▼寄り添う手 泣き声が聞える。 レイア、また泣いてるの? まだ何処か痛むの?それともずっとベッドの中にいるのが辛いの? 僕が今すぐ傍に行ってあげるから。 今日は何をしようか? 新しい本を読んであげようか。それとも、昨日見た綺麗な鳥の話をしてあげようか。 レイア、今行くから。だから……もう泣かないで。 「んっ……レイア、……」 夢現の中でありながら泣き声に意識を引かれ、ジュードは手を伸ばした。 オレンジブラウンの髪に向かって。 それはジュードにとって子供の頃の日課みたいなものだった。 事故の後遺症に長く悩まされたレイアを慰めるため彼女の髪を撫で、涙を拭う。 そうして彼女が落ち着くのを待ってから微笑してみせ、本を読んだりして傍にいるのだ。 けれど、変な気分がした。 それは遠い昔の話で近頃のジュードの記憶に残っているのは明るく笑うレイアの顔ばかりだというのに。 そうは思いつつも癖のようにして、ぼやけた視界の中にあるオレンジ味をした茶の髪にふれた。 いや、触れようとした。 しかし、指先はその絹のような感触を捉える事は出来ず、すかっと空を切ると主の居なくなった枕の上へと落とされた。 「んっ?……レイ、ア?」 おかしいな、と感じながらも数度枕を撫でる。やはりレイアの気配はない。 ぼんやりと、まだ夢と現実がリンクした状態の目を開けてみる。 やや遅れて、ゆっくりと意識も覚醒しはじめた。 ぱちぱちと数度瞬きをする。そこではじめてジュードの意識は夢とのリンクが解除され、現実の中へと戻された。 「夢……、だよね」 確認を込めて独りごちる。夢に決まっていた。 ジュードとレイアはもう子供ではない。 それどころか、数年前に二人は結婚し今年第一子になる男の子が生まれたばかりだった。 大人になり、自分に寄り添い、妻となり、母となったレイアが事故の後遺症に泣いているはずがない。 「何であんな夢、見たんだろう?」 小首を捻ってみる。思い当たる節といえば、 「徹夜続きで疲れてるのかな……」 そんなところだった。源霊匣の認知を広める事、実用化レベルにまで引き上げる事を目標に日々研究と発表に追われる毎日。 研究所に缶詰状態になる事も日常茶飯事で、今日も真夜中過ぎに5日ぶりの帰宅を果たした。 その時も、遅い時間だというのにレイアはしっかりと起きて、 「お仕事お疲れ様。徹夜続きで眠いだろうけど、少しでもご飯食べて、お風呂入ってから寝てね」 労いと微笑で出迎えてくれたのだ。当然、泣いてなどいなかった。 尤も、目の下に隈が薄っすらと出来ていて、その事だけは気になったけれど。 「でも……泣き声、聞えた気がしたんだけどな」 諦め悪くもう一度、小首を捻った。 「それに……、レイア、どうしていないんだろう?」 枕元に置いてある時計に目をやった。 時刻はまだ朝と言うには早く、やっと早朝の気配がし始める頃合。 起き出して、朝食の準備をするには早すぎる時間だった。 レイアが温めなおしてくれた夕飯を軽く食べ、風呂にも入り、雪崩込むようにしてベッドに潜り込んだのが数刻前。 その時までレイアも起きていて、眠りについたのは一緒だった。 という事は彼女の睡眠時間だって、ほんの数時間にしかならない。 それなのに何故、今ここに居ないのだろう。何時もならジュードの隣でまだ寝ている時間だというのに。 抜け殻になっている、本来ならレイアが寝ているであろう部分に手を触れるとほんのりと彼女の体温が感じられた。 起きてまだそれ程時間は経っていないらしい。 もしかしたら偶然起きて水を飲みにキッチンにでも居るのかもしれないが、何となく気になり確認しにいってみようとジュードもベッドから立ち上がった。 そうしてふと視線をダブルベッドの脇に置いてあるベビーベッドに向けてみる。 そこにいるはずの小さな体もレイアと同じく存在していなかった。 寝室を出ようとした動きを止め、怪訝な顔付きになってしまったジュードの耳に、微かに子守唄を歌う声が聴こえた。 窓の外だ。 扉へと向かっていた体をくるりと反転させ、窓に寄るとほんの少しだけカーテンをめくった。やはり、まだ日は昇りきっておらず薄暗さを纏っていて、眩しさを感じる事はなかった。 その薄闇の中にぼんやりと人影が見える。 窓辺に寄った事で微かにしか聞こえていなかった声をはっきりと聞き取れた。 間違いなく、レイアの声。 目を凝らしてみれば、彼女の両腕の中には防寒具でしっかりと覆われた息子の姿もあった。 どうやら息子に話しかけているらしいレイアの声に耳を澄ます。 「最近ご機嫌斜めだね。パパがいないから寂しいのかな?」 むずがっている息子の泣き声も僅かながら聞こえた。 レイアはそっと腕の中の小さな体を揺する。 まだ母親になったばかりのレイアだが、その仕草はしっかりと馴染んでいてジュードを不思議な気持ちにさせた。 