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 あの日以来、億泰が名前に話しかける事が増えた。それはただ単に、色々な授業で隣と組まなければならない事が増えたからという、生徒にはどうしようもない事情が理由の大半を占めていたからなのだが、名前にとってはどんな理由であろうと、億泰が自分に関わってくる事が怖くて仕方がなかった。早く席替えをして欲しいが、面倒くさがり屋の担任が他の生徒から同様の要望を受けている際に渋っていた為、すぐに叶う事は無いのだろうと諦めていた。

「はあ」

 テレビを見ながら、長い長い溜め息が出た。こんな学校生活が続くのかも知れない思うと零さずにはいられなかった。画面の向こうでガヤガヤと騒いでいる芸人達が羨ましい。

「どうしたの、溜め息なんかしちゃって」
「え、あー……疲れたなあって思っただけ」
「そう。学校大変?」
「んー、まあ、まだ慣れないかなあ」

 まさか、まだ友達が出来ず、しかも隣の男子が怖い、だなんて言う事は出来なかった。小学生の泣き言ではあるまいし、それにまだ入学をしてから日も経っていない。隣の席に関してはどうする事も出来ないが、友達を作る事はまだまだこれから充分可能な話だ。

「まあ、高校生なら周りももっと大人になるし、中学の頃のような事は無くなるから。あまり気負わないで大丈夫」
「……うん」

 母の言葉に名前は力の無い笑顔で答えた。食器を洗っている母は、名前の方を見ていない。名前もすぐにテレビへと視線を戻した。
 画面の向こうにいる芸人のまた来週、という言葉を合図にテレビの電源を切った。一週間後、またこの番組を見るときの自分はどんな心持ちになっているのだろう。少しだけ考えたが、母に寝るように注意された為止めた。
 母の言葉は、きっと正しい。今までもずっと正しかったのだから、きっと今回も正しい筈だ。名前はそう思ったが、それでも立ちはだかっている不安を払拭するには至らなかった。



 名前の中学校時代は満たされたものではなかった。運が悪かったと言えばそれまでだが、彼女の性格が全く一因していなかったとも言いきれない。
 詰まる所、名前は友人からいじめを受けていた。漫画にあるような、靴を隠されたり机に落書きをされたりという、簡単に教員に問題視されてしまうようなものではなかった。とにかく、ひたすらその存在を無視し続けられるという、端から見たら気付き難い仕打ちだった。内気な名前は、大人の誰かへ助けを求めるという決断まで踏み切れず、とにかく首を絞められるような息苦しさを我慢し続けた。それが、名前の様子のおかしさを訝しんだ母に問いつめられるまで、名前の精神が疲弊しきってグシャグシャになるまで続いた。大人の介入によって問題のクラスメイトとも和解はしたが、あくまで形式として行われたそれが、名前の傷を癒すものにはとてもならなかった。
 名前が中高一貫のこの学校へ来たのも、家から然程離れていないという通学の利便性もあったのだが、それ以上に、出来る限り同じ中学の人達と離れたいという気持ちがあったからだった。自分がクラスメイトから疎まれていたという事実を知らない世界へ行きたがった。中学での出来事を鑑みた両親も、名前の意志を尊重した。



 自室のベッドに寝転がり、天井をぼんやりと見上げた。しんとした部屋には、時々外から車の音が聞こえてくる以外には何も無い。
 時々、名前は一人でいると、中学の頃の出来事を思い出す。それは彼女にとってその経験が未だに昇華しきれずに、記憶として脳内にこびり付いてしまっている事の表れだった。当時の感情も鮮明に思い出してしまうのは、記憶としてこびりついている副作用だ。抱えた傷が癒える日を、名前が思い浮かべる事は出来ない。
 高校は同じ事にはならない筈だ。きっと、普通に友達が出来て、普通に誰かに恋をして、もしかしたら付き合うなんて経験もして、時々辛い思いをして、それ以上に楽しい思いをして、やがて大人になったとき、思い出として綺麗に振り返る事の出来る、そんな3年間になる筈だ。
 そう言い聞かせる度に、名前の脳裏には億泰の顔が過った。この男に責任や原因は全く無い筈だが、強面の風貌や体格にすっかり怯えきってしまった名前にとって、億泰は大きな脅威になっていた。
 目覚ましをセットし、部屋の電気を消した。毛布を被り、目を閉じ、そして明日からの事を考えた。
 我慢をしよう。それが、名前が出した結論だった。
 この1年、いや、席替えが行われるまでだ。きっと、長くとも夏休みまでの辛抱だ。たった2、3ヶ月程度だ。我慢していればいつの間にか過ぎている。我慢は得意だ。
 枕の感触と毛布の温かみは、名前の不安を少しだけ和らげた。夜はまだ肌寒い。手足の冷えが段々と無くなる頃に、名前は眠りについた。

 その翌日、噂話が耳に入った。億泰の兄が死んだという話だった。









2016.3.10