11


 涙を拭って保健室に向かった。教室には戻りたくなかったし、授業時間なのに廊下をふらついていて他の先生に見つかるのも面倒な事になるだけだと思った。保健室のドアを開けると、保健の先生が笑顔で迎えてくれた。

「あら、苗字さん。どうしたの?」
「……ちょっと、お腹痛くて、や、休ませて下さい」

 体温計を渡されたので、左脇に挟む。保健室で休んだ事を証明する為のカードを渡され、名前を記入しようとした所で右手首の事を思い出した。これだと書けない。
私が動きを止めた事に気付いた先生は、私の右手首の包帯を眺めながら尋ねてきた。

「そういえば怪我大丈夫?」
「…ち、ちょっと不便ですけど、大丈夫です」
「無理しちゃだめよ〜カード書くのゆっくりで大丈夫だからね」

 左脇に挟んだ体温計を右脇に移し、左手でゆっくりと自分の名前を書く。授業のとき程慌てる必要も無かったからか、思いの外綺麗に書けた。案外左手でもいけるものなのかも知れない。止まった体温計は、いつも通り平熱の数字を出していた。

「ベッド空いてるけど、寝る?」
「あ、えっと、だ、大丈夫、です」

 二度も仮病も同様な理由で休みにきたという罪悪感から、ベッドを使う事を躊躇った。もしこの時間本当に体調が悪い人が休みにきた時に私がベッドを占領するわけにもいかない、なんて考えながら自分言い訳ばかりだなあと溜息が漏れた。
 先生はこの後用事があるらしく、保健室から出て行ってしまった。もし誰か来たら職員室に居ると言う事を伝えるよう頼まれた。返事をして、ソファーに深く腰掛けた。
 教室を出て行く先生を横目で見送り、独りぼっちになった室内を眺める。窓の向こうからは体育の授業をしているらしい何処かのクラスの声が聞こえてくる。小さく開いた窓から吹き込んでくる風が気持ちよく頬を掠めた。
 横長のソファーに横たわる。枕代わりにクッションを頭の下に敷いた。風と温い気温が何とも心地良い。眠気は無いが、このまま寝てしまえたら幸せだろうなあと思った。
 そういえば先生に昨日の事を尋ねるのを忘れてしまった。真崎さんの言う事が正しければ城之内君が私をここまで運んでくれたらしい、が、信じたくないと言うのが正直な感想だった。これが事実なら、私は彼に対して礼を言わなければならない。でも気まずくて話しかける勇気は無い。
 そもそも、真崎さんは何故私に優しくしてくれたのだろう。他人の分までノートを取るなんて大変だったろうに、どうして私にそこまでしてくれたのだろう。話しかけてくれた時も今までと変わりない態度だった。気まずく感じているのは私だけなのだろうか。答えを出せないままぐるぐると頭の中をたくさんの疑問が渦巻く。教室に戻りたくないので、早退してしまおうか。そんな事を思いついたとき、保健室の戸が開いた。

「先生〜! カッターで指切っちゃったんだけど絆創膏……あ」
「あ」

 思わず顔を逸らしてしまった。まさか城之内くんが来るなんて予想だにしていなかった。本当に、つくづく運が悪いものだ。

「先生いねえの?」
「……よ、用事あるからって、職員室に…」
「ふーん、ちょっと絆創膏貰ってくぜ。授業で使ってたらちょっとスパッとやっちまってよー」

 笑いながら城之内くんが棚を開く音が聞こえる。あまり物音がしない辺り、絆創膏がどこに入っているかよく知っている様で、日頃からお世話になっているらしいと言う事が伺える。
 今までと変わらない態度で接してくるものだから、実は昨日の一件は夢なのではと思ってしまいそうだった。城之内くんの顔を見ることは出来ない。絆創膏を貼っているらしい音だけが聞こえる。

「そういえば右手大丈夫か?」
「え、…う、うん。なんとか」

 突然話しかけられ、反射的に彼の顔を見た。態度や声色と同じく、その顔に今までからの変化は見られない。気遣いが心苦しい。

「……あの、さ、その事、なんだけど」
「ん?」
「………」

 寝ていた身体を起こし、震える右手を左手でそっと包む。再度城之内くんから顔を逸らしてしまった。唇が震えているのを感じる。

「……き、昨日、私を保健室に運んでくれたのって」
「え?ああ、俺だぜ。いやーびっくりしたぜーたまたま学校残ってたらでかい音聞こえたからよー」
「へ?」

 あまりにもあっさり肯定されてしまい、間抜けな声が漏れた。
 話によると、でかい音が聞こえたので音のした方へ行ってみたら、図書室から図書委員が血相を変えて飛び出していったらしい。そのただならぬ様子に気になって覗いてみたら、倒れかけてる本棚の下で私が倒れていたから、後から図書委員が呼んだ先生と一緒に引っ張り出したそうだ。そこから保健室まで、城之内くんが私を抱えて運んでくれたらしい。
 別に礼なんかいらねえよと笑いながら話す彼の声が胸を締め付ける。やはり、あれは城之内くんだったのか。

