いごころ
 この町の冬は寒い。
 それはあくまで都心部とこの町の冬しか知らない人間の感性による感想だが、人間が極々普通の生活を送る為には暖房器具を使わないとやってられない程度には寒く、この地域に暮らす人々は皆寒いと口にする。多数決が正しいとされるこの国に於いて、私の感性は正しく機能している。
 そんな私が暮らしているこの町、杜王町にも、遂に雪が降り始めた。
 もうそんな時期かあ、と眠気で怠い身体を起き上がらせた。ボサボサに絡まった髪の毛がだらしなく視界を奪おうとするので、手を櫛代わりにして簡単に整える。
 ベッド脇に置かれている目覚まし時計を見ると、どうやらセットした時間よりも少し早く起きる事が出来たらしい。誰に見せるわけでもない小さな偉業に、少しだけ優越感を感じた。
 再び毛布に包まりたい気持ちを抑えながら、ずるりと身体をベッドから引きずり出した。換気と眠気覚ましの為に自室の窓を開けると、びゅうっと冷たい風が顔を掠めた。あまりの冷たさに反射的に窓を閉めた。
 冬は好きではない。寒いし、家の前の雪かき面倒臭いし、身体を動かしたくなくなるし。都内の大学に通っていた頃は、雪が降らない地域出身の友人に羨ましがられたが、楽しそうだの、スキーが出来るだの、想像上の雪についての魅力をあれこれ語られても、実体験として雪がどんなものなのかを知ってしまっている以上は、そんな友人の言葉は馬の耳へ念仏を唱えているようなものにしか感じなかった。
 眠気覚ましの換気は中々身体に応えたらしく、無意識にベッドへ足がフラフラと動く。普段ならこのままもう一度暖かい毛布に包まって心地良く二度寝をする。だが、今日はそれをしてはいけないのだと自分を戒めて、気持ち良さそうにこちらを眺めている毛布の誘惑を振り切って自室を出た。
 床の冷たさが素足を伝って全身をひやりと駆け巡る。寝る前に履いていたはずの靴下は寝ている間に脱いでしまったらしい。1階に下りてすぐ、玄関に並べられているスリッパの1つを履いた。
 冷えた空気が身体の動きを妨害する。早くリビングのストーブで暖まりたい。それだけを一心にかじかむ身体に鞭を打った。
 北の地方の人間は寒さに強そうなんて言われることがあるが、あれは真っ赤な嘘だ。少なくとも、私には当てはまらない。
 何度も言うが、私は冬が好きではないのだ。
 
 リビングに来てすぐにインスタントコーヒーを淹れ、電気ストーブの電源を入れた。この季節の朝は、家の中でも息が白くなる。エアコンを入れたまま眠りたいが、電気代がかかるのは嫌だし、身体にも悪そうだから実践した事は無い。乾燥は喉にも肌にも悪い。
 椅子に座り、リモコンでテレビの電源を入れた。画面から流れるニュース番組は、今年のインフルはどうたらとか、芸能人同士の恋愛がどうしたとか、さして興味を惹かない事ばかりを喋っている。何となく流れて来る映像を眺めてはみるが、内容はあまり頭に入ってこなかった。まだ脳が覚醒してないのかも知れない。
 少し遅れて母が起きてきた。こんな時間に起きてるなんて珍しいじゃない、なんて言ってくる。普段の私は休日の午前中はずっと寝ているからだ。
 今日は、大事な用事がある。
 正午に駅前に、という約束だった。準備の為に逆算した時間よりももう少し早く起きてしまった。止め忘れた目覚まし時計が自室の方から鳴り響くのが聞こえてきた。まだ寝ている父に文句を言われてしまうので、小走りで止めに向かった。幸い、父は起きなかった。
 リビングに戻ると、母が予約設定をしていた炊飯器からご飯を茶碗に盛っていた。私は昨晩母が作り置いた味噌汁を温めて母と私の分、二つのお椀に注いだ。

「へえーあの女優結婚したの! また不倫でもして別れたりしてね〜」

 ニュース番組を見ながら母が驚嘆の声をあげた。
 私と違って、母はゴシップニュースが大好きだ。こんな田舎に人生を据え置いていると、近所やテレビの向こうの噂話くらいしか暇を潰せるものが無いからだ。誰が不倫したとか、誰がパチンコで借金をしたとか、そんな下らない話に華を咲かせる事が生き甲斐になっているようだった。
 他人の人生なんだから、そんな話をしたって自分には一切利益なんて無いのに。いくら情報を集めたって、いくらそれに関しての意見や感想を共有出来たって、そこから生まれるのは精々同じように田舎に飽きたおばさん達からの共感と、他人を見下す事によって得られる小さな優越感だ。それも、傷口に唾を塗るよりも効果の薄い応急処置程度の。
 母は画面の向こうで幸せそうに結婚の記者会見を開く女優を尻目にしながら、彼女が過去に犯したらしい失態について、ご飯を咀嚼しながら器用に話してくる。私は短い相槌を打ちながらその相手をしないといけなかった。
 あー、下らない下らない。しょうもない。馬鹿馬鹿しい。何の価値もない。人生というものは、何か価値を見出せないとこうなってしまうのだろう。我が母ながら、とても愚かしく思えてしまう。

