煙草を吸う姿は、やっぱり大人びていて、年齢に似合わない位に大人び過ぎていて、たった数ヶ月前に見たときの彼とはやっぱりどこか違うようにも思えた。私の思い込みだというのならそれまでだが、それでも、やっぱり私の目にはどうしても、空条くんの中で何かが変化したように見えてしまうのだ。煙草の煙を吐き出す姿がどうしても、内側に溜め込んでいる何かを溜め息として吐き出しているように見えてしまうのだ。それは、年齢に対してあまりにも不相応な翳りだ。
 終業の鐘を確認した後、風で乱れた髪を整えながら、そろそろと音を立てないように屋内への戸を開けた。遠くから人の声は聞こえるものの、どうやら近くには誰も居ないらしい。先生に見つかる前にとっとと降りてしまわないと。

「ねえ、また今度こうやって一緒にサボろうよ」

 屋内へ入る前に、恐らく本日最後になるであろう会話を交わす事にした。空条くんは、まさかそんな誘いをされるとは夢にも思ってなかったというように(そりゃ当然だろう)少しだけ目を丸くした。おお、意外と表情が豊かなんだ。
 でも、そんな表情をしたのは一瞬だけで、すぐに普段通りの仏頂面に戻ると、くわえていた煙草を吐き出して足ですり潰した。

「良いのか? 優等生さんがそんな事しちまってよ」
「良いよ。女子高生っていう職業でいられるのもあとちょっとだし、格好良い男の子との思い出の1つくらい作らせてよ」

 冗談めかした笑いを浮かべながら、冗談っぽく言うと、空条くんが小さく溜め息をしている事に気が付いた。煙草を吸っていたときの、自分の中に溜まっている何かを吐き出すようなものではなく、単純に私の言葉に呆れている溜め息だった。

「煙草のお礼も貰っておきたいしね」
「……やれやれだぜ」

 帽子の鍔をいじる空条くんの返答は、イエスなのかノーなのか分からない。どちらにも捉える事が出来た。
 私も別に、本気で約束をしようと思っていたわけでは無かった。きっと空条くんも私も、また授業をサボろうと思ったら此処に来るだろう。そのタイミングが合ったときに、また煙草のお裾分けでも出来れば良い。それくらいの軽い口約束で充分だった。

「そういえばよ」
「はい?」

 階段を下り始めた時、今度は空条くんが声をかけて来た。振り向くと、階段の段差で身長の高い彼が増々大きく見えた。

「てめーの名前を知らなかった」

 空条くんの言葉に、思わずプッと堪えきれない笑いが溢れてしまった。

「なあんだ、空条くんも人の事なんて言えないね」










2015.1.7