ぼくがほしをつかむとき





 授業中に消しゴムを落とした。それ自体はよくあることなんだけど今回は運悪くぽんぽんと跳ねて前の席の子の足元まで転がってしまった。自分で取りに行きにくいなあとどうしようなんて考えていたら、前の席の子が気付いて拾ってくれた。でも持ち主が僕だとわからないらしいので僕は机に少し身を乗り出して消しゴムを片手にキョロキョロとしている彼女の右肩を小さく叩いた。

「ごめん、それ僕の」

 彼女は僕の方を見るとこれと言った反応も見せずに無言で消しゴムを渡してくれた。別に何か言って欲しいとか笑顔くらいとかそんな面倒臭いことは考えたくないけど、あまりにも素っ気ない反応だったので思春期の僕の心はちょっと傷付いた。仏頂面の彼女は前を向くと再び黒板に書かれている先生の汚い字をノートに写し始めた。
 彼女の名前、なんて言ったかな。ちらりと彼女の机に閉じて置かれている辞書に目を向ける。みょうじ。ああそうだみょうじさん。いつも怒ったような顔をしているみょうじさんだ。彼女の笑ったところは見た事がなかった。と言っても普段から彼女のことを見ているなんていうストーカーのようなことはしていないので、たまたま彼女を認識したときにたまたま彼女の仏頂面のタイミングが重なっているだけなのかも知れないけれども。それでも僕は彼女の仏頂面以外の顔は見た事がなかった。そういえば話している姿も見た事がないかも知れない。いや、それはあるな。さすがに極端すぎた。でも話しているときの表情は思い出せなかった。たぶん僕がそれ程気にかけていなかったからだろう。彼女が遊戯くん達と話している姿は見た事がないし、僕も先程消しゴムを拾ってもらうまではまともに会話もした事がない。さっきのも彼女からの反応が無かったから会話とは言い難いけども。所謂ただのクラスメイトの1人だ。

「ノート写したかー、消すぞー」

 黒板消しを構える先生の声に気付き、僕の思考はここでシャットアウトされた。慌ててシャーペンを走らせたが、その努力も虚しくあっという間に黒板の文字や記号は黒板消しに飲み込まれた。書きかけの数式は答えを出せないままになってしまった。

「ねえみょうじさん。ノート見せて」

 授業後に席を立って何処かへ行こうとした彼女を捕まえる。彼女は目を見開きながら僕を見た。へえ、そんな顔も出来るんだ。ちょっと物珍しい気持ちになる。

「さっきの授業、途中から黒板追えなくなっちゃって。ダメかな?」

 その仏頂面を崩してやろうと思い、出来るだけ優しい声音で話しかける。怒ったような顔も笑顔で話しかければ少しは緩んでくれるんじゃないかと思った。

「……汚いけど」
「気にしないから大丈夫だよ」

 作戦は失敗だった。彼女は目を見開いたのも束の間、すぐにいつもの仏頂面に戻り、何で自分なのかと腑に落ちない様子でノートを貸してくれた。ありがとうと返すと彼女はそそくさと教室を出ていった。思ったより声高かったな。記憶の中の彼女はもうちょっと低い声だった気がする。まあ記憶なんて当てにならないし、そんなもんか。彼女のノートを開いた。なんだ、全然汚くなんてないじゃないか。城之内くんなんて、と思ったあたりで女の子と男の子を比べちゃいけないかなと気付いた。
 廊下に出た彼女に、彼女の友達と思しき女子が話しかけていた。教室のドア付近で話し込んでいる。会話の内容や彼女の表情はわからないが、その友達の反応を見るに他愛のない雑談らしい。友達の笑っている顔は見えたが、肝心のみょうじさんの表情を確認することは出来ないまま彼女達は教室前から姿を消してしまった。
 ふとノートに視線を戻す。あれ。今になって自分の行動に疑問を持つ。ノートなら遊戯くんに借りても良かったじゃないか。何でわざわざ関わりのなかった彼女から借りたんだろ。書きかけの数式の続きが書いてあったが、頭に入ってこなかった。
 間も無くして彼女は教室に戻ってきた。何処に行っていたのかなんて詮索する程野暮な僕ではないが、彼女が戻ってきたことにより早くノートを写さなければと気付く。ぼんやり考え事をしてしまっていた為ノートは全然埋まっていない。
 彼女は僕に目もくれずに自分の席に着くと次の授業の教科書を取り出した。早くノートを写し終えなければと手の動きを早めたが、元々遅筆な方だった僕では授業合間の休み時間内に終わらせることはできなかった。でも彼女からの催促が無かったあたり今日中に返せれば大丈夫なのかもしれない。何の根拠も無いのにそんな事を考えながら僕のノートと一緒に彼女のノートも机の中に仕舞った。
 授業中の彼女は授業に集中しているらしかった。彼女の頭の向きは緩やかに黒板とノートの方向へ行ったり来たりしている。真面目な性格なんだなあなんてぼんやり考えながら彼女の後頭部を眺めていたら先生に教科書を読めと当てられた。どこのページかわからず聞き返したらちゃんと授業に集中しろと怒られた。彼女の頭は相変わらず先生の方向を向いていた。