「そういえば承太郎くんって覚えてる? あんたのはとこの」

 突然振られた話に、私はマグカップを傾ける手を止めた。
 承太郎、じょうたろう、名前を脳内で反芻させて海馬を叩く。ぼんやりとだが、緑色の瞳の少年が記憶として浮かんできた。

「あ〜……えーっと……中学生の時に一回会ったのだっけ。1つだか2つだか上の」

 母の従兄弟は若い頃から結構売れてるジャズミュージシャンだ。母とは仲が良いらしく、忙しくないときはよく連絡を取り合っている。そのジャズミュージシャンには私より少し歳が上の息子が居る。

「そうそう、ハーフの子。昨日貞ちゃんと久々に電話したらさ〜承太郎くんもう結婚してるんだって。しかも4歳だったか5歳だったかの子供もいるそうよ」

 中学の時、一度だけ家族で母の従兄弟の家へ遊びに行った事があった。母の従兄弟の奥さんが資産家の娘だとか何とかで、家の大きさに驚いた記憶が強く残っている。
 そして彼らの息子が、私のはとこにあたる空条承太郎くんだ。緑色の瞳が、同じ国の人間とは思えない独特さを感じさせた。

「へえ」

 そんな溜め息のような返事しか出てこなかった。たった一度しか会った事も無く、その記憶すらぼんやりとしているような相手の結婚報告など聞かされても、そんなものだ。
 誰が結婚したとか、誰が子供を作ったとか、そういう話をすると、母の話の行き着く先というのは大体予想が出来た。きっと今回も予想通りの話題へと話が移るに違い無い。
 止まっていた手で再びマグカップを傾けた。コーヒーのほろ苦さが喉を通って胃の中へと雪崩れていく。少し温くなっていた。

「あんたも早くいい人見つければ良いのにねえ。結婚しててもおかしくない年齢なんだし」

 やっぱり、また始まった。予想通りだ。
 母はこの類いの話を、もう数えるのも嫌になって忘れてしまったくらいしている。姉が成人するとほぼ同じくらいのタイミングでとっとと結婚して嫁いでいってしまった事もあり、結婚はおろか男の影すら臭わせない私に一人で勝手に焦りを感じているらしい。
 私は出会って数ヶ月の男と人生を共に歩む決断なんてしないし、身を固める前から無計画に妊娠してしまうような失態を犯そうとも思わない。姉とは同じ血を通わせていても、中身まで同じ人間ではない。

「そーですね」

 某お昼の番組宜しく、棒読みで感情のこもっていない相槌を返した。私の様子を気にする事も無く、母は決壊したダムのようにわあわあと言葉を捲し立てるのを止めない。

「会社に気になる人とかいないの?」
「その話うんざりする程したじゃない」
「母さんはお見合いとか合コンとかそういうので見つけてきても全然構わないのよ。あんたそうでもしないと自分から見つけたりしないでしょ」
「そーですね」

 貴方を心配して言ってるのよ、なんて母は言う。もう耳に胼胝が出来てしまったその話を聞き流しながら、私は朝食を完食した。不味くなるような話を聞かされながらも、ご飯は変わらず美味しかった。

 顔は洗った。朝食も食べた。歯も磨いた。よそ行きの服を着た。髪も整えた。化粧もした。鞄の中身も確認した。忘れ物は無い。よし、準備は大丈夫。
 時計を見ると、まだ少し時間に余裕があった。そわそわと身体を落ち着かせる事が出来ていない自分に気付く。様子を見ていた母が「珍しくそんなにめかしこんじゃって、デートでもするの?」と茶々を入れてくる。そういうのじゃないからと、少し気恥ずかしい気持ちで反論をした。そう、今日の用事はデート、ではない、と、思う。
 頃合いを見て家を出た。
 まだ雪は積もっていない。でも天気予報では一日中降ると言っていたから、帰る頃には少し積もっているかも知れない。空気はビシビシとその冷たさを乱暴に肌にぶつけてくる。頬が冷たい。これだから、冬は嫌いだ。
 少し気取って履いたブーツは普段のパンプスよりもヒールが高い。歩きながら、失敗したかも、と思った。そんなに沢山歩く事は無いだろうと思って選んだのだが、慣れない高さだと単純に歩き辛い。日曜日だからか、普段よりも街中を歩く人の量が多いような気がする。

 駅前に着いた。腕時計で時間を確認すると、約束の時間の3分程前だった。時間には間に合ったと胸を撫で下ろすと、駅の入り口付近には既に約束をしていた人の姿があった。彼も丁度私の姿を見つけたので、慌てて彼の元へ駆け寄った。

「ごめんなさい。待ちましたよね」
「いえ、丁度さっき来たところですよ」

 もっと早くに家を出るべきだったと内心後悔した。彼は直属の上司じゃないけれど、事務の私よりは上の立場だし、歳も上だ。申し訳ないと思っていると、気にしなくていいと朗らかな笑みを浮かべながら言われた。釣られて私も頬が緩んだ。

「今日は宜しくお願いします。吉良さん」










20150406