ぽかん、と。馬鹿みたいに呆ける私に、笑顔のままに奥村くんは語る。曰く、私が受けていない約一週間ぶんの授業の遅れを取り戻すべく補習を受けましょう、だそうだ。そちらの方は、言われればそう、なるほどと納得できた。
 どちらかというと私が驚いていたのはその前に彼が発した言葉で、あって。私の耳が飾りになっていなければ先に彼は「対・悪魔薬学の授業を担当する」と奥村くんは言わなかっただろうか……いや、確かに言っていた。
 それは、つまり、

「え、うん…? ちょ、ちょっと待って……ってことは奥村くんが、先生、なの?」
「ええ」

 恐る恐る喉からせり上がった問いに、けろりと奥村くんは頷く。それはなんでもないように、くちびるは余裕の三日月。まるで、動じていない。
 それどころか落ち着いた様子で狼狽する私に説明してくれる。私と同い年でありながら、彼は、既に祓魔師として前線に立っているそうだ。祓魔師の資格を取得したのは二年前、今年から祓魔塾に新任講師として赴任したという。

「一応、授業の間は“先生”と呼んでくださいね」

 えもいわれぬ圧力を感じ取り、そもそも逆らう気だってないにしても気圧され、気付けば、頷いていた。新任だとかいうけれど、初々しさだとか緊張だとか、そんな雰囲気は微塵も感じられない。むしろ貫禄があるくらいなんじゃないの…? 教職は奥村くんに向いているに違いないと、私はゆるく笑った。

「さて浅葱さん、この後になにか用事はありませんか?」
「………特には、ありません、ね」

 場を取り繕うように咳払いを一度。奥村くんの問いかけの真意が何となく読めて、私は緩めた頬を引きつらせる。奥村くんが先に言ってくれたではないか、「私の補習をしなければならない」、と。
 敬語とタメ口がないまぜだった口調を意識して敬語の方に切り替える。これから行うのは“授業”で、奥村くんは“先生”、なのだ。
 教壇に立つ姿がいやに様になるなぁ、とぼんやり見当違いな感想を抱きつつ、小声でひそやかに呟いた。

「お手柔らかに、お願いします」

 きっと、効果なんて見込めないとわかってはいた。だからこそ聞こえない程度のボリュームを意識したのに、静寂が満ちた教室では彼が音を拾うにはどうにも十分すぎたみたい、で。無言で笑みを深める姿に何故だかほんの少し、寒気がした。





* * * * *



 祓魔師になるためには、まず悪魔を見ることが必須になる。普通、只人の目には見えない悪魔が見えるようになるには、悪魔から傷や病…総称して魔障と呼ばれるものを受けることが条件となる……らしい。そのため、悪魔が見えない訓練生がいる場合、祓魔塾での一番最初の授業は大抵低級悪魔を呼び出し自発的に魔障を受ける“魔障の儀式”になるそうだ。
 私は、既に悪魔が見えているから(魔障を受けたことはないと思うのだけれど)(知らずのうちに受けていたのかもしれない)、儀式をおこなう必要はない。故に、こうして初心者向けの悪魔についての基礎的な話を聞いて、いる。
 耳にしたことのない単語が羅列する奥村くん…もとい、奥村先生の話に耳を傾け、せっせとノートをとる(筆記用具は奥村くんに借りた)(何から何まで本当に申し訳ない…)。一応、まだ話にはついていけている、と思う。分かりやすく噛み砕いて説明してくれている彼のおかげだろうな。塾では様々な、悪魔についてのみならず纏わること、幅広く学んでいくらしい。今触れているのは、ほんの触り、だ。
 嘆息をひとつ。ちゃんと授業についていけるだろうか、一抹の不安が過ぎる。思わず沈もうとする気持ちをなんとか持ち直させようと、思考を切り替えるべく頭を小さく振った。ちょうどそれと同時、に、知らない声が教室に響き渡った。
 ぱちり。一度まばたきする間に勢いよく教室のドアが乱暴に開く音。もはや開くというよりも、寧ろドアを壁に叩きつける、といった方が正しいような気はする。何せ、壊れるんじゃないかと思うくらいの音だった。間髪入れず続けて、今度は教室の中に大音声が響き渡る。

「雪男!」
「…………兄さん」

 名前を呼ばれた奥村くん本人は、呆れを滲ませた声で力なく呟く。盛大に吐き出されたため息が、きっと、心境そのものなのだろう。状況を理解出来ず置いてけぼり、私は奥村くんと突然の乱入者を交互に見やる。
 教室の入り口には年の頃は私とさして変わらない男の子が、ドアを開いた時の動作そのままの格好で、仁王立ちして、いた。勝ち気そうな表情、高い身長。顔の造りや雰囲気は全く似てなどいやしないけれど、彼のことを奥村くんは“兄さん”と、呼んだ。
 ぱちりぱちり。更にまばたき。ゆっくりと、頭が情報を整理、理解していく。奥村くんは補習を始める前(だらだらと、私が昔話を語った時だ)にも、“兄さん”と兄がいるようなことを口にしていたことを考えると、乱入者の彼が奥村くんのお兄さんである可能性は高い(兄のくだりはきちんと言質をとった訳ではないけれど)。
 脳裏に映し出されるいつかの光景、確か、教会で初めて奥村くんと会った時に出会ったもう一人の男の子……そう、在りし日の奥村くんも今みたく彼を“兄さん”と呼んで、いて、