「ねえ」

 昼休みに入った直後、突然彼女が話しかけてきた。それまで一切僕のことは興味もないような素振りしか見せてこなかったのでまさかあちらから話しかけてくるとは思わなかった。びっくりして思わず右手に持っていたコンビニ袋を落としてしまった。少し恥ずかしい。

「わ、ご、ごめん」

 特に彼女に迷惑をかけたわけでもないがつい謝罪の言葉が漏れる。彼女からの反応はない。慌てて袋を拾いながら彼女に向き直った。

「ノート、今日中に返してね。テスト近いし」
「あ、うん、わかってるよ」

 そういえば期末までそんなに時間が無いんだった。元々今日中に返す気ではいたが、要らぬ心配をさせるわけにはいかないのでお昼を食べたら昼休みのうちにとっとと写し終えた方が良い。彼女は話している間も僕が返答をしている間も相変わらず表情に変化はなかった。その上、僕の返答を聞くや否やさっさとお弁当らしき手提げを持って教室を出て行ってしまった。つくづく僕に対して最低限の関心しかないらしく、思春期の僕の心はまたちょっとだけ傷付いた。

 屋上で遊戯くん達とお昼を食べていたら遊戯くんが先日旅行に行ってきたお土産だとままどおるをくれた。皆に二つずつ配って丁度無くなった。他の皆は貰ってすぐにその場で食べたが、僕はノートの存在が気になってしまったので用事があるからと先に教室に戻ることにした。途中貰ったままどおるを食べようかと思ったが食べ歩きは行儀が悪いよなあと思い止まった。
 教室に戻ったがみょうじさんはいなかった。いや別に彼女がいてもいなくても構わないじゃないのかと自分で自分にツッコミを入れながら席に着きノートを取り出した。作業に入る前にままどおるを一つ食べた。甘い。

「みょうじさん」

 昼休みも終わりに近付く頃にはノートは写し終えていた。書きかけの数式の答えもバッチリ書いてある。時計を見ながらぱらぱらとクラスメイトが教室に戻ってくる。その中に彼女の姿も見つけたので、席に戻ってくるタイミングを見計らって話しかける。

「ノートありがとう」

 机の上に出したままの彼女のノートを手渡すと、彼女はどういたしましてと受け取った。ふと、食べないままでいたもう一つのままどおるを思い出した。甘いものあげたら笑ってくれるかな。そのまま席に着き前を向いた彼女の右肩をちょんと叩くと、眉間にしわを寄せた彼女が振り向いた。

「あとこれ、お礼」

 彼女は怪訝そうな顔でこちらを見る。何これと言いながらも受け取ってくれた。ままどおる知らないんだ。

「友達からお土産でもらったんだけどさっき一つ食べたから。美味しいよ」

 休み時間にお菓子を食べているところを見た記憶があるので甘いものが苦手ということはないだろう。彼女は包みを開き、ままどおるを口に運ぶ。ドキドキ。

「どう?」
「……おいしい」

 やった! 心の中でガッツポーズ。でも彼女の表情は変わらなかった。残念。
 そのまま最後まで食べ切る様子を眺めていたら彼女と目が合った。人が食べている様子はあまりまじまじ見ていいものじゃないよな。そう思いながら開きっ放しだった自分のノートを仕舞おうとしたとき、食べ終わったらしい彼女が口を開いた。

「ごちそうさま、獏良くん」

 今までと少しだけ違う声色にえっと思わず顔を上げる。ほんの一瞬だった。僕と目が合って逸らされるまでのほんの一瞬だけ、彼女が笑ってた。微笑んでいたという方が正しいかも知れない。でも彼女の仏頂面しか知らない僕にとってそれはすごい衝撃だった。たかがクラスメイトの笑った顔くらいがって思うのに、それは水の中を伝う電気のように僕の全身に強い衝撃として走った。

「あ、うん、どういたしまして」

 少しの間の後に彼女の後頭部に向かって返事をすると彼女は右手だけひらりと振って応えてくれた。


 






2014.3.11

title:ハイネケンの顛末