ちらちらと視界の端、いたるところに黒い影。極々小さくふよふよと宙を漂っているモノ、素早い動きで物陰へ逃げてしまうモノ、じっと石のように動こうとしないモノ。形、大きさは違えど、共通するのは一般的にこの世に存在するとされている生き物とは異なる姿であること。私に、近付こうとしない、こと。
 ……この表現は正しくない。近付いてはくるには、くるのだ。ただ、一定以上近付くと、何かに追い散らされたように逃げていってしまうだけ、で。
 目を覚ましてから、そういった光景が見える。夢かと思い、目をこする。黒い影は消えていた。確認のために辺りを見回す。変わり、なし。何ら変わりない、いつもの寮の自室だ。こみ上げる安堵と共に肺の中の空気全てを押し出すくらい長いため息を吐いた。緩慢な動作で顔を上げる。黒い、影。

「……なに、これ」

 見えなくなったと思った光景が広がって、いる。頭が重い、くらくらする。寝起きの喉は引きつり、声はかすれ震えている。情けなくも今すぐ泣き出してしまいそうな声だった。寝不足、だろうか…? いや、先に見た携帯電話のディスプレイの時計は、とうに朝を過ぎて昼近くであると示していた。寝過ぎたくらいだ。同室の彼女たちは、どうやら惰眠を貪る私をそっとしておいてくれたようだ。小さな気遣いに感謝する。
 伏せていた目を上げる。黒い影はちらちらと視界の隅で踊る。それは、既視感を覚える、光景。いつかの夢。記憶の底に沈んでいた、幼い私の記憶。
 ……もう一度、夢の世界に逃げてしまえば、全部元に戻らないだろうか。現実逃避に二度寝を決め込もうという甘美な誘惑に負けそうになりながら、ベッドを後にする。いそいそと寝間着から着替えると、枕元に置いてあった古びた鍵をひっつかみ部屋を出た。
 昨日の理事長の言葉を信じるなら、この鍵で開けた扉からならば、どこからでもあの場所へ行けるので、あろう。逸る気持ちのままに足を動かす。行くあてはない、探すのは適当な鍵穴を備えた扉。歩きながらせわしなく視線を巡らせる(嫌でも視界をちらつくモノは気付かぬ、ふり、だ)。やがて目についたのは、滅多に使われていないという(寮に入った時に一応説明はされた)倉庫の扉。鍵穴もきちんとある、試すにはお誂え向きだ。都合よく人目も、ない。
 明らかにおかしなモノが見えるようになった原因として考えられるのは、昨日の出来事。もしそうだとしたら、何かしらの手掛かりを握っているのは白い道化。理事長に違いない。たかだか一生徒である私が、そう簡単に理事長に会えるとは思わない(理事長、という要職に就く以上、やはり多忙である筈だ)(それも、きちんと仕事をこなしていれば、の話であるが)。可能性があるのなら、昨日出会ったあの場所。彼の人が“容易には立ち入ることが出来ない”と言っていたのだから、他の人と出会う可能性は限りなく少ないだろうし、最早それくらいしか縋るものがない。
 しかし、まさか本当に違う場所へ繋がっているのだろうかと半信半疑で開いた扉。ひらけた視界を彩る青空に息を呑んだ。
 黒い背中が、ゆっくりと振り返る。振り返ったその人の眸にありありと浮かぶのは驚愕。相対する私の表情もきっと、彼とさして変わらぬものだろう。驚いている。それは、もう、本当に。
 何せ誰もいないだろうと思っていたところに人がいたのだ。そもそも、扉の向こうに広がっている風景をうまく想像出来なかった(埃っぽい、倉庫があると思っていた)(それ以前に鍵が開いたことにすら吃驚しているというのに)。無言、沈黙。言いたいことは、それこそ山ほどある。口を開こうとしては、閉じる。その繰り返し。情けなくも「あー…」だの「うー…」だの、言葉になりきれない音だけが空気を震わす。……とても、気まずい。
 場の空気を緩ませる術すら思い浮かばず立ち尽くす私に、驚きから立ち直ったらしい彼は笑いかける。
 やわらかな、えがお。

「とりあえず、こちらに来ませんか?」

 手招かれて、気付く。扉を開けっぴろげたまま、私は未だ寮の廊下に立っている。人に見られてはまずい(倉庫がある筈の場所がまったく別の場所であるなど、混乱を招いてしまう)(いらぬ厄介事は避けるに限る)。慌てて鍵を引き抜き扉の向こうへ飛び込むと、すぐさま堅く扉を閉ざした。

「ええと、」
「あなたがフェレス卿の言っていた?」
「フェレス卿……?」

 うろうろと視線を泳がせながら言葉を探している私を見やって、彼は口を開いた。耳に飛び込んできた名前を認識できなくて鸚鵡返し。些か困惑した様子で彼は眼鏡のフレームを押し上げた。

