※どこかのグランドオーダー


 特異点は修復された。あと数分でカルデアへの帰還が始まる。風がそよぐ。草が靡く。隣に座る、彼のピアスが揺れる。たったそれだけのことなのに、こんなにも心が苦しかった。見上げた空は何処までも青く、見渡す海は何処までも広がり、光を浴びて輝いている。こんなにも綺麗な景色を前に、私の心はひどく濁っていた。
 座り込んで抱えた膝の隙間から顔を出すと、存外顔の近くにあった地面からは、夏草に似た匂いがした。

「忘れたくねぇな、名前のこと」

 隣から聞こえるクーの声は出会った時のように凛としていて、感傷を感じさせない。そんな彼の言葉に私は何も返せなかった。出来ることはと言えば苦し紛れに笑って風に揺れるピアスに手を伸ばすことだけで、触れたそれは夕日を受けてキラキラと輝いていた。

「なんだよ。これが気になるか?」

 クーがこちらを向いてピアスを指さしながら言う。私はその言葉に頷いてそれに触れると、西日を浴びて暖かくなったピアスが掌で一際強く瞬いた。壮麗なそれを見ていると、細波の立たない水面に雫が一滴落ちて波紋が広がっていくように、遥か昔に死んだ、別れ際に感じる心が冷えていくような感覚を呼び起こした。鼻の奥に鋭い痛みを感じて奥歯が自然と強く噛み合う。そのわかりやすい兆候にまずい、そう思った時には、既に遅かった。
 決壊したように緩んだ自身の涙腺からは大粒の雫が溢れていく。彼が見ている、そう思うのにもう自らの意思では止めることが出来ないほどに溢れていた。今の私は、きっと酷く不細工だろう。人類史の修正を行うマスターがこんなにも脆くては笑われてしまう。私は「こんなこと」で泣いている場合ではない、世界を救わなければならない。そう咎めれば咎めるほどに私の中の何かが壊れて行くようで、喉の奥の締め付けが加速していった。この涙は「こんなこと」などという一言では到底語りきれないモノを多く含んでいる。
 一度壊れた涙腺はそれまでの特異点で経験してきた数多の出会いと別れの記憶を瞬時に蘇らせ、鮮やかな色を放って脳内を旋回した。特異点の修正に際する別れ。その度に平気な振りをして殺し続けてきたあの孤独感と寥々とした感情が、数え切れぬ程の数の別離でいちいち波風が立たぬようにと塞ぎ込んだ心の奥底を引っかき回してくる。涙は静かに流れるものから段々と止まらない咽び泣きに変わっていき、そんな自分に心底嫌気がさした。
 潤む視界の合間から見える彼はバツの悪そうな面持ちで後ろ頭を掻いている。それもその筈だ。傍から見れば完全にクーが私を泣かせたと勘違いされる図になっているのだから。そのことに対していたく申し訳なさが募るが、最早そこに気を配れるほど私の心は落ち着いていなかった。
 今まで私は特異点先で数多の出会いと別れを繰り返してきた。その中には、私に敵対心を向けてくる者、私に手を差し伸べるて来る者、色々いた。数え切れない程の人々に出会い、その人生の一部を覗いた。強敵に圧倒されて苦しむマシュの姿も、絆を結んだサーヴァントとの別れも、無関係な人間の死も、全てはこのグランドオーダーを遂行したことへの代償だ。一つの時代を修正するという行為は、同時にその時代の他の命を奪うことに他ならない。自分達の世界を守ることを前提とした他者の犠牲。その事実から目を逸らして今日まできたが、彼との別れを機に突として今まで抑え込んできたそれらが栓を失って溢れてくる。声を上げてみっともなく泣く私を、彼は何と思うだろう。情けない奴だと呆れるだろうか。それとも、憐れまれて同情の眼差しを向けられるのだろうか。
 どちらにせよ、泣くな泣くなと自制すればする程逆効果で、嗚咽まで漏らし始めた私の顎を、クーが持ち上げて横を向かせてきた。だが彼のその行動の真意を考えることも出来ず、ただされるがまま泣き続けていると、右耳に僅かな重みを感じた。その正体を確かめるべく腕を伸ばすと、顎に添えられていたクーの手で制される。

「ほらよ。これでお揃いだ」

 言われて彼の方を見ると、彼の片耳から姿を消したピアスが今は私の右耳で揺れているのがわかった。感じた事のない重みを持った右耳に今度こそ手を添えると、確かに存在するそれに喜びと虚無が綯交ぜになって襲い掛かってくる。ピアスに触れて一度呼吸ごと止めた私が途端に思い出したように再び泣き出す様を見て、苦笑いを浮かべたクーが両の手を私の背に回してきた。骨の張った硬い手が背を撫でて、肩口に首を埋めて何も言わなくなった彼の匂いが肺に広がっていく。

