そう、ある日(確かあれは私の誕生日だった)を境に、私は今みたく変なモノが見えるようになってしまったのだ。ソレが悪魔だなんて分かるわけはなかったし、突然の変化に私は大層驚き怖がった。仮に分かっていたとしてもきっと変わらなかっただろう、幼心に悪魔だなんておどろおどろしい単語は逆効果だ。私にしか見えない悪魔をいくら怖がろうと、他の人からしたらたかだか子供がおかしなことを言っている、その程度にしか受け取られなかったのだろう。私の言葉を信じてくれたのは母以外にはいなかった。聞けば、この悪魔というやつは、他ならぬ悪魔から何かしら傷やら病やら(魔障というらしい)を受けない限りは只人の目には映らないという。
 唯一私を信じ、話に耳を傾けてくれた母は、首に提げていた守り袋を私に与えた。それは、思えば私を安心させるための気休めだったのかもしれない。だが、いやに真剣な顔で話してくれた母の言葉は未だ忘れられない。
 “その御守りには神様が入っているの。きっと紺を守ってくれるわ。だから紺、あなたはありがとうの気持ちを伝えなきゃいけないね。守ってくれてありがとうって、神様に言うの。その神様は音楽が大好きなの……お母さん、紺に笛を教えてあげたでしょ?神様に聞かせてあげたらきっと喜ぶわ”
 曖昧だが、こんなことを言って聞かせてくれた。母方の家で祖母や、曾祖父……代々受け継がれてきた大事な御守りなのだ、とも聞いた。

「笛、ですか…?」
「え、ああ、うちの母方の血筋って昔は囃子方だったみたいだから」
「囃子方、というと能の?」
「そう、笛を演奏してたんだって。とか言っても昔の話だし、すっかり錆びれちゃって今は普通の家だよ。名残なのかな、私は母さんに笛……能管を教えてもらったんだけど」

 今も私が首から提げている守り袋を奥村くんに見せる。興味深そうに彼は瞬く。少し、話が逸れた。
 御守りをもらったものの、一向に私の視界から悪魔の影は消えなかった。当時の私は勝ち気ではあったが、やはりよく分からないモノが視界にいるのはどうにも気味が悪く、私だけにしか見えないというのが更に恐怖を増長させたので、あろう。まぁ今も同じ状況に陥っているわけだが、昔ほど怖いとは思わない。寧ろ、困惑の方が勝って、いる。
 私はただ一人の味方である母に訴えた。何も変わらない、怖い、と。憂えた母は数日の後、私の手を引いて出かけた。どんな道を通ったかなんてもう覚えてはいないが、たどり着いた教会のような場所。礼拝堂(…だと、思う)のステンドグラスがきらきらして綺麗だったことは覚えている、今も、鮮やかに。そこで出迎えてくれたのは一人の神父さま。からりと笑うその人の大きな手のひらと「もう大丈夫だ」という声にとても安堵した私は、情けないことに泣きそうになったのだった。
 「どうした?」と尋ねる神父さまと母に促され、幼い私は訥々と語り出す。怖いモノが見えるのだ、と。真剣な表情で話を聞いてくれた神父さまは笑う。

「何も心配することはないさ」

 私の言葉を否定しないその人に、自信に満ちた笑みに、慈しみを帯びた目に、私は確かに救われた、のだ。それから、神父さまは母と何かを話すようで、しばらく姿を消すと次に戻って来た時には私と同い年くらいの男の子を伴っていた。

「ほら、自己紹介しろ雪男」
「お、おくむらゆきおです……!」
「紺、あなたも」
「……浅葱、紺」
「お母さんたちは話があるから、紺、あなたは雪男くんと向こうで遊んでいなさない」

 神父さんの背に隠れ、おずおずとこちらを窺う男の子。人見知りの気があった私だけれど、母にそう言われてしまえば従わざるをえない。最初こそぎこちなかったものの、時間がたてば打ち解けることが出来た。それは、“ゆきお”くんが優しかった(困惑しながらも、私と会話出来るよう心を砕いてくれていたんだと思う)こともあるけれど。何よりも大きかった理由は、きっと。怖いモノ……今なら何かわかる、その悪魔を彼も見ていたからだったに違いない。
 人に理解されないことを共有する、ということは、ずっと“ゆきお”くんを身近に、親しく感じさせた。“ゆきお”くんに出会ったくだりまでを語って、ふと思い出す。私がそこで出会ったのは“ゆきお”くんだけではなかった。もう一人、“ゆきお”くんとはやけに対照的な男の子、だった。…………多分。

