ひとつだけの交差点





 中学生の頃、同じクラスにとても喧嘩が強い男の子がいた。本人が喧嘩っ早いわけではないけれど、素行が悪い先輩とかが伏黒くんに喧嘩を売ったら全員ことごとく倒されてしまったそうなので、伏黒くんはとても喧嘩が強い、というのが同級生たちの共通認識だった。喧嘩っ早くはないとは言ったが、伏黒くん本人も少し不良みたいで近寄り難かった。いつも何かに怒っているみたいだったから。
 伏黒くんとは、一回だけたくさん(当社比)喋ったことがある。修学旅行の実行委員にさせられた私と、日直の日誌を書かされている伏黒くんの二人だけが教室に取り残されたときだった。中学三年生の春。受験なんてまだまだ先のことだと皆が思っていた時期。
 実行委員なんて面倒臭いものやりたくなかったのに、誰も立候補しない気不味い空気の中で、去年林間学校の実行委員をやってただろ(あれだってジャンケンで負けて嫌々やったものだったのに)と先生に言われ、あれよあれよと仕立て上げられてしまった。文化部だから暇でしょ、なんていう偏見も添えられた。最悪。

「日誌ってさ」

 突然、自分の席に座って日誌を書いていた伏黒くんに話しかけられた。私の席とは結構離れてるけど、私と伏黒くんしかいなかったから、伏黒くんは座ったまま身体だけ私の方に向けていた。私は先生から丸投げされた旅館の部屋割りに悪戦苦闘しているところだった。

「どこに出せばいいの?」
「え?」

いきなり話しかけられたから私は聞き取れなかった。

「だから、日直の日誌」
「え、しょ、職員室の先生のところじゃないの」
「ふーん」

 び、びっくりした。
 そのまま教室を出て行ってくれればいいのに。そもそも、伏黒くんと教室で二人きりということがもう既に気不味いのだ。早くいなくなってほしい。全然集中出来なくて、先生に頼まれた仕事は全く進んでない。

「何してんの」

 いつの間にか伏黒くんが私の真横に立っていた。私の手元を覗き込んでいる。

「……しゅ、修学旅行の、部屋割り」

果たして私は上手に喋ることが出来ていただろうか。

「そういうのって先生がすんじゃねえの?」
「やっといてって言われて……」
「俺ひとり部屋がいい」
「え、いや、必ず三、四人にならないとダメで……」
「んだよ」

 伏黒くんは口を尖らせて私の隣の席に座った。いやなんで座るの。日誌出しに行ってよ。怖くて直接本人には言えない。
 私が嫌な汗をかき始めていることなんて知らないように、伏黒くんは私の横で日誌をペラペラとめくっている。読んでるというよりは眺めているという感じで、たぶん中身は読んでない。一分ももたずに日誌を閉じた。

「それ終わんの?」

 矛先は私に向いた。

「わかんない……」
「こんなんテキトーでいいんじゃねえの。どうせ皆夜になったら勝手に部屋移動すんだろ」
「でも、文句言われたら嫌だし……」

 私がモゴモゴと言うと、伏黒くんは面倒臭そうに眉間を押し上げた。つまんない会話しか出来ないんだから、早く日誌を出して帰ればいいのに。

「実行委員って大変なんだな。めんどくせえだろ」
「私もそう思う」
「そう思ってんのかよ」

 伏黒くんが笑ったので、私も釣られて少し笑った。いつも怒ってるように表情が固い人だと思ってたけど、人並みに笑えるんだなあ、なんてうっかり口が滑って声に出したら大変なことになりそうなことを思った。

「なんで委員なんかやってんの?」
「やりたくてやってるわけじゃないんだけどさあ。ていうか実行委員決めるとき伏黒くんいなかったっけ」
「寝てた」
「あらー……」

 あのとき私も居眠りしていれば回避出来ただろうか。自分が真面目生徒だというわけじゃないけど、こうやって素行が悪い人の方が器用に生きていけてるような気がする。羨ましさすら感じる。私も不良になりたいなあ。

「私も居眠りしちゃえばよかったなあ」
「選ばれたときに断ればよかっただろ」
「あの空気で断るのは勇気がいるよ……」

 自分のこういう……なんというか、ままならない感じ、不器用って感じで嫌になる。教室が誰もやりたくなくてしんとしてる中でさ、先生から指名されてさあ、断れるわけないじゃん。私はそこまで肝が据わってない。喧嘩で負けない伏黒くんとは違う。
 伏黒くんと喋っているせいもあるけど、目の前の仕事は全く進まないまま、どんどん日が傾いていく。下手をすれば運動部の人達の方が先に帰ってしまうかもしれない。でもこれいつ終わるんだろう。
 伏黒くんが立ち上がった。いたらいたで緊張するけど、帰ったら帰ったで心細い気もする。帰んないでほしいなあ、なんてちょっとだけ思って伏黒くんを見上げたら、伏黒くんは私に手を差し出した。

「貸せよ。日誌出すついでに担任に渡してくる」
「でもまだ終わってないし」
「歯医者行くとかテキトー言って帰ればいいだろ。そもそも担任がやれっつー話だし」
「そうだけど……」
「ほら」

 どう言い返したらいいのかも、断るべきなのかすらも分からなくなって、私は伏黒くんに言われるがままに、宿泊先のパンフレットとクラスの名簿を渡した。伏黒くんはそのまま踵を返して自分の鞄を抱えると、じゃあなと言って教室を出た。

「じゃ、じゃあねっ」

 私が咄嗟に返事をすると、後ろ姿の伏黒くんは日誌を持っている方の手を軽く上げた。
 実はあんまり怖くないのかな、と思ったけど、結局その後私は卒業するまで伏黒くんと関わることは無かったし、卒業してからは全く別々の人生を歩むように私の中から伏黒くんはいなくなった。きっと伏黒くんにとっての私もそんな感じだと思う。