「……お兄さん、なの?」

 敬語を使うのも忘れて(授業中は“先生”呼び、敬語を使おうと決めたのだ)奥村くんに尋ねる。
 率直な問いかけに無言で頷き肯定する奥村くん。声を上げたことで初めて私に気付いたらしい彼の兄らしき人物は、好奇心を隠さない視線を此方にくれた。男子にしては大きめの眸が、きらきらしている。

「兄さん、どうしたのいきなり…」
「いや、ちょっとお前に聞きたいことあったんだけどよー……まぁいいや! なぁ雪男、誰だコイツ?」
「……兄さん、」

 再度、奥村くんの口から漏れるため息。何か諦めるような、非常に疲れた表情で奥村くんは肩を落とす。反対に明るい表情(それこそまさに、輝くような、だ)で、男の子は私を見ている。何か、言った方がいいのだろうか。

「こちらは今日から祓魔塾に入ることになった浅葱紺さん。それで浅葱さん、こちらが僕の兄の奥村燐です」

 自己紹介くらいすべきなのかしら、と私が口を開きかけたのを待たず、奥村くんは滑らかに言葉を紡ぎ出す。入り口から無遠慮にすたすたと教壇の側までやって来た奥村燐くんと奥村くんを見比べる。
 感想。

「……似てないね。あと、奥村くんのがお兄さんみたいだ」
「はは、よく言われます。僕と兄さんは二卵生双生児なんです」
「ふうん……」

 もう一度、奥村燐くんをまじまじと眺めてみる。やっぱり、似てないよ、ねぇ。思ったがまま、割合失礼なことを発言してしまった。怒られるかと冷や冷やしていたが、怒声は飛んでこない。
 心なしか上機嫌に笑っている奥村くんに視線を流して、さてどうすべきかと目を伏せる。すっかり、授業は崩壊してしまっていた。真直ぐな視線は未だ逸らされず、さらされ続ける私は俯いてしのぐ。些か居心地が悪い。小さく小さく嘆息すると、奥村くんが苦笑する気配がした。

「おい」
「……なに?」
「お前、新しく塾に入るんだよな? 雪男のやつがさっき言ったけど、俺は奥村燐。よろしくな!」
「浅葱紺、えーと……ハジメマシテ、かな?」

 少々、曖昧な物言いになった。私は彼と一度会っている筈、なのだ。何せ8年前のことであるから、きっと彼自身は覚えてはなかろうが。
 私が言葉を濁したことを、奥村燐くんは特に気にかける様子もない。このまま初対面ということで通しておけばいいのか、な。ニッカと笑う彼の差し出された手にほんの少しだけ躊躇って手のひらを重ねた。痛いくらいの勢いで、握手した手がぶんぶん振られて驚く。

「兄さんは覚えていないかもしれないけど、僕たちは一度浅葱さんに会っているんだ」
「……は?」

 傍から見れば微笑ましいかもしれない光景(私の手…というか、腕はかなり痛いが)を冷静に眺めていた奥村くんが口を開いた。切り出された話は、ちょうど私が話そうか迷っていた内容で。すらすらと説明する彼の察しのよさに、私はただ感謝するのだ。幼い頃に一度会っただけの人間のことなんて、忘れているに違いない。瞼を閉じ、記憶を辿っているらしい奥村燐くんを横目に私は思う。
 というよりも、忘れていてくれて全然構わないのだけれど。寧ろそちらのほうが好ましいとも、いえる。私の中にある幼少時の彼との記憶は、そう、あまりよいものではないのだから。

「………、」
「……な、何?」
「紺、お前……ノッポか!」
「っ、」


 青みがかった眸に凝視され、たじろぐ。私の顔をまじまじと観察していた奥村燐くんは、しばしの後にぽん、と手を打った。そして、私の眼前に人差し指を突きつけ、どうだ! と言わんばかりにいつかの時に私に向けた渾名を叫ぶのだ。探していた記憶を拾い上げ嬉しそうな彼とは反対に、私は渋い表情で閉口する。
 私の身長は、女子としては比較的高い部類に入る。それは幼い頃からのもので、口さがない男子などにはそのことをからかわれたことも多かった。小学校に入り、成長期が訪れた男子に身長を追い抜かれていくにつれて、そんな風にからかわれることはなくなったのだけれど。

「そうか、お前あのノッポかー! なんか背ぇ縮んだな!」

 悪気はないに違いない。あっけらかんと笑う彼の姿に、頭はそう訴えかける。だが、悪口としてノッポノッポと言われたことの多い私としてはそれはNGワードなので、ある。
 こめかみが引き攣る感覚に、ああ、私大分キてるな、なんて。やや他人事のように思いながら、笑った。
 私の雰囲気が変わったことにいち早く気付いた奥村くんはお兄さんを諌めているが、特に効果はない。

「………ノッポノッポって連呼すんな馬鹿!」
「いってぇ!!?」

 警戒なんてしているわけもなく、無防備だった彼の脛を思い切り蹴り上げる。突然の痛みに悲鳴を上げる奥村燐くんを睨みつけ、私は鼻を鳴らした。まだイラつきは残るものの、一応それで溜飲は下がった。
 沈黙。ふと視線を感じ、顔を上げる。驚きに目を瞠る、奥村くんの姿。
 ……やらかして、しまった。少しだけ落ち着きを取り戻した頭が働き始める。冷や汗が、ダラリと背を伝った。





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