Umbrella





 傘が欲しい、と思った。目の前で隣人の長男が殺されているのに、なんと薄情なことか。私を見つめるもう一人の私がそう言って苦々しい顔をしている。隣人の長男がどうなっているのかはよく分からないけれど、長男から出ているんだろうなあという真っ赤で鉄臭い汚い液体が頭上に降り注いだので、私は傘が欲しいと思ったのだ。

「貴様は生娘か?」

 隣人の長男を殺した男が私に問う。不躾な質問だ、と言い返せる胆力が私にあれば、男の端正な顔に唾のひとつでもかけてやったけれど、残念なことにそれを出来るだけの肝を私は持っていない。でも、どうせこのまま死んでしまうんだったら、好きにしてもいいのか。ろくな人生じゃあなかったけれど、見目麗しい男に殺されるんだったら、それはそれで乙な人生とでも思おうか。

「俺が質問をしているんだ。答えろ」

 男は私の両頬を片手で鷲掴みにして再度訊いた。質問をする相手に向ける態度じゃあないだろう、なんて言葉は喉に引っかかって出てこない。私は首を横に振った。実際は全然左右に動かなかったけれど、動かそうとした振動で男には伝わったらしかった。ゴミを投げ捨てるように男の手が離れると、ならば飯にはならないな、という男の呟きが聞こえた。

「こいつにレイプされた。だから生娘じゃあない」

 私が肉の塊になった隣人の長男を指差すと、男は私の顔を見た。続けて、ほう、と言った。好奇心を示すように口元が緩んでいる。私は促されたわけでもないが、構わず言葉を続けた。

「三年前の夏。最悪だった。ご近所付き合いってやつで、私の両親はこいつの両親と仲良し。お陰で誰も疑いすらしない。言ったら何をするか分からないと脅されていたし、そうでなくとも言ったって信じてもらえないだろうって思ってた。私は素行の悪い不良娘で、この男は品行方正なよく出来た息子だったからね」

 こんな状況でよくもまあ口が回るものだと自分に感心した。それと同時に記憶が蘇ってきて、今この場にいる自分が世界で一番惨めで哀れであるような気もしてきて、早く殺してくれないかと心の底から思って懇願したくもなった。

「本当に最悪だった。どうやって殺そうかと思ってたから、むしろ感謝したいくらい。生娘を望んでたのなら残念ね」

 言い終えると、視界がじわりと歪んだ。地獄にいるような気分だ。そもそも現状は地獄以外の何物でもないのだけれど、この長男を自分の手で殺せればまだ気分はマシだっただろうにと思った。

「その悲劇に免じて、命だけは助けてやろう」

 男はその綺麗な口を弧にして言った。先程よりは優しい力で私の顎に手を添えたとき、生臭い鉄の臭いに混ざって男の香水の匂いがした。
 私が泣いて喜ぶのを期待しているんだろうな、という穿った感想を思った。でも、実際にそうだと思う。そこの長男を殺すときもそんな感じだったし、この男の笑顔はそうやって意地の悪い楽しみ方をする笑い方な気がする。

「命だけなんでしょ、助けてくれるの。両親を見れば分かる。あんなの、死んでも御免ね。尊厳もなにもあったもんじゃあない」

 顎に添えた手を退かそうと触れると、思いの外ひんやりしていて驚いた。死人の手みたいだ。人間じゃあないみたいだから、この驚きは今更かもしれない。
 毎晩、村の人達が何人もこの館に招かれて、必ず数人が戻ってこない。大半が若い女性だ。戻ってきた人達に尋ねても、召し上げられたとか、館で幸せに暮らすとか、唐突で要領を得ない回答ばかりだった。私の両親は戻ってきて、隣人の次女は戻って来なかった。
 両親は、私に全く怒らなくなった。温かい家族をなぞったようなことしか言わなくなって、きっと、人間じゃあなくなってしまったのだと思った。

「つまらん反応だ。強がったってなんの意味もないぞ」
「不出来でつまらない娘だからね。これは強がりでも自慢でもないけど、不幸話なら両手に収まらないくらいあるよ。聞く?」
「興味が無い」
「そう」

 じゃあ早く済ませなよ、と両手を広げたが、男は私をじいっと見るばかりで、中々手を下さない。

「だが」男が口を開いた。
「最近、実験ばかりしていて飽きていたところだ。気分転換に話でもしようじゃあないか」

 何の実験をしているのかは訊かない方がいいのだろう。男は部屋の奥にあったベッドに寝そべると、私を手招きした。このまま振り返って部屋から飛び出せば逃げおおせることが出来そうだと思ったけれど、得策じゃあない気もした。それに、ここから出たところで、家にいるのは人でなしになった両親だけだ。
 ベッドに近づくと、頭に何かが垂れた。触ると少し粘り気がある。見上げると、天井に人が吊るされていた。たぶん、実験に使われた人なのだろう。隣人の奥さんに似た人もいた。

「傘がいるな」

 男は部屋の隅に立っている、化け物みたいな見た目の人を指差すと、その人は覚束ない足取りで部屋を出た。程なくして、覚束ない人は傘を持って戻ってきた。

「話をしたら、私は助かるの?」

 私が尋ねると、男は少しの間を置いてくつくつと喉を鳴らした。

「死んでも御免、ではなかったか?」
「そうだけど、別に、まあ、もういいや。どうでもいい。それに……いや、なんでもないや」

 言葉にしようと思ったけど、面倒くさくなってやめた。男は特に詮索もしなかった。顔を拭ったら生臭さに吐き気がした。
 傘、もっと早く欲しかったなあ。