その13 A never ending journey さあ行くんだ その顔をあげて 新しい風に 心を洗おう ********* 朝6時、空のペットボトルを持って家を出る。 一つ、深呼吸をする。 9月に入り、朝晩が過ごしやすくなった。 特に朝のこの時間帯はカラッと爽やかで、いつもの散歩道を行く足取りも軽くなる。 歩いて5分ほどのところに湧き水があり、それを汲んでコーヒーを淹れるのが日課なのだ。 海岸沿いを歩き、朝焼けの砂浜に彼の姿を探す。 (またいる) 毎朝、この時間、砂浜にポツンと座っている子供がいる。 子供と言っても、高校生くらいの男の子だ。 一か月くらい前から姿を見るようになった。 毎日、一人で海を眺めている背中が寂し気で、ついつい姿を探してしまう。 彼の姿を横目に湧き水を目指す。 「あら、おはようございます」 「おはようございます」 水を汲んでいたら、声を掛けられ、ご近所の藤谷の奥さんと挨拶を交わす。 「秋めいてきたわね、今年の夏は特に暑かったでしょ、涼しくなってうれしいわ」 杖を蛇口の横に置いて、藤谷の奥さんもペットボトルへ水を汲む。 一昨年、ご主人を亡くして以来元気がなかったが、最近は町内会の行事などにも顔を出すようになり、明るさを取り戻している。 「奥様の散骨、先週だったのね」 「ええ」 「そう。お骨が側にいなくなっちゃうと寂しいでしょ」 「そうですね」 本当のところを言えば、闘病が長かった妻の骨は焼いた後ほとんど残っておらず、彼女の体の一部だったものだという実感がほとんどなかった。 生前、妻が希望していた海への散骨を終え、どちらかと言えば役目を果たせた安堵の方が大きい。 「お持ちしますよ」 「ありがとう、助かるわ」 足の悪い奥さんの分も袋に下げ、海沿いを歩く。 藤谷さんの奥さんが海岸へと視線をやる。 「あら、あの子、またいるのね」 砂浜にポツンと座っている彼だ。 「ここのとこ、毎朝いるわよね」 心配そうに奥さんが彼の背中を見て、ぽつりとつぶやいた。 「居場所がないのかしら」 ******* 朝6時。 ペットボトルを持って、家を出る。 一つ、深呼吸をする。 冷たい空気が肺を満たし、白い息へと変わった。 数年に一度のドカ雪が降った。 慣れない雪に足を取られつつ、まだ暗い海沿いの道を行く。 海岸へと目をやる。 彼はいた。 「ああ」 薄く雪化粧した砂浜、彼はそこに座っていた。 半袖のTシャツにジーパン、頭に雪を積もらせて、彼は朝日を眺めていた。 穏やかな顔をして。 (あの子は人ではない) と、確信した。 なぜなら、こんなに大雪の日なのに、彼は白い息を吐いていなかった。 ペットボトルに水を汲み、家路を急ぐ。 家に帰り、汲んだ水を沸かし、豆を挽く。 フィルターをセットし、コーヒーをドリップする。 カップへコーヒーを注ぎ、ひとつは食卓のトーストしたパンの横に、もう一つは仏壇へと供える。 ろうそくを灯し、線香をあげ、手を合わす。 その後、テレビを見ながらトーストをかじる。 ニュースは昨日から降り続ける雪の話題ばかりだ。 仏壇のおさがりコーヒーを飲みながら考える。 (あの子は幽霊だ) 妻の遺した本棚へと向かう、数冊手に取って昼過ぎまで読書にふける。 窓の外はまた雪。 しんしんと降り積もる。 活字を追いながら思考を巡らす。 幽霊、生きていないもの。 そういうものは信じていなかったが、実際に目にすると案外スッと受け入れられるものだ。 寂しげな少年の背中が脳裏によぎる。 明日の朝、海岸へ降りて彼に話しかけてみよう。 そう心に決め、また活字の海に溺れる。 静かな雪の日。 ********* 「おはよう」 話しかけると、彼は微笑んだ。 「おはようございます〜」 のんびりとした口調で返してくれた。人懐っこい笑顔で。 海岸には昨日の雪が薄っすら残っている。 真冬の海辺に半袖Tシャツにジーパンという姿の少年。 やはり、白い息は吐いていない。 彼のとなりに座る。 「いつもここにいるね」 「地縛霊だからね〜」 地縛霊。 あっさり自分が幽霊であることを認めた。 