「この学園の理事長のことです。聞いていませんか?」
「あー…、はい。特には、何も……」
「……………」

 理事長には会ったけれど、彼は“ヨハン・ファウスト5世”と名乗った。名前が違う。人違い、はたまた偽名という奴だろうか。しかし確かに“正十字学園理事長”とも言っていたし……それすら嘘だった?
 いまいち状況を理解出来ずにいる私に何かを察したらしい。眉間に盛大に皺を寄せた彼は大きく息を吐く。ほんの一瞬表情を歪め、忌々しげに何事かを呟く。あまりにも小声で聞き取れなかったそれに、疑問符を浮かべる。怪訝な表情の私に気付き、しまったと言わんばかりに顔色を変えた彼はまばたき一つの間に表情を塗り替える。柔和な笑み、やや苦みを滲ませていた。

「僕もかなり大雑把なことしか聞いていないんですが……あなたは浅葱紺さん、ですよね?」
「は…? えぇ、まぁ……そうですけど。なんで、名前…」
「さっき言ったように、あなたのことは理事長から聞いています……“面白い新入生がいる、塾に勧誘してみるといい”、と。名前もその時に聞きました。この場所に来れば会えるだろうとも言っていましたが、ちょうどやって来るとは思いませんでした」

 滔々と話す彼の言葉は左から右へと耳を素通りしていく。戸惑いを誤魔化すように、パチリ。ゆっくりとまばたきをもう一つ。うん、よくわからない、な。

「あー…と、……その、」
「はい、どうしました?」
「その“塾”って、何?」

 “塾”、といえば普通に考えて勉強をするところだろう。……ということは、あれですか。私は理事長直々に塾に勧誘されるほど成績が悪いと? あら大変! ……そんなわけはなかろう。
 うっかり思考をトリップさせている間にも、彼は腕を組んで何か考え込んでいる。一体、何がどうなるのだろう。口をついて出そうになるため息をかろうじて飲み込んで、目を伏せた。

「紺さん」

 レンズ越しの眸が真剣みを帯びる。見ないように、見ないようにとしていた黒いモノをしなやかな指が捕らえる。差し出されたソレをまじまじと見つめた。やはり、この世にはいないであろうイキモノだ(そう、ソレは確かに動いて、生きているのである!)。

「あなたはコレが見えますね」
「…………」
「見えます、ね?」
「……一応は、見えますけど」
「これは、」

 彼はゆっくりと語りだす。悪魔というもの、それを祓う祓魔師という人たち、祓魔師の多くが所属する正十字騎士團、この正十字学園町がその正十字騎士團にとって重要な拠点の一つであること、祓魔師を養成する祓魔塾の存在。
 いくら察しが悪かろうとも、そこまで言われてしまえば分かる。彼が言っていた“塾”とはその祓魔塾のこと、だ。

「つまり、理事長が私を祓魔塾に勧誘しろ、って言ったんですか?」
「ええ、あなたには“祓魔師の資質があるようだから”、と」
「いや、素質とか言われても……」

 困るんですけれど。続く言葉は胸中のみに留める。
 あまりにも現実離れした話(悪魔だとか、ね…)も不思議と納得できた。というよりも、いつかの夢の、幼い頃の記憶が蘇る。朧気であやふやな幻影。視界に蠢く黒いモノは、幼い頃見た“怖いモノ”、だ。少しずつ、曖昧だった記憶が鮮明さを取り戻していく。

「……………」
「強制ではありませんから、あなたの意志で決めてください。もし、塾に入る気になったら僕かファウスト卿に声をかけてください」
「ねぇ……奥村くん、さ」
「はい」
「小さい頃、あー…と……7歳くらいかな、教会…っていうか、修道院みたいなところに住んでなかった…?」

 話を終わりにしようとする彼に思わず呼びかける。今、言わないと。この先、今みたいに彼と話せる機会はなかなかないと思う。戯言だと笑われるかもしれない。でも、あまりにも気になる、から。このまま黙っているのは落ち着かない。ならば、今言わないで、どうする。入学式以来、考えていたことを言葉として紡いだ。
 夢の、続き。母に手を引かれた私は一人の神父さまに出会ったのだ。彼が母と話している間、私が退屈しないようにと神父さまが紹介してくれた同い年くらいの男の子。奥村くんと、よく似ていた。……名前も、“ゆきお”くんと、眼前の奥村くんのそれと一致している。
 人違いであればかなり恥ずかしいなぁ、と。しどろもどろしながらの言葉に、彼……奥村雪男くんは目を見開いて硬直した。言った私が吃驚してしまうくらいに顕著な反応。返事を待つまでもない。これは当たり、だ。もし違ったとしても何か心当たりがあるに違いない。

「どうして、それを……」
「私、多分奥村くんに会ったことあるんだよ、ね……記憶、あやふやなんだけど」

 今度は私が話す番、だ。うまく纏まらない言葉を如何に上手く伝えられるだろうかと、足りない頭を必死に働かせる。奥村くんは、じっと言葉の続きを待ってくれて、いた。




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