あんた酷い顔してる





 聞き慣れない声に名前を呼ばれた。街の喧騒の中で何故かはっきりと聞き取れたその声は、学生時代に私の中に翳りを落としていった男のものだった。

「夏油くん」

 彼が起こした事件以来会っていなかった私は、このとき抱いた感情を上手い具合に言葉に当てはめてカテゴライズが出来なかった。旧友に久しぶりに会えた嬉しさなのか、事件以来会っていなかった気まずさなのか、懐かしさなのか、恐怖なのか、憧れなのか、罪悪感なのか、それともそれら全てなのか。「何だか笑顔が引きつってない?」と言う夏油くんは、高専時代の思い出から変わってないように微笑んだ。私も一生懸命微笑んだけれど、頬がひくひくと震えていたのが自分でもよく分かった。
 夏油くんは一緒に歩いていたらしい人じゃない人達に何かを言うと、一人で私の隣に立った。

「久しぶりの再会だし、お茶でもどう?」

 高専時代の笑顔だった。

「一緒にいた人……人? 人達? ……は、別れちゃって良かったの?」
「気にしないでいいよ。別に大した用事があったわけじゃなかったし。あれを人と呼ぶんだね。相変わらずで安心したよ」

 どう返答したら良いのか分からなくて、私は笑って誤魔化した。あまり、迂闊に変なことを口走らない方が良い気がした。高専時代から変わらない笑顔をしている筈なのに。私の中で燻っている翳りのせいだろうか。夏油くんと、あの頃と同じように接していいのか分からない。そもそも、私は夏油くんとどんな会話をしていたんだっけ。

「折角だし、ゆっくり話せるところに行こう。個室の居酒屋とかが良いかな。まだ時間が早いかな」

 夏油くん、こんなによく喋る人だったっけ。いつの間にかスマホを取り出して、周辺の居酒屋を探している。夏油くんのお家ってお寺だったっけ。袈裟姿でスマホをいじる姿はなんだか変な感じだ。それに、あんな事件を起こして、お寺に入ることなんて出来るのだろうか。違和感だらけだ。
 私が考え事をしている間に、夏油くんはちょうど良いお店を見つけたらしくて、ここに行こうとスマホの画面を見せてきた。歩いて十分もかからない距離だ。

「綺麗になったね。見違えたよ」

 歩き出すと、夏油くんが言った。こういうことを言う人だっけ、と思ったと同時に、少し面映ゆくなって、現金な自分にちょっと引いた。

「夏油くん、今のご時世だと見た目を褒めるのはあまり喜ばれない可能性があるんだよ」
「もし気を悪くしたなら謝るよ」
「ううん。悪くしてない。嬉しいよ。ありがとう。就職してからダイエット頑張ったの」
「呪術師にはならなかったんだ」
「うん、そうだね」

 自分のことを話すだけなのにすごく緊張する。夏油くんの知らないことを教えるだけで、どうしても夏油くんがいなくなった原因が私の中で際立ってくる。私が何かを思う必要は無い筈なのに、夏油くんが知らない私のことを教えるという行為が、夏油くんを責めているような気がして、綱の上を歩かされている気分になる。

「ほら、私、怖がりだったから。向いてなかったんだよ。呪術師」

 実際、高専時代は楽しかったけれど、怖い記憶もたくさんあった。一般企業に就職が決まったとき、心の底から安心したのをよく覚えている。私に呪術師は向いていない。

「相変わらず呪霊を怖がってるの?」
「ちょっとは慣れたよ」
「ちょっとだけね」
「ちょっとじゃない。前言撤回。結構慣れた」
「本当に?」
「夜道で一人で呪霊を見かけてもびっくりしなくなった」
「それはすごい進歩」
「馬鹿にしてるでしょ」
「ははは」

 そういえば、こうやって会話をしていたんだったな、と薄らと記憶が蘇った。

「夏油くんは、その、元気にしてる?」
「それなりにね」
「そっかあ」

 夏油くんの雰囲気は変わってないように思える。なのに、どこかピリピリとした緊張感が解けない。夏油くんはどうしてあの事件を起こしたんだっけ。思い出そうとするけれど、やっぱりあの事件そのものがこびりついていて、それが私の思い出を塗りつぶしている。

「悟達とは連絡を取ってる?」

 ドキ、と胸元の緊張がピークに達した。

「ほ……ほとんど、連絡してない。でも、たまに……本当に、たまーに、五条くんがメッセージ送ってくることはあるかな。もう何年も会ってないけど」
「へえ」

 夏油くんと五条くんの間に何があったのか、ほとんど知らない。何かがあった、ということだけは知ってる。夏油くんがいなくなるきっかけのひとつだったらしい任務には、私は全く関わってなくて、ついぞ蚊帳の外だった。皆が私に怖い思いをさせないように気を使ってくれた結果だっていうのは知っているから、そのことを恨めしく思うなんてことは無いけれど。
 夏油くんが怖い。高専時代の夏油くんは、誰かに酷いことをしない人だったと思うけど、今の夏油くんにはその確信を持てない。旧友のことをどこまで信じて良いのか分からないけど、信じてあげないと危ないような気もする。

「で、でも、全然会ってないし、硝子ちゃんとか他の人達とも本当に全然連絡取ってないから、たぶん皆、もう私のことなんて覚えてないんじゃないかな」
「寂しいこと言うね」
「別に寂しくないよ。そういうもんだよ。さよならだけが人生ってね」

 大雑把に文豪の言葉を引用すると、夏油くんは「そうかもね」と呟いた。

「夏油くんは寂しくないの?」

 気付けば、私はそう尋ねてしまった。
 しまった、と口をおさえたけれど、一度放った言葉を無かったことには出来ない。あの事件を起こした夏油くんに聞いていい質問じゃなかった。何も知らない私が踏み込んじゃいけない領域だった。謝ったら余計嫌味になる。夏油くんを見るのが怖い。

「寂しくないよ」

 夏油くんの声が優しく降ってきた。
 見上げた夏油くんは微笑んでいる。

「家族がいるからね」
「家族」
「そう、家族」

 全く知らない人が聞けばなんてことのないこの言葉が、こんなにも怖く聞こえるなんて誰が思うだろう。実の両親を殺した癖に、どうしてこの男はそんな言葉を平気で言えるのだろう。血の繋がってない人を家族と呼ぶことの是非なんて話じゃない。もっと根本的なところがおかしいことを言ってるのに、なのに、夏油くんは、そんなことは気にしていないように微笑んでいる。やっぱり、高専時代から変わらない笑顔だった。