「ここで人を待っているんだ」 と彼は言った。 話を聞くと、彼は名前も生前の記憶もないということや、ここに流れつくまで悪霊だったこと。 この海岸でとり殺そうとした女の子に恋をして、彼女にもう一度会いたいとここに留まっていることなど、色々と話してくれた。 表情に絶望の色はない。 好きな女の子の話をする少年の顔は幸福感に満ちていた。 「だけど、その女の子がまたここへ来るとは限らないんだろ、それでもいいのかい?」 「うん」 彼の目に迷いはない。 「彼女を好きな気持ちとはぐれたら、俺、また悪霊に戻ってしまうと思うんだ」 もう、人や自分の運命を呪いたくないんだ。と、彼は冬の海を見つめた。 「彼女を想い続けて、穏やかな気持ちのまま海を眺めていたいんだ」 あまりにも満ち足りた顔で、酷く羨ましい気持ちになる。 しばらく彼と話して、家に帰る。 いつものように、汲んだ水でコーヒーを淹れ、仏壇の明かりを灯す。 手を合わせ、妻をおもう。 ひとりきりの静かな暮らし、付きまとう寂しさ。 花を飾り、ろうそくに火を灯し、手を合わせ、彼女をおもい、そのうちそちらに行くからね、と心の中で呼びかける。 今も、妻は心の中で生きている。 思い出さない日はない。 妻が遺した本棚へ向かう、小説、児童書、漫画本、園芸雑誌、星座図鑑。 生きているころに、これらの本の話を妻としたことはほとんどない。 仕事が忙しく、家にほとんど居なかった。 趣味らしい趣味もなく、定年退職後の時間を持て余し、彼女の遺した本棚の本を左上から順に読んでいる。 本棚には宇宙が広がっていた。 知識という宇宙が。 この年になってもなお、知らないことがたくさんある。 妻が集めた本たち、妻が好きだったものや知識の波に溺れる。 生きている間に、彼女の心の中に広がるこの宇宙に触れ、もっと話をしておけばよかったと後悔する。 もっと話しておけばよかった。 後悔ばかりしている。 静かで平坦で何の変哲もない日々。 明日の朝、またあの少年と話そう。 本棚の本を持って、あの海岸で恋心に縛られている少年と。 人懐っこい笑顔にまた会いたい、そう思うのだ。 ******* それから朝の水汲みがてら、彼と毎日話をした。 近所の人たちとも仲良くなった地縛霊の少年は「バクちゃん」と呼ばれるようになった。 地縛霊だからバクちゃんよ、と名付け親の藤谷の奥さんが言っていた。 遠くにいるお孫さんにバクちゃんがよく似ているらしく、海岸に住み着いた幽霊を可愛がっていた。 バクちゃんと色んな話をした。 この町のこと、湧き水のこと、星座の話、小説や漫画の話、昔のアニメの歌なんかも教えたりした。 とてもいい子で、子供がいたらこんな風に話をしたりしたのかな、と思う。 親御さんのことを思う。 自分の子供を亡くすだけでも辛いだろうに、その子の魂が彷徨って行き場をなくし、狭い海岸に縛られていると知ったら更に深い悲しみに暮れるだろう。 もしも妻の魂がこんな風に彷徨っていたら、やりきれない。 海へ放った妻の骨粉、何とも言えないあの灰色の粉。 彼の魂が救われる方法はないものか。 こんな狭い海岸に囚われず、解き放たれてほしい。 ある春の朝、バクちゃんに尋ねた。 「バクちゃんは成仏したくないのかい?」 彼は首を横に振り、凪いだ海のように答えた。 「ここで彼女を想っていられたらそれでいいんだ」 出会った頃と同じセリフを繰り返す。 満ち足りた顔にまた、羨ましさを覚える。 だけど、と彼は空を見上げた。 「好きな女の子と心を通わすことができたら、どんなに幸せだろう、とも思うんだ〜」 少年の言葉に目が熱くなる。 涙が出そうになり慌ててうつむく。 恋も知らぬまま、彼は死んだ。 「思う、けど。あの子は来ない」 わかってるんだ、と少し寂しげなバクちゃん。 彼の栗色の毛が春の風に溶ける。 「もう一度会えたらいいな、と思うけど、きっとそんな奇跡は起きない」 「起きないのかい?」 「起きないよ」 穏やかな春の海、地平線が少し霞んでいる。 「もし奇跡が起きて、もう一度会えたとしても。