「奥村くん、兄弟いたりしない?」
「……兄さんにも、会ってたんだね」

 明確な肯定の言葉ではなかったが、否定でもない言葉。いやに疲れた表情を浮かべた奥村くんは長い長いため息を吐く。何か考えていたようだが、やがてこちらに向き直った。

「あなたの仰る通り、僕には兄がいますし……僕とあなたは以前会ったことがあります。そんな偶然、あるわけないと思ってたんですが…」
「あ、はは……本当に、奇遇だね。私も吃驚した」

 互いに顔を見合わせ、苦い笑い。奥村くんは、やはり“ゆきお”くん、であった。それは確認出来た、けれど。分かってしまえば何てことはない。昔、一度会ったことがあっただけだ。友達どころか、知り合いというにも足らぬ、拙い関係。
 言葉が尽きる。少々、……いや、かなり気まずい。

「ええと、それで……祓魔塾の話なんですが、」
「行くよ」
「え、」
「悪魔のこととか、教えてくれる塾なんでしょ? 私、行くよ」
「いいんですか…?」
「うん。色々、分からないことばっかりで混乱してるんだけどさ、知りたいから」

 どうしてか分からないが、見えなかった悪魔が突然見えるようになってしまった。正確には以前一度、見えてはいたのだけれど(それが見えなくなってしまったのはきっと、教会を訪ねたからだ)(だって、その日から後、悪魔を見た記憶はない)。とにかく、これから見え続けていくであろうもののことだ。中途半端に知識を得た以上、もっと詳しく知っておきたい。
 勧誘されるくらいには私には祓魔師の才があるらしいし、なんとかなるだろう。口にすれば一笑されるに違いない、甘い考えだ。それでも、私なりの決意だった。真意を探るようなレンズ越しの瞳を真っ直ぐ見据え、挑むように口端をつり上げた。
 私の心を推し量るように向けられていた視線が、ふいに和らぐ。口元に笑みを湛えた奥村くんは一つ、頷いて何かを差し出した。

「これ、は…?」
「塾の鍵です。使い方と効果は浅葱さんが既に持っているその鍵と一緒ですから、説明はいりませんね?」
「ああ、はい」

 手渡された鍵を眺める。この場所に来るために使った鍵といい、やっぱり何か特別な感じはしないんだけど、なぁ……。奥村くんがわざわざ嘘を吐くわけもないのだから、ありがたく貰っておこう。
 無造作にポケットに突っ込むと、もう一つの鍵とふれてちゃりちゃりと涼やかな音が鳴る。

「塾では祓魔師になるために、まず祓魔訓練生として悪魔祓いを学びます。塾は基本的に平日は学校の授業が終わってからおこなっていますが、場合によっては休日にも授業をおこなうことがあります……まぁ、まちまちですね」

 淀みなく奥村くんの口から溢れる言葉に慌てて耳を傾けた。「それじゃあ、早速その鍵を使ってみましょうか」なんて彼が言うので、ポケットに収めてしまった鍵をいそいそと引っ張り出す。この場所にある唯一の扉に鍵を差し込み、回す。開く。

「うわ、」

 扉の向こうは私がやって来た女子寮の廊下ではなく、薄暗い、大きな扉が並ぶ不思議な回廊だった。本当に、一体どういう仕組みなんだか。魔法を使ったとしか思えないこの体験には、まだ慣れない(三…いや、四度目になるのだけれど)。眉を寄せ首を傾げる私を奥村くんは手招く。彼の前に聳える扉には一一○六の番号。

「祓魔塾での一年生の授業には、この一一○六号教室を使います。覚えてくださいね」

 にこり、笑う。落ち着いた物腰、丁寧な言葉。先から何も分からない私に一から説明してくれる奥村くんはまるで、新入生を引率する先生だ。同い年なのに、ねぇ。私とのこの違いは何かしらん。少しだけ切なくなる。
 考えに意識を傾ける私を置いて、奥村くんは教室へ入っていく。ボロボロで埃が舞う、だけど確かに人が出入りしている雰囲気の残る教室。廊下よりも一層暗い(だって電気がついていないのだ!)そこに、慌てて足を踏み入れた。奥村くんが電気をつけてくれたのだろう、突然明るくなった視界に目が眩む。白に霞む視界の端々で、小さな悪魔が教室の隅や天井に逃げていく姿を捉えた。数回瞬くことで平素の通り辺りを認識出来るようになった眼球は、明かりに照らされることで一層みすぼらしく感じる教室を隅から隅まで眺めた。
 黒い影は、もういない。


「さて、浅葱さん。塾はもう、入学式の日から始まっているんです。まだ、そんなに遅れもありませんから、さっと終わらせてしまいましょうか」
「………は?」
「そういえば自己紹介をしていませんでしたね……今更のような気もしますが、まぁいいでしょう。対悪魔薬学を担当する奥村雪男です」

 にっこり。先までと変わらぬ筈の笑顔の裏に、何か違うものが見えた気がした。唖然とする私を余所に、教壇に立つ奥村くんは、ただ笑って、いた。





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