「全然わかんねーよ!」

 彼が部屋に上がった際に母が置いてくれたオレンジジュースは氷が溶けて透明な層を作っていた。

 3時間。私が懇切丁寧に彼に教鞭を振った時間だ。今まで生きてきた中で学業に費やした時間を思えば、実に短い時間である。しかし、期末まで残り数日と言う現実から考えると、非常に長く、無駄に使うには惜しい時間でもある。
 私自身もトップの成績を取れるなんて言う程頭がいい訳では無いが、それでも学年内での成績は良い方ではあるので、人に基本的な部分を教える事は出来る。
 なので期末が眼前に差し迫っている今、私と比べたら雲泥の差と言っても過言にならない成績を持っている彼を我が家に招いて勉強会を開いている。せめて泥から透明な水くらいには昇格して欲しい。欲を言えば確実に補習組、という立場から頑張れば補習を免れる、くらいの立場にはなって欲しかった。

「私、あんたの事買いかぶりすぎてたわ」

 シャーペンを床に放り投げながら私自身も床に倒れ込む。猿でも分かると言っても過言では無いと思える程私は丁寧に教えた。将来の事なんてまだ全然考えてなかった私が教師を目指しても良いのではないかと思い始めてしまうくらいだ。それでもこの男には理解が出来なかったようだ。もう駄目だ。

「なんだよ。みょうじの説明が分かりづれーんだよ」

 シャーペンを鼻と上唇の間に挟みながら彼は気だるそうな答えを返す。
 わからないのは全部お前の説明が分かりにくいからだ。俺の頭の悪さは関係無い。彼の喋り方と言葉からそんな意思がひしひしと伝わってくる。
 私からしてみたら悪いのは全部お前の頭の悪さだと教科書を投げつけたくなるが、すぐにその気持ちも萎えてしまうくらいには3時間と言う時間は私の体力を削っていた。

「城之内さあ……今までテスト後の補習何回受けてきた?」

 私が床に突っ伏したまま尋ねると、彼は小声で数字を数え始める。おいおい数えないとわからないくらい受けてきたのか。呆れてものも言えない私は上体を起こす気も無くなった。もうこのまま寝てしまいたい。
 今までテストって何回あったっけと突然彼が尋ねてきたので、去年の分も含めると7回だと答えると、じゃあ補習も7回だと返答が来る。全部受けてるのかよ。
 怠くなった身体を起こしてオレンジジュースを飲む。母が氷を多めに入れてくれた為、それが全部溶けてしまったジュースは何だか味が薄い。

「このままだとその内留年しちゃうよ」

 彼がどうせ今回も駄目なんだから勉強なんてしなくて良いだろと投げやりな事を言い出したので、その諦め半分な能天気さに釘を刺す為に言ってみる。しかし、今までが大丈夫だったんだからと聞き入れてくれなかった。彼女が心配していると言うのに何て奴だ。
 もう良いよと私は教科書を閉じて再度床に寝転がった。フローリングの床はひんやりしていて、直接触れる腕と頬がとても心地良い。
 ちらりと彼を見ると、いつの間にか取り出したらしいカードを眺めていた。最早勉強をすると言う意志は欠片も感じられなかった。でもその半袖から伸びる男の子らしい筋肉のついた腕を見て、格好良いなあなんて事を考えてしまった私も、彼と同様に勉強へのやる気を無くしていた。瞼が重たい。
 微睡む意識の中、大きな手が私の頭を撫でた。ゴツゴツとした見た目とは裏腹にとても優しく撫でてくれるものだから、私はその気持ちよさに抵抗する術も無くその目を閉じた。










オチなんて無い
2013.11.10