記憶の中にある、頑張り屋だけれど、ちょっと騒がしくて、肝心なところでドジを踏んでしまい目の離せない女の子が母親の顔をして、彼女と自分の子供をあやしているなんて。 無邪気だった子供の自分達が大人になり、心が寄り添った事を強く実感する。 そして同時に確かな時間の流れと若干の焦りも……。 少年から大人になったというのに、自分はまだ源霊匣で世界を救うための活路に辿り着けていけない。 そんな時決まって脳裏に浮ぶのは、かつて共にあった精霊の主と世界の全てを背負う覚悟を持った偉大なる王の姿。交わした約束。 半ば己の中で強迫観念めいたものを生む感情に急きたてられ、ジュードは1年の殆どを休みも取らず研究に没頭した。 それは子供が生まれてからも変わらず、だからこそレイアは母親に成り立てだというのにこんなにも子守に慣れているのだろう。 文句一つ、愚痴一つ言わず、何時も「頑張って」とジュードを送り出してくれるレイア。 レイアの息子へ語りかける声は続く。 「寂しいよね。ママも寂しいもの。でもね、貴方のパパは世界のために今一生懸命頑張ってるんだよ。貴方が大きくなった時、『僕の父さんは凄い人なんだ』って胸を張れる様なお仕事だよ」 自分に語りかけられている訳ではないのだが、ジュードは息を呑み、レイアの言葉を一言も聞き逃さないように耳に意識を集中させた。 『寂しい』。その言葉をレイアの口から聞いたのは結婚して初めてかもしれない。 「それはとっても大変で気の遠くなる様な研究だけど、……私は叶うって信じてる。ジュードなら絶対に叶えてみせるって。もしかしたら、貴方が大きくなった時、パパのお仕事を手伝ってるかもしれないね。そうなってくれると嬉しいな」 それ位、時間の掛かるお仕事なんだよ、とまだ1歳に満たない我が子に真面目な声音で告げると、ふくふくとした柔らかい頬にキスを落とした。 どうやらキスの効果はあったと見え、息子の泣き声は小さくなっていく。 「ふふ、いい子だね。貴方が大きくなるまで、パパの分まで私がいっぱい愛してあげるからパパの事許してあげてね。今日もね、久し振りに家のベッドで眠れたの。それでも明日は朝早くから出勤なんだよ」 大変でしょ?と母親に問い掛けられ、赤ん坊はきゃっきゃと笑ったようだった。 もうご機嫌は直りつつあるらしい。 「だからごめんね。もう少し、ゆっくり眠らせてあげてね。時間がくるまでママとここにいようね。もうすぐ朝日が昇るのが見えるよ」 一緒に見ようか。寒くないようにしてね。レイアは母の顔でずり落ちかかった防寒具を小さな体に掛けなおした。 「レイア……」 それまでのレイアの一連の行動と言葉を、カーテンの隙間からじっと覗き見ていたジュードはぽつりと妻の名を呟いた。 レイアの言葉が頭の中で何度も反芻される。 『寂しいよ』 『私は信じてる』 『貴方がパパを手伝っているかも。そうだと嬉しいな』 『パパの分まで愛してあげる』 『もう少し、眠らせてあげてね』 それらを心で何度も噛み締めていると、ふいに女性の声を思い出した。 レイアの柔らかく明るいそれとは違う、凛とした響きの。 『気の遠くなるような偉業も、人は有限の命の営みの中で幾つも成功させ、築き上げているのだな。願いと意志を次の世代に、子孫に託す事によって。我々精霊は命のサイクルが長く、子を成す事はない。これは人にしか出来ない信念の貫き方だな。時には悪しき意志と負の遺産を次世代に残してしまう事もあるかもしれないが、それでも、『子に親の意志を託す』というのは素晴らしい事だな、ジュード』 発展した町並みを並んで眺めながら交わした会話。 彼女はこうも付け足した。 『君達の意志もやがて君達の子らに受け継がれていくのだろうな。私はそれを見守っていきたいと思うよ』 精霊の主として。と。 「(うん……そうだね、ミラ)」 意志の強い、凛とした美貌の横顔に窓の外、二人の意志を継ぐ小さな命を抱き締めるレイアの姿を重ねた。 ずっと、急がなければと思っていた。 今、自分がやろうとしている事が気の遠くなるような長い道のりの先にしかないのは考えなくても理解っていたから。 そして、自分の命が有限である事も。 だからこそ、自分の生きている内に約束を守らなければと躍起になり、心を寄り添わせたレイアに手を差し伸べる余裕を無くしていた。 決して蔑ろにしていた訳ではないけれど、焦りで視野が狭くなっていたのも事実だった。 現に、今日初めて気付いたのだから。レイアの目の下に出来た隈に。 あれは恐らく、毎晩夜泣きを繰り返す息子の相手をしているために、ゆっくりと睡眠時間を取れていないせいだろう。 今朝も息子が泣きだした為にレイアは慌てて起きて、我が子を外に連れ出したのだ。 ジュードの睡眠を妨げないために。 