決めてしまえば前進あるのみ、と。
 歩き続けてみたものの、行けども行けども人影すら見つからない。なれど、引き返すにしても今更遅すぎた。そうこうしているうちに、徐々に狭くなっていた通路は行き止まり。終点へとたどり着いてしまったのだった。……もしかすると通路はまだ続いているのかもしれない。だけれど、私の眼前には冷たい鉄の扉が立ちはだかり、通せんぼうを決め込んでいた。
 微かな希望を抱いて、錆の匂いがするドアノブに手をかける。軋んだ音をたてたノブは、けれどある角度以上はけして回らなかった。

「鍵、かかってるし…」

 やはり引き返す方が良かったの、かな。窓もロクにないため薄暗い通路の壁に背中を預ける。正直、歩き回って疲れていた。制服が汚れるのにも構わず、そのままずるずると情けなく座り込む。埃のたまった床は、随分と長い間掃除されていないようだ。
 後悔が頭の中を巡る。重たいため息を吐いて、視線を沈めた。と、視界の端っこで何か鈍い光を放つものがある。何だろう、か。この状況を打破してくれる、素敵なアイテムとかだったりしないかしら。限りなく都合のいいことを考えながら、そっと手を伸ばした。
 ひやり。ゆっくりと体温が奪われる、かたい感触。握りこんでしまえば、手のひらの中にすっぽりと収まる。私を拒む扉と同じ、匂い。一度結んだ手のひらを、目の前まで持ってきて、開く。

「鍵、だよね」

 シンプルなデザインのそれは、掲げた手のひらの上で光を反射して鈍く輝いている。私の体温を得て、生温かくなったそれ、はずしりと重たく(と、いっても見かけ以上であるだけで、実際はさして重くはないのだが)その存在を主張していた。
 埃にまみれたスカートを払い、かたく閉じられた扉に向き直る。ノブの下、ぽかりと口を開く鍵穴の大きさは丁度拾ったばかりの鍵が入りそうだ。

「……なんか出来すぎて、ない?」

 鍵のかかった扉。その近くに落ちていた、鍵。もし、今私が手の中で転がしている鍵が扉を開くものならば、少々都合がよ過ぎやしないだろうか。偶々、と片付けてもよいものかしらん。疑問をそのまま口に出して、鍵と扉を見比べる。いくら眺めたところで鍵が勝手に動き出したりはしないし、扉は一向に開かない。動くわけはないし、開くわけもない(もしそんなことが起こればとんだホラーだ!)。
 沈黙。幾度か同じ動作を繰り返して、ため息。足元に落とした視線をうろうろと彷徨わせても、変わり、なし。……ため息。

「まぁ、いいや」

 扉が開いたって何か悪いことが起こるわけでもなかろうし、そもそも拾った鍵が都合よく扉を開けてくれるなんてのも、分からない。ひとりごちて、もう一度。ゆっくりと観察した鍵を、私は鍵穴に差し込んだ。
 するすると穴に飲み込まれていく鍵が奥に突き当たったところで、手を捻る。同じ速度で、鍵の頭、つられてブレードが回る。
 かちゃり。
 鍵穴の中で仕掛けが動く感触。静か過ぎる通路に、独特の音が響いた。おそるおそる、ドアノブに手をかける。扉を引いた、何の支障もなく開く。開いた分だけ薄暗い廊下に眩しい光が射し込み、薄汚れたそこを明るく晒す。暗いところになれていた目は突然の明るさに対応できず、視界は白く染まった。涼やかな風が、頬をなぜ、髪をさらう。

「え、嘘……開いた、っていうか外…!?」

 忙しなく瞬いて、目をならす。扉の向こうには青い空が覗いていた。石造りの通路、若葉をさらさらとならす木々も見える。開いた扉を再度閉めて、開ける。そんな意味のない動作をとってしまうくらいには動揺していた。
 そろり、と。扉の内側から足を踏み出す。何を恐れるのか、分からないけれど。一歩一歩、前人未踏の地を歩くように慎重に歩いた。軋んだ音をたてて扉が閉まったのにも気付かないほど、眼下に広がる景色に魅入られて、いた。
 正十字学園町を一望出来るこの場所は、町の中心部、それもかなり高いところに位置するようだ。絶景と評しても過言ではない、と思う。斜陽に染め上げられる街並みは、大層、美しい。

「おやおや、珍しい……こんなところで人に出会うとは」

 橙を被る風景に見惚れ、立ち尽くす。
人の気配もなかったから、私一人しかいないと思っていた、のに……。背後から笑みを含んだ声が聞こえたものだから、驚いて肩が跳ねた。

