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 その話を聞いたのは登校中だった。同じクラスの男子が2人、たまたま近くを歩いていたのだが、信号で足を止めたときに彼らの話し声が聞こえてきたのだ。

「そういやあさァ〜億泰が来るちょっと前によォ、兄貴が変死してたらしいっての知ってるか?」
「え、何それマジなの?」
「マジマジ。部活の先輩が見たらしいんだけどよ、電線の上に引っかかって真っ黒焦げだったらしいぜ。そこに億泰と仗助もいたとか」
「何それ? 仗助も何か関わってんの?」
「さぁ。だとしたら不良ってヤベーな。関んねー方が身の為だわ」
「全くだな〜ははは」

 人の話を盗み聞きするのは良くないことだ。そう思いつつも、名前はその話から耳を逸らすことが出来なかった。
 当然だが、名前は億泰の家庭事情を知らない。家庭とはプライバシーの領域であり、そう安安と他人が踏み込んで良い世界ではない。暗黙に浸透しているそんな考えは、名前にももちろん備わっている。それ故に、億泰にも生活環境と過ごしてきた時間がある、という考えに及んだことは無かった。好奇心と、踏み込むべきでは無いという経験則からの警鐘が、名前の中でシーソーを揺らしている。
 耳をそばだてていると、男子二人は他にも、億泰の家が廃墟のような状態らしいということ、時々呻き声のようなものが聞こえてくるらしいことなど、まるでホラー小説にしか出てこないような噂を都市伝説を語るように話した。
 中途半端な時期での編入、その直前の兄の死、廃墟のような家、呻き声。たかが噂、されど噂。不気味さを感じるには充分だ。それは謎があればあるだけ比例する。消しゴムを拾ってくれた、なんて親切では補いきれない程だ。
 教室に入り、点々と固まって雑談に花を咲かせるクラスメイトの間を辿々しくすり抜け、閑散とした自分の席へと腰を下ろした。まだ隣に億泰はいない。彼はいつも始業のチャイムが鳴る直前か、もしくはその直後にやって来る。
 時々、教室内の喧騒から億泰の名前が聞こえてくる。兄がどうとか、死因がどうとか、そんな内容を話しているらしかったが、噂の中心人物が教室に入ってきたことに気が付くと、チャイムの音と一緒に掻き消えた。時間潰しに、と開いていた本は目が滑って、左手がページを捲ることは無かった。

「よう」

 毎朝、席に付くついでに億泰から挨拶をされる。その度に身構えるが、声を出せないまま誤魔化すように会釈をしていた。いつかこの態度に何かを言われるのではないかと、この時間は必ず両手がスカートに皺を作っている。

「なあ苗字、数学の宿題やったかァ? 俺忘れちまってよォ〜。当てられるかも知れないから後でちょっと見せてくれねェかァ?」
「えっ、あ、う、うん」

 名前の返答に億泰はニカッと笑った。釣られて緩んだ名前の頬は、引きつって苦い笑みを作っていた。
 たぶん、悪い人ではないのだとは思う。そう思う自分の判断を信じて良いのか、名前は結論を付けられずにいる。勘違いかも知れないし、過大評価をしているのかも知れない。恐怖やストレスに耐える為に脳がそう認識しようとしているのかも、とすら思う。名前は、自分自身への不信を拭うことが出来ずにいる。
 チャイムが鳴って、数分後には1限が始まる。数学。億泰に宿題を見せなければいけない、数学。鞄からノートと教科書を出すと、タイミングを見計らっていたのか億泰が話しかけてきた。

「いつも悪いなァ、苗字」
「い、いえ、別に、これくらい」
「ちゃんと宿題やってくるんだからすげェよなァ。俺なんて家帰ったらすぐ寝ちまうからよォ」

 億泰は他愛のない話をしながら名前のノートの内容を自分のノートへと写していった。器用に口と右手を同時に動かしながら、ガリガリと粗暴な字でノートが埋められていく。始業のチャイムが早いか、億泰がノートを写し終わるのが早いか。どちらにせよ、この時間が一秒でも早く終わるようにと名前は願った。

「苗字って真面目だよなァ」
「そ、そう、かな」
「だってよォ〜、お前宿題忘れたことねェし、授業中に居眠りもしねェだろォ。尊敬するぜ」
「そ、そんなこと、ない、よ。普通だよ」

 言葉を発してから、名前は己の返答が億泰の言葉を暗に否定していることに気が付いた。失言だったかも知れない。俺の言うことが間違っているのか、なんて怒鳴られてしまうかも知れない。迂闊なことを言うんじゃあない、と心臓が警鐘を鳴らしたてている。
 ネガティブな方向へ豊かな想像力を膨らませていると、シャーペンを筆入れに仕舞った億泰は名前へ借りていたノートを差し出しながら、名前が恐々としていると気付くこともなく軽い口ぶりで言った。

「そんなことねェと思うけどなァ。すげーよお前」

 億泰にとっては何と言うことも無い、頭にふっと浮かんだから口にしただけの他愛の無い一言。しかし、名前にとっては強靭な威力を持った一言となった。胸の奥がこそばゆいような、けれど心地の良い何かで満たされるような感覚。それと同時に己が先程まで身構えていたものが一方的な偏見による空想だったと気付いて恥ずかしさを感じた。

「ほらよ」
「……あ、うん……ごめん……」
「なんで謝ってんだァ?」

 始業のチャイムと先生の到着によって2人の会話は強制終了と相成った。
 威圧的な出で立ちではあるが、億泰が能動的に名前を脅すような行動は取らない。不躾に物を言うことは度々あるが、悪意や故意を感じたことは無かった。億泰からは嫌味を感じないのだ。
 億泰が怖いのは、自分がそう思い込んでいるからだ。
 名前はこれまでのことを思い返した。この人が自分の前で、例えば誰かに怒鳴ったり、脅したり、はたまた暴力を振るうなんてことをしたことがあっただろうか。名前は最初からずっと、その出で立ちからの印象だけで怖い人なのだと決めつけていたのだ。
 本当は、全然違うのかも知れない。
 名前の心臓が少しだけドキドキと逸りだす。けれどその心音は、決して怯えからくるものではなく、そう確信は出来るのに、名前はその理由へ思い至ることが出来なかった。









2017.10.15