それは夜明けの森の中にいるような、落ち着いた静かな声だった。とても、これから人を手に掛けるような人物とは思えない程に。その人は冷静で、思慮深く、堅実だった。ここに辿り着く前に大勢の人間を見てきたが、その誰とも違う、人格者だった。

「命とは平等であり、全て対等に扱わねばなりません。それがたとえ貴方のような、罪人のものであれど」

 重い手枷から伸びる鎖の擦れる音を辿って聞こえた声に耳を傾ける。野次馬が野次馬を呼んで軍勢となった民衆が集う広場を腕を引かれて歩く自分の様を客観視すると、酷く惨めであったが、その鎖を引く相手の言葉で、魂が許しを得たような、そんな気分になっていた。
 だが心は依然として晴れないまま、病に侵された時よりも何倍も重い足を引き摺って丘を登って行く。辺りに集った人々から次々と罵詈雑言が飛んで来て、おおよそ口には出したくもない言葉が塊となって体に当たる。これが同じ人間の所業なのかと、耳を疑った。言われた言葉に対してではなく、人は名も知らぬ赤の他人に対してここまで心無い事を言えるものなのだと、その事実に悲しくなった。
 そしてその言葉は鉛のように私の体に纏わりついて、比例するように重くなる足取りを何とか前へと踏み出し、ひび割れた固い地面の感覚を足の裏に感じながら、ひたすら進む。決して経験豊富な人生を送ってきたわけではなかったが、これから向かう目的の場所で行われる事は今まで生きてきた中で、最も嫌な事だった。叶うならば泣き叫んで喚き散らし、今すぐにでもこの場から逃げ出したい。逃げるためならば、この愚鈍な足も光の如き速さで動くことだろう。
 私は、今から処刑される。これほどまでの絶望は、今までに味わったことがなかった。昔、病に伏したことがあるがあの時は保って三月(みつき)程と言われ、衝撃に泣くことすら叶わなかった。だがそれと同時に、それは今にして思えばまだ三月の猶予があるという事実でもあり、そして私は不幸中の幸い、名医に診て貰えたこともあり、一命を取り留めたのだ。だが今はそれとは違う。あの時ならば意識的に遠ざける事が可能であった死が、今は目の前に迫って来ている。寧ろ、自らの足で死に近づいて行っているという皮肉に唇を噛み締めた。
 この時代の処刑は見世物だ。見学に来ている彼らが罪を犯せばこうなるのだと、見せしめに行われるのである。そして同時に、平凡な日々を過ごす数多の民に与えられた唯一の娯楽なのである。
 私は自身から伸びる鎖を追って再び斜め前を歩く人物を見た。白い短髪が風に揺れる、細身の青年だった。死刑執行人の仕事は何も首を刎ねる事だけでは無い。断頭台の組み立てから当日の罪人の輸送、そしてその死体の処理まで。それがこの仕事の一連なのだと、問うたら彼はそう答えてくれた。よくもこんな罪人の問いに答えてくれたものだと思ったが、それは彼が罪人であろうと分け隔てなく接する人格者だからであろう。そしてこの人物を、私はよく、知っている。
 人生とは時に皮肉なものだ。私が過去に病を患った時、死の淵を彷徨う私を救ってくれたのもまた、彼だった。あの時の事は明確に覚えている。高熱に魘され、呼吸すらまともに出来なかった私の手を握っていてくれていたことを、私は今でも昨日のことのように思い出せるのだ。彼はその事を覚えているかはわからない。彼にとってはごまんといる患者の中の一人としての認識であったのかもしれない。だがたとえそうであったとしても私は、脳裏にこびりつく程にはっきりと覚えていた。自身の命の恩人なのだから。そして同時に、彼は私と恋仲であった。
 そんな命の恩人に、生涯の恋人に、生へのピリオドを打たれようとは本当に、人生とはわからないものである。私を生かすも殺すもこの人次第。そう、どこか諦観したような、そんな気分だった。
 私にとって彼は死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンではなく、私を病から救ってくれた医者なのだ。大切な、恋人なのだ。
 彼――サンソンには口癖のように常に言っていた言葉があった。「罪人が苦しまずに死へと向かえるように尽力している」と。それが本当かどうかはこれから行われる自身の死をもってして体に刻まれることで真実がわかる。そんな彼に殺されるのならば、思い残すことはもうないのかもしれない。