彼女が俺を好きになるなんて、そんな奇跡のまた奇跡は起こらない」 「そんなの分からないよ」 「分かるよ。俺、幽霊だし。死んでるんだよ」 「幽霊でもバクちゃんは男前だし、優しいし、その女の子だってバクちゃんのこと好きになるよ」 「そうかなぁ。そうなったら幸せだろうな。ありがとう、おじさん」 バクちゃんはとてもいい子だ。こんな息子が欲しかった、と思うくらいに。 この町の人間はみんな彼のことが好きだ。人懐っこく、穏やかで、どこか寂し気な彼のことが。 彼の頭を撫でる。 髪を手でといてやると嬉しそうに身をよじるバクちゃん。 まだ子供なのだ。 そう、彼はまだ子供なのだ。 家庭で愛情を受け、守られて過ごす年齢だ。 なのに、親や家とはぐれ、見知らぬ土地でたった独り”運命の女の子に恋焦がれる”ことでやっと自分を保っている。 奇跡を諦め、だけどどこかで奇跡のまた奇跡を期待している少年。 誰か、彼の魂を救ってやってほしい。 「来るよ、バクちゃん。銀河鉄道999が」 「スリーナイン?」 「そうさ、999」 彼へ渡そうと持ってきた漫画本を差し出す。 銀河鉄道999の第一巻、家には全18巻が揃っている。 「これは前に貸してくれた”銀河鉄道の夜”とは違うの?」 「あれは死後の世界へと死者を送る汽車だね」 「これは違うの?」 「うん。違うね。999は新しい世界へと連れて行ってくれる汽車だね」 天国への旅路の話ではない。 「これは冒険のお話さ」 未知の世界へと走り出す話。 「君を広い宇宙に導いてくれるメーテルがこの世界に必ずいるよ。そしたら999に乗って出発だ」 「めーてる」 「ほら、この美人さん。主人公の運命の人だよ」 メーテルを指して、妻の顔が浮かんだ。 「思ってもみなかった世界へ君を導いてくれる出会いが、きっと君を待ってる」 彼女がこんな風な歌を病室で歌っていたのを思い出した。 妻に会いたい。会って話がしたい、バクちゃんのことを話したい。 彼女の遺した本棚の宇宙について話したい。 会いたい。 「おじさん、どうしたの。泣かないで」 慌てて濡れた頬を拭う。 「バクちゃん、おじさんもこの町のみんなも君のことが大好きだよ」 幼子のような柔らかい髪をとかす。 「君のことを見守っているよ」 孤独を、心に空いた穴を埋めることは難しい。 だけど、人は孤独を分け合い寄り添いあうことができる。 そうやって生きている。 この町でそうやって生きている。 「ひとりじゃないよ、だから絶望しちゃダメだよ、希望を捨てちゃダメだ」 自分に言い聞かせるように彼に言った。 必ず会える。 また、もう一度。 水を汲み、コーヒーを淹れ、ろうそくを灯し、手を合わせてその時を静かに待っている。 「だからその時までここにいたらいい」 今日の波は穏やかだ。 沖の方に霞んで見えるのはサクラエビ漁の船。 「安心してここにいていいよ」 ありがとう、と彼はまた笑った。 春の風が、バクちゃんの細い髪をさらった。 ****** その日は突然来た。 妻の二度目の盆を迎えた、暑い朝のことだった。 「彼女と再会したんだ」 地平線の彼方の入道雲を見つめ、ぽつりとつぶやかれた言葉。 嬉しくなって思わず肩を叩いた。 「よかったじゃないか」 「ありがとう」 小さく礼を言った横顔は浮かない様子。 「どうしたの?話しかけられなかった?」 「ううん、話せた。今日も会う約束をしてるんだ〜」 「そうか、楽しみだね」 「うん」 でも、と少年は言った。 「不安なんだ。自分を見失いそうで」 恋焦がれて自分を見失う。なんて、今はもう昔の話で忘れてしまった。 「いいじゃないか、見失ったって」 「そうなのかなぁ〜」 「そうだよ」 海の家のスタッフが貸し出し用のビーチパラソルや浮き輪の準備をし始めている。 昼は海水浴客で混雑するこの浜辺、にぎやかな学生たちと道でよくすれ違う。 「バクちゃん。好きな人と好きな場所に行っていいんだよ」 その時が来たら、行っていいんだよ。 「ここがいいなら、ここにいてもいい」 「ありがとう、おじさん」 朝陽が海面に反射し、キラキラとガラスのように光っていた。 ****** 次の日の朝、バクちゃんの姿は浜辺になかった。 