Offline

Je pence a toi


(原田×千鶴/SSL)サンプル



 「先生」
 心とは裏腹に唇から零れ落ちる、落ち着いたいつもと変わらない私の声。
 オレンジに染まった先生の広い背中は、私に呼び止められることを分かっていたように、しかし振り返ることなくその場にとどまる。
 下校時刻を過ぎた教室も、静かな校庭も、誰も居ないこの廊下も。
 全てを燃やし尽くすオレンジの光が、私と先生の背中を強く照らして、時間が止まってしまったのだと錯覚しそう。
「せんせい…」
 もう一度呼んだ声は、先ほどのものと比べて笑ってしまうくらいに頼りなく、掠れた響きを持って漂った。
 びくともしない背中が振り向くことはない。幾ら呼んでも、きっと振り返ってくれることは無いのだろうと。
 直感でひしひし感じながらも、私は言葉を紡いだ。
「先生、私は――」
 せんせい、わたしは。
 ――私は、先生のことが大好きなんです。
 数歩先でとまっている背中に今すぐ駆け寄って、そして何処にも行ってしまわないように。
 縋り付きたい、そう思った。
 思ったのに、私の足は言う事を聞かず、その場に根が生えたみたいに動かないまま。 止まってしまった時間の中、先生もピクリとも動かずとどまったまま。
 オレンジの残光はじりじりと、私と先生の背中と無人の空間を焼く。
 音すらなくなってしまったようで、静か過ぎる私の脳内には耳鳴りが響く。
 何か言って欲しかった。
 私は、の後に私が何を言うかなんて、先生はとっくの昔に分かっているでしょう?
 分かっているくせに先生は、いつだって優しい笑顔を浮かべて、私の声など聞こえなかったかのように振舞って。気紛れに頭を撫でてくれる大きな手も、泣きそうなくらい暖かくて、優しくて。
 今まで築いてきた先生と私との関係が崩れないよう、わざとそんな態度をとってくれているのだと理解してはいても、不満と安心が入り混じる感覚には心地の悪さを覚えずにいられなかった。
 私の気持ちを伝えてしまってはいけない。本当に、頭では分かっていたけれど。
 我慢すればするほど私の中に棲んでいる先生への想いは膨らんでいって、もう、どうすることもできなくなってしまった。
 振り返らない背中がじわり…と滲んで。
 そうして私の唇は、禁忌を犯す。

【冒頭より抜粋】2012/03/04.ゆきさくら第五章新刊




prev top next