子供の頃のレイアが泣いている夢を見たのはきっとそのせいだ。 ジュードが夢現の中で聞いた泣き声はレイアのものではなく、息子のものだったのだろう。 たったひとりで子供と向き合おうとしているレイア。 けれど、それではいけない気がした。彼女の腕に抱かれているのは、『二人の意志を継ぐ命』なのだから。 『子に親の意志を託す』。それが『人』の信念の貫き方だとミラは言った。 『貴方がパパを手伝っているかも。そうだと嬉しいな』。レイアは我が子にそう言った。 つまりは、レイアに、我が子に向き合うことが――一見遠回りだと思えるそれが――ひいては交わした約束への近道になるのだと。 大きくなった息子と共に源霊匣の研究に励む未来を想像する。 今よりも、源霊匣が認知された世界で親子二人、よりよい発展を目指して時には意見の食い違いから揉めたりもするかもしれない。 そんな自分と息子をにこにこと優しい笑みで見守るレイア。 幸せ、だと思った。 そしてその先に交わした約束が見える気もした。 「(ちょっとだけ……遠回り、してもいいかな?ミラ……)」 凛とした美貌が、柔らかく微笑み、頷いてくれた気がした。 ジュードは一度目を閉じ、心の中でミラへ微笑み返すと、静かにカーテンを閉めようとした。 くしゅん!! 窓越しにもはっきりと聞えるくしゃみで手が止まった。 「やだ、もう。ママうっかりしてて自分の分の上着着て来なかったから」 あははは、とくしゃみを誤魔化すようにレイアは子供に笑いかけた。 最近は暖かくなってきたとはいえ、朝夕はまだ冷える。 レイアは部屋着のままの姿で、よっぽど慌てて子供を抱いて外に出たのだろう。 子供の防寒に気を取られて自分の分まで意識がいかなかったらしい。 「もう、レイアってば。やっぱり相変わらずそそっかしいんだから」 ジュードは小さく笑うと、今度こそカーテンを閉め、当初の目的であった扉へと向かった。 手には暖かい上着を持って。 まずは彼女の『寂しさ』に寄り添う事から始めよう。 一度目のくしゃみ程ではないが、小さなくしゃみを数度立て続けにしたレイアは、 「やっぱりまだ明け方は肌寒いね。大丈夫?寒くない?」 と、腕の中で夫に良く似た笑顔を零す息子をしっかりと抱き直した。 東の空の端から少しずつ明るくなっていく。 もうすぐジュードを送り出す準備をする時間がやってくる。 (ジュード……、今度は何時、帰ってくるの、かな……) 明けの空を見ながらふいに湧き上がった『寂しい』という感情を心の中に押し込め、代わりに腕に抱いた我が子に語り掛けた。 「ほら、お日様が見えてきたよ。きらきらして綺麗だね。そろそろパパを起こす時間が、……ふぁっ」 言葉の最後に欠伸が混ざる。最近寝不足が続いている。 しかし、ジュードは今日も出勤の予定だ。この朝を逃せば次は何時顔を合わして会話が出来るか分からない。僅かな時間も無駄にはしたくなかった。 レイアは何とか欠伸を飲み込むと、息子と二人、朝日が昇り切るのを見守ってから朝食の準備をするために家に戻ろうとした。 だが、それよりも先に肩にふんわりと掛けられた上着の感触に動きを止めた。 そして現状の把握をするよりも早く、腕の中にあった重みが攫われてしまった。 レイアのものよりもしっかりした腕に抱き上げられ、体が空に近付いた息子はきゃっきゃと笑い声を上げた。 そこに混じる優しい声。 「二人ともおはよう」 「ジュード……?おはよう。もしかして起こしちゃった?」 「ううん、偶然起きただけ」 「そっか。あ、私朝ごはんの準備し、」 「してくるね」と踵を返そうとした体はジュードの手で引き止められた。 「いや、今日はいいよ。朝食は僕が作るし、レイアはそれ食べたら少し寝なよ」 「え……?でも、ジュード、今日も出勤じゃ……」 「今日は有給休暇取るよ」 「どうして?約束を叶えるためにも頑張るって言ってたじゃない」 「うん、だから今日は休むんだよ」 そう言うと、父親に抱かれご機嫌の息子に「今日はお父さんと過ごそうね」と微笑み掛けるとレイアが「どういう事?」と問う間も与えずに、さっと彼女の手を取り、指を絡めた。 「朝ご飯何食べたい?リクエスト、何でも作るよ」 そうして、訳も分からないまま、目をぱちぱちとさせるレイアの手を引いて家に向かいながら耳元に口を寄せ、囁いた。 この寄り添う手の先に約束があるって気付いたんだよ、と。 毎晩泣き出す我が子をあやすレイアを心配するジュード/匿名様 この度はリクエストありがとうございました。 リクエスト頂いてから完成まで間が空いてしまって済みません。 余りジュードがレイアを心配して〜な要素が盛り込めていないかもしれません、お望みの形と違っていましたら済みません。 拙い文章ですが、少しでも楽しんで頂けると嬉しいです。 2012.05.20 |TOP| |