「忘れたくねえな、あんたのこと」

 耳の直ぐ側で聞こえた彼の本音が木霊の様に脳内を巡っていた。クーの抑揚の無い声から不思議と押し殺した慟哭が聞こえてくるようで、連動して心臓が騒いでいた。背中に回された腕が力強くて、止まることを知らない涙が次から次へと堰を切って溢れ出す。今、確かに感じるクーの鼓動も、体温も、その存在ですらも、あと少しで消え失せる。まるで、そこには最初から何も無かったかのように。
 特異点で起きた事象は解決と共にその事実さえなかったことになる。人類史にも、そして誰の記憶にも残らない。正確には、私たちカルデアの人間だけはその記憶を保持するが、こうして度重なる死線を潜り抜けて世界を救ったことは、そもそもそんな事実さえが存在しなかった事として歴史の残渣となり、葬り去られる。そのことに対して悲しんだことはあれど、後悔はしたことがない。それは私もマシュも、そしてグランドオーダーに関わった全てのカルデア職員が、自分たちのやっていることは何も間違っていなかったのだと信じているからだ。共に苦難を乗り越えたことに意味があるのだと。マシュとも、過去にそんな話をしたことがある。古代の王に激励を浴びせられたこともあった。それなのに、今回はいつも以上にただ心が冷えて行くだけではなく、心に大穴が空いたような、元から埋まっていたものが突然抜け落ちてしまったような形容しがたい虚無を強く感じる。そしてこの虚無感の理由を、私はもう理解していた。

「短い間だったが、あんたのサーヴァントとして戦えた事は誇りに思うぜ名前」

 思えばこの特異点に来てからは目まぐるしく色々な事が起きた。特異点での滞在期間はそう長いものではなかったが、軽く一年は留まったのではないかと錯覚する程に、様々なことが起きたのだ。全ての事柄が昨日のことのように鮮明に思い出せる。手に汗握った戦いも、皆で囲んだ夕餉の温かさも、彼と共に過ごした星の綺麗な夜も、私の中には全て代えがたい記憶として刻まれている。

「次に会う時は私のことちゃんと覚えていてよね」

 嗚咽の合間を縫って言葉を吐き出す。別れ際の最後の台詞がこれでは目も当てられない。だが強がらなければ、私はきっと今よりも年甲斐なく泣き喚いていたことであろう。鼻を啜りながら意地で引っ張りだした言葉に、クーは呆れたように笑いながら確かに頷いた。

「お前さんはそういう無茶振りを……まあオレはそういう無茶な約束は好きだからな」

「言質とったから」

 こんな口約束では何の効力もない。だがどうせ忘れてしまうとはいえ、彼の中での最後の私がこんなにも不細工では彼に再び合い見えた時に恰好が付かない。そう思えば思うほど涙がぶり返してきて、また顔を上げられなくなった。強がるだけ強がって、結局は涙に負ける自分の弱さが心底嫌いだ。自責の念に捕らわれ、再び俯いた私の頭の後ろに手を回して自身の胸に押し付けたクーの腕の力も強くなる。鍛え上げられた厚い胸板に額が当たって、涙の奥で戦士としての彼の姿を思い出していた。

 体が、消えかけている。瞑った瞼を照らすように眩い光が自らを包んでいて、私は濡れた目を開いた。そしてそれは私だけでなく、クーも同じ光に包まれていた。強制退去が始まったのだ。離れ難くて回した腕に力を込める。だがもうその体は既に先刻まであった彼の存在を肯定するだけの確かな質量を失っていた。

「またな、名前」

 聞こえた別れの言葉と鼻に残る彼の匂い。最後のクーの声が耳に吹き込まれて、私を包んでいた体温が泡のように消えて行く。右耳にあった僅かな重みは跡形も無く消え失せ、クーに完全に預けていた体が傾き足元がふらついた。頭の奥で、私の名を呼んだ彼の声が反芻している。大きなものを失ったような喪失感に、目の前が白んでいた。
 放心状態の自分の体から徐々に力が抜けて膝が戦慄いている。そんな覚束ない私を咄嗟に支えた存在を見ることは叶わなかったが、俯いた地面に落ちる影で、それがマシュなのだとわかった。

「私たちはレイシフト先で様々なクラスの彼に何度もお会いしています。それはきっと、あの方とマスターの間に、縁があるからなのだと思います」

 直ぐ近くで聞こえるマシュの労りを含んだ声に小さく頷いて目を開く。目の前は涙で霞み、生き生きとしていた夏草の姿はもう見えなかったが、一抹の寂しさの中、確かな温かいものが胸に残っていた。
 今でも少し、右耳には彼の声と、ピアスの重みがあるような気がする。

最果ての体温

あとがき

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