もうどこにもいない





「はい、はい……分かりました。まずはお見積もりをさせて頂きたいので……はい、そのお時間でしたら可能です。担当の者がお伺いします。はい。お電話ありがとうございます」

 事務的な対応をして固定電話の受話器を置いた。この日空いてるのは誰だっけ、と壁に貼られている予定一覧を眺めた。あ、乙くんが空いている。ちょうど外での仕事を終えて戻ってきていた本人を呼んだ。

「見積もりが一件入りました。えーっと、内容が……」

 火事で半焼してしまった家の修理の見積もりで、住所は杜王町、名前はキシベロハン。
 簡単に伝えると、乙くんは顧客の名前を聞き返してきた。確かに少し珍しい名前だしなあ、と思ってもう一度伝えると、乙くんはそのぱっちりとした目を、眼球がこぼれ落ちてしまうんじゃあないかというくらい見開いた。

「この名前って……もしかすると……もしかするんじゃあないですかァ〜!」

 確かに言われた住所は結構お金を持ってる人達が住んでいる地域だが、そんなに興奮することだろうか。突然少年のようなテンションになった乙くんに驚いていると「知らないの!?」とまるで私の方がおかしいような言いようでこちらを見た。

「岸辺露伴ですよ! 岸辺露伴! 『ピンクダークの少年』の作者ッ!」
「えー……? あー、そういえばそんな漫画見たことあるかも」

 本屋に平積みされていた気がする。売れてる漫画なんだなあと思っただけで、どんな漫画なのかは全く知らない。それらを伝えたら乙くんからは人間を見ているとは思えない表情をされた。

「読んだこと無いんですかッ!? 今度漫画貸しましょうか」
「漫画読まないからいい。その作者と同姓同名って可能性だってありますよ。あまり見ない名前ではありますけど」
「杜王町って岸辺露伴の出身地らしいですよ。だからきっとこれ本人ですよォ〜。わあ、私が行くんですかこれ! サイン貰えますかねェ」
「作家って気難しそうじゃないですか。どうなんですかねェ」
「サイン貰ってもあげませんからね」
「興味無いから結構です。仕事で行くんですから、余計なことしちゃ駄目ですよッ。それだけ有名な人にウチが公私混同する信用出来ない会社だって思われたらあっという間に悪い評判が広まりかねないんですからねッ!」
「わかってますよォ」

 本当に分かってんのかなあ。



 乙くんが出勤してこない。
 昨日は時間帯もあって、見積もり出したらそのまま帰るかもと言っていた。上司や私が何度か家に電話しているが、留守電につながるばかりだ。確か乙くんは一人暮らしだったし、アパートもここから気軽に確認に行ける距離じゃあない。乙くんは無断で欠勤するようなタイプではないから、もしかしたら何かあったのかもしれないけど、万が一寝坊の可能性だってある。幸い、今日は乙くんが出なきゃいけない外回りの案件は無いから、最悪出勤しなくても大きな皺寄せは起きない。
 それにしても、キシベロハンとやらが本当に売れっ子作家だったのか気になるなあ。乙くん、興奮して自分も漫画家になるとか思い立っちゃったのかなあ。製図が出来ても漫画が描けるとは限らないでしょ。