「何か、言い残すことはありますか」

 邂逅に浸っているうちに断頭台の前に辿り着いていたらしい。サンソンの声で私は何処かへと飛んでいた意識を手繰り寄せて、顔を上げた。途端に目に飛び込んでくる禍々しい程に赤茶けた木の枠組みが、生の灯を失いかけている私をただ何も言わずに見下ろしている。首を固定する器具の先にはご丁寧にも籠が用意されていた。胴と切り離された首を入れるためだろう。同様の籠が寝台部分にあたる脇にも置かれていて、まさしく女性一人を入れるためにあるような大きさだった。頭上には三角形の巨刃が刃先を光らせて鎮座していた。
 これが、知り合いに頼んで作らせたという、人道を最大限に配慮した結果であり、そして、その所為で彼は何十人もの人をその手にかけることになってしまった成れの果ての装置。私が逝くことでシャルル=アンリ・サンソンはまた一人、その執行人数の歴史を更新する。私の人生は何もかも皮肉だらけだった。私が自分の足で此処へ来たのも、命を救われた相手に命を奪われることも。そして自分が殺されることよりも、残して逝くことになる目の前の相手にただ詫びたい思いでいっぱいだった。死刑制度を廃止してほしい。彼の悲痛な願いが頭を過っていく。言い残すことはあるかと問われたが、とても一言では片付かない気がして、何も答えなかった。
 苦悶に満ちた表情が脳内に流れ込むようにして広がっていく。最後に思い出す彼の表情がこんなにも浮かないものであるとは、何とも悲しい人生であった。そう振り返る私は台へ上がるよう促され、言われた通りに登る。そのままうつ伏せに寝転がるよう言われたが、後ろに回された手枷が邪魔をして上手くいかない。膝と顎を使い、這いつくばるようにして体を滑らせ何とか寝転がる。ずれた私の体を正しい位置に動かしたサンソンのその手つきが罪人に対するものではない程に優しくて、泣きたくなった。

「最期に言っておきたいことはありますか」

 彼が再び同じ質問を投げかける。抑揚のない声だった。だが私にはわかっていた。変わらない表情の奥で見え隠れする彼の動揺を。それでもそれには気付かないふりをして、私は静かに口を開いた。

「サンソン、」

 まだ固定されていない頭を彼の方に向けて私がそう呼びかける。緊張で乾いた口内からは虚しく掠れた声しか発せられず、もどかしい思いをしながら言葉を続けた。

「私の病を治してくれてありがとう。おかげで私はこの生を全う出来ました。だからどうか、今日のこの行いに悔いを持たないで」

 掠れた声ではひどく聞き取りづらかったであろう私の言葉に静かに耳を傾けた彼の重荷を、こんな罪人の言葉で軽く出来るとは思わないが、私にとっての彼はこれからもずっと、命の恩人であり共に過ごした人なのだ。決して、自分の命を奪った仇だとは思わない。それを伝えたくてそう零すと、サンソンはただ悲しそうに笑った。

「名前の次の人生が、きっと素敵なものであるように。僕はこれからもそう祈っているよ」

 答えた彼の言葉は、死刑執行人や医師としての顔ではなく、恋人として、いつも私に話し掛けるような、慈しむような声音で瞳を蕩かせて名を呼ぶ時のものであった。それを記憶の奥底まで刻み付けるようにして頷く。きっと、これが彼と交わす最後の言葉になるだろう。
 執行人が断頭台に手を掛ける。頭を固定されて、もう、その顔を見る事も出来なくなった。視界に入るのは前人の血を吸って赤黒く変色し硬くなった土で、罪人がこの世の最期に拝む景色としては、申し分ないのだろうと思いながら目を閉じ、刃が首を切り落とすその瞬間を息を殺して待った。
 頭上から箍が外れる音がして、重力に沿って降り落ちてくる重い刃が生み出す風を首元に受けながら、私の人生の幕引きが彼で良かったと、胸に浮かんだ小さな感謝の意と、この生の終わりと共に消えて行く恋を思う。
 刃先が首裏の皮膚を裂く感覚を最後に、私の意識は黒く塗り潰された。

dance off

あとがき

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