3-4 [12/28]
瑞希とリンが陸上部の部室前で霊に襲われていた同時刻、ベースでは。
「(またナルの夢を見ちゃった)」
麻衣とナルが、二人っきりになっていた。
年頃の二人だけなのに、甘さが皆無な空気なのは、校舎を見て回って帰って来たナルに居眠りをしているのを見られたから。
独りで留守番をしていて怖かったはずなのに、いつの間にか寝てしまっていたの!
昨夜もぐっすり寝たし健康面では問題ない。不可抗力なのよ!なんて、目の前の涼しげな顔立ちをした男に悪びれもせず言い切れたらいいんだけどね。言えないわ。
――調査の時に限ってナルの夢…見ちゃうのよね。
いつもナルの夢を見るわけじゃない。あたしがナルの夢を見るのは、決まって不安になってる時とか怯えてる時で。
夢の中に出て来るナルは、現実のナルとは違い柔らかく笑ってくれる。普段、笑ってはくれない彼の表情を夢の中で思い描く――…それはつまり、現実世界のナルに恋しちゃってるから?自分でも気付かぬ内に、ナルにあんな風に笑い掛けられたいって思ってるの?
「なんだ、さっきから」
「イッ…イヤッ、べってべべべ別に!オホホホホ――…へ?」
恐ろしく整った顔がこちらを向いたので、どきりと心臓が跳ねた。
さっきまで一方的に他愛無い話をしていたあたしが押し黙ったのを訝しんだナルの冷たい視線が、顔面に突き刺さる。じっと見つめ過ぎたみたい。
乾いた笑みで誤魔化そうとしたら、ナルが口を開いたちょうどその時、
カタンッ「――!」
天井から物音がして、意識が上に向かう。本能的に、異変を察知した。
ただ上から音がしただけ。そう処理するには、見逃せない何か……故意的に立てられた音のような、そんな感じがして、ハッと気付く。ここは最上階で、上に教室はない。誰かが上で動く音など立てられない。
カタン、カタンッと何かが移動する音。
ただの音だと流せないのはナルも同じで。椅子から腰を浮かしていた。あたしもいつでも逃げられるように立ちあがって、異変を確認しようとした。
不気味さを増徴させるかのように、電気が点滅して、一瞬明かりが消える。
「……ナル」
「落ち着け。動くな」
神経を尖らせていた二人の視界に、人間の髪の毛が飛び込んだ。
どちらかの髪ではない。それは天井からたらりと現れたのだ。闇を思わせるようなパサついた黒髪。一房垂れて、もう一房現れる。じわり、じわりとソレは重力に逆らって姿を見せる。
「……動くな。大丈夫だ、じっとしていろ」
チカチカと光がついたり消えたりしてる。自然現象ではないのは明らかで。
ソレを見逃さない、視線を逸らせば命を持って行かれる気がして、瞬きも忘れた。
薄暗くなった室内に、色白の肌が天井から生えた。瞬間、息を呑んだ。恐怖から全身の毛穴が開くのを感じる。
「……うん」
――怖い、怖い。
完全に電灯が