「………、誰?」
「ここは、滅多なことでは立ち入れない筈の場所なんですけどね」

 ビクつく内心を押し隠して、出来る限りゆっくりと振り返る。動揺を悟られぬよう、慎重に。
 はじめに認識したのは白、だった。やたらと奇抜なデザインの白のスーツ(スーツというには障りがあるかもしれないくらい、奇抜では、あった)(だって、まさか、カボチャパンツだなんて!)にシルクハット。アクセントなのかところどころにあしらわれているピンクが、目に痛い。見上げるほどの長身。目の下には、隈。個性に富みすぎた人が、立っていた。

「なかなか興味深いと思っていたのですが、なるほどなるほど。これは面白い」
「……は?」
「貴女とは既に一度、会っているのですけれどね、こうしてきちんと会うのは初めてでしょうか。ハジメマシテ、浅葱紺さん」
「!」

 胡散臭い、笑み。身振りを加えながら仰々しく一礼するその人の口から自信の名前が出たことは、更に私を困惑させた。私の知り合いにこんな強烈な人は、いない。もし、いたとしても……インパクトがありすぎて、なかなか忘却なんて出来ない筈、だ。
……だけど、白とピンクのコントラスト。脳裏に引っかかる、色。覚えがある、と微かに記憶が主張している。それも、ごく最近のことであると。そう、でも、こんなに顔の造作がはっきり分かるくらい近くじゃなくて、もっと遠くから。ぼんやりと眺めていただけの、……この人、は。

「な、なんで理事長がこんなところに…!?」
「思い出していただけましたか。ですが、一応改めて自己紹介を。この正十字学園の理事長を勤めます、ヨハン・ファウスト五世と申します」
「は、はぁ…」

 入学式、ろくすっぽ話を聞いていなかった私の記憶にも残っていたのは、彼の姿があまりにも強烈だったからだろう。壇上で式辞を述べていた、今私の前に立つこの人が、学園の理事長だなんて俄かには信じがたかった、から。
 心の内まで見透かすような瞳と視線がかち合って、半歩、後退る。背筋がざわざわする。落ち着かない。思わず、無意識のうちに制服の胸元、その生地の下……いつも首から下げている守り袋を握りしめた。うっそりと細められた眸に、私は気付かない。
 いち。理事長がどうしてこんなところにいるのか。に。何故自分の名前を知っているのか。さん。彼の言った"興味深い"の真意は何か。問いたいことばかりがぽろぽろととめどなく頭の中で溢れて、上手く言葉をまとめられない。

「ええ、と……」

 言葉に詰まる私に理事長は一歩、また一歩と距離を詰める。反射的に退こうとする足を意志の力で押しとどめて、言葉を探す。陸に打ち上げられて酸素を求める魚みたいに、はくはくと喉だけが引きつる。ぎゅう、と守り袋を掴んだ手のひらの内がやけに熱っぽかった。

「安心してください、別に取って食おうというわけではないのですからネ★」

 やはり、胡散臭い笑顔を崩さないまま理事長は尚もこちらに歩み寄る。どうしてか、酷く息苦しい。本当に空気を、酸素を吸っていないみたいだ。頭の奥がくらくらして、視界がぼやける。

「…………ふぅ、仕方ないですね。貴方の守っているその子に手を出すつもりは、ありませんよ」

 何か、小声で理事長が呟く。やれやれと肩をすくめる仕草、呆れが滲んだ表情は分かるのに、どうしてか声だけは聞き取れなかった。だけど。彼が言った何かを合図にしたように、私にのしかかっていた重圧が、消えた。
 肺を満たす空気が、それまでと違っていたく新鮮で清浄なもののように感じる。それこそ、長い間水中に潜っていた人が水面に顔を出したように必死に息を吸った(端から見れば、大層滑稽だったことだろう)。

「守ろうとするものを自分で壊してしまうなんて、本末転倒でしょうに」
「……はい?」
「こちらの話ですヨ。そんなことより浅葱紺さん、貴女はどうしてこんな場所に?」

 何事かを呟いていたその時は表情に真剣味が帯びたというのに、それも一瞬のこと。既に道化の表情を取り戻した理事長は、ずすい、と私に詰め寄る。誤魔化すにもうまい理由は思い浮かばないし、まさか逃げ出すわけにもいかない。考える間も、ない。訥々と、私は教室を出てからの経緯を話す。

「……単刀直入に言うと、迷いました」
「ぶっ」
「…………………」

 学校を探索しようと思ったこと、人気のない方へ人気のない方へと歩いたこと、古びた扉を拾った鍵で開けてみたこと、扉の先がこの場所であったこと。だが、いくら言葉を重ねようがそれはたった一言で表せてしまう、のだ。つまるところ私は“迷子”なのである。
 だらだらと続けていた説明を切ってそうまとめると、よほど可笑しかったのか理事長は噴き出し、けたけたと笑いはじめる。そりゃあこの年になって迷子だなんて恥ずかしいものだけれど、そこまで笑いますかそうですか。視線に些か殺気というやつが込められた頃になって、ようやく理事長は笑うことを止めた。
 空は茜の向こうに藍を覗かせようとしていた。




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