水を汲んでいると藤谷の奥さんがやってきた。 「今日も朝から暑いわね」 「そうですね」 海岸沿いにできた大きなリゾートホテルについて世間話をし、ペットボトルを満タンにして二人で海沿いを歩く。 浜辺に数人の若者がいた。 バクちゃんがいつも座っているかき氷屋の前で中高生らしき少年少女が。 女の子が小さな花束を持っていた。 「あ、ちょっと。どうしたの」 藤谷の奥さんが声をあげる。 私は、海岸へ向かう階段を駆け下りる。 海に向かって目を閉じ、手を合わせる彼らに声をかけようと息を整えていると、女の子がこちらに気付いた。 かわいい女の子だった。 「君、それ……バクちゃんのかい?」 花束を指して尋ねると、彼女は大きな目を丸くしてうなずく。 「行ってしまったんだね」 朝焼けに海面がきらめいている、地平線のかなたも光っていた。 彼女の手元でひまわりの花束が揺れている。 本棚の中にあった園芸雑誌、そこに書かれていた花言葉を思い出す。 「”あなただけだけを見つめる”バクちゃんにぴったりだ」 女の子がはっと顔をあげた。 小ぶりのひまわり。毎朝見ていた少年の笑顔に似ている。 雨の日も、雪の日も、彼は空を見上げ、穏やかに笑っていた。 「彼は、汽車に乗って行ったかい?」 少年たちは顔を見合わす。 その中の眼鏡をかけた長身の男の子が教えてくれた。 「はい。999に乗って行きました」 「そうか。冒険に行ったか」 死者の国ではなく、新しい世界へ旅立ったのだ。 「ちょっと、あんた。いきなりどうしたの」 杖を突き、藤谷の奥さんが砂浜に足をとられながらやって来る。 短髪の少年が転びそうになった藤谷さんの手を取り、”ばあちゃん大丈夫か”と声をかける。 藤谷さんは少年たちの顔を見回し、”あらあら、可愛い子たちだね”と嬉しそうだ。 たしかに、綺麗な顔の少年たちだ。 タレントか何かだろうか。 その中でもひと際派手な顔の少年が口を開く。 「あいつに歌や、銀河鉄道を教えましたか」 「ああ、本をよく彼に渡してたよ。古いアニメの歌なんかも教えたかな」 そう答えると、派手な顔の少年は眼鏡をかけた少年へと視線をやり、二人は顎を引く。 「あなたに”ありがとう”と伝えほしいと言っていました」 「え」 「自分を憶えている人がいることが心強いと知らなかった、と」 「そうか」 バクちゃんがどうかしたの?と藤谷さんが尋ねる。 「藤谷さん、バクちゃんが行ってしまったよ」 「……そう」 成仏できたの、と奥さんは手を合わせた。 「よかったねぇ、バクちゃん。ずうっと、ここで寂しそうにしてたからねぇ」 彼がいつも座っていた場所を見て目じりを拭う。 花束を持った女の子が目に涙をため、唇を噛みしめている。 確かめはしないが、おそらく彼女がバクちゃんの想い人ではないだろうか。 バクちゃんのメーテル、彼の運命を変えた女の子。 「ひまわり、一輪わけてもらえるかい?」 女の子はうなずき、藤谷さんにも一輪差し出す。 この海岸で待ち人を待っていた、あの子のようなひまわり。 「ありがとう。おじさん達もバクちゃんを忘れないよ、とってもいい子だった」 「本当、いい子だったねぇ。寂しくなっちゃうね」 「また会えますよ」 「そうだね、もうすぐ会えるねぇ」 少年たちは少し目を赤くして、うつむいた。 女の子の目から大粒の涙があふれていた、砂浜へ雫が落ちていく。 涙にぬれた顔を朝日が照らして、キラキラと輝いていた、地平線も光っている。 ひまわりの花束を海風が揺らす。 別れを受け入れ、新しい風に心を洗う姿が、とても美しかった。 「もうすぐいくからね、ひとりじゃないよ」 小さくつぶやく。 今日からはコーヒーを三人分淹れ、バクちゃんの分も思おう。 花を飾り、ろうそくを灯し、手を合わせて。 この町で静かに暮らし、寄り添いながら。 妻の遺した本棚に存在する活字の宇宙に溺れ、やがてその時がくるまで。 いつかまた、出会った時には、君のその冒険の話を聞かせてほしい。 prev / next 拍手 しおりを挟む [ 目次へ戻る ] [ Topへ戻る ] |