「………なんで」
「ん?」
「……なんで、助けてくれたの」

 は? と城之内くんの素っ頓狂な声が聞こえる。何かを言おうとしていたが、それを遮る様に私は言葉を続ける。

「……昨日、あんな事言ったのに………と、友達なんかじゃ、無いって、言ったのに」
「そりゃお前、目の前で人が倒れてたら助けるのが普通じゃねーの」
「そうだけど……確かにそうだけど…………でも……」
「じゃあ逆に聞くけどよー」

 いつまでもウジウジとした私の態度に痺れを切らしたのか、私の言葉を遮るように城之内くんは私に質問を投げかけてきた。都合の良い考えかも知れないが、その態度と言葉は意地悪とか嫌悪とか、そういう気持ちから来るものではないように思えた。

「何で名前は俺らのこと友達だと思ってねーの?」

 これも都合のいい考えなのかも知れないが、それはきっと素朴な疑問であるのだろう。それもそうだ。以前武藤くんに話した事があった事ですっかりあのグループは知っていることだとばかり思い込んでいたが、私は武藤くん以外の人達に直接その理由は話していなかった。彼の真っ直ぐな眼差しがとても苦しい。ちらりと目が合ったが、すぐに逸らしてしまった。

「………」

 こんな質問が来るとは予想していなかったと言うこともあり、言葉に詰まる。理由を話しても良いと思ったが、それでは以前に武藤くんに対して行ったことを繰り返すだけではないのだろうか。武藤くんの絞り出すように言っていた言葉を思い出す。いい加減高校生なのだから、同じ失敗を何度も繰り返すことはしたくない。だからと言って、このまま言葉が見つからないのでは、ただ黙りを決めてしまうだけになってしまう。言いたい事が伝わらないどころか、相手が勝手な憶測で私への態度や感情を決めてしまう。それはとても怖かった。

「……ごめん」
「いや、謝らなくていいんだけどよ」

 頭をフル回転させて上手い言葉を探したが、私の脳味噌では見つける事は出来なかった。せめてもと謝罪の言葉を述べるが、それは城之内くんの質問に対する回答ではない。罪悪感だけが私の中に蓄積されていく。

「言いたくないなら無理強いはしねえけどさ。俺はお前の事友達だと思ってるぜ」
「……なんで、そんなこと言うのさ」

 折角先程の杏子とのやり取りで出てきた涙を引っ込ませたばかりだったのに、再度溢れてきたそれはいよいよ私の小さな両目では保たせる事が出来なかった。城之内君に見られないようにと咄嗟に俯くが、それは涙を零す手助けにしかならない。両目から一粒どころかボロボロと出てくる。涙がスカートに丸いシミを作っていく。さすがに気付いたらしい城之内くんがどうしたんだと声をかけてきたが、正直私が聞きたい。何で泣かなきゃいけないんだ。

「お、おい、俺何か変な事言ったか? 言ったんなら謝るぜ」

 突然の出来事に城之内くんが狼狽えているので、違うと首を横に振った。声でもその意志を示そうと思ったが、だんだんと嗚咽が酷くなり、上手く喋ることが出来ない。最近妙に涙もろくて自己嫌悪の気持ちが湧いてくる。
 城之内くんが先生の机に置いてあったティッシュを差し出してくれた。2、3枚程取り出し、涙を拭いてから鼻をかんだ。嗚咽で乱れた呼吸を少しずつ整える。いつの間にか城之内くんは私の隣に座っていた。何度も心配そうに声をかけてくれるので、その度に大丈夫だと返した(今度は嗚咽に邪魔されずに喋る事が出来た)
 いくらか時間はかかったが、だんだんと呼吸と涙は治まってきた。城之内くんは相変わらず隣で心配そうに私を見ている。時々しゃくりあげる私の背中をさすってくれた。さすられる度に男子に触られているという事実に緊張した。異性相手にここまで出来る彼の器量に驚いたが、それも友達だと思ってくれているが故なのかも知れない。そんな彼には、話しても良いのかも知れない。

「……さ、さっき聞いたことに答える、から、黙って聞いてて…下さい」
「? おう」

 心臓が激しく脈を打っているのに気付いていないふりをしながら、ティッシュを持った左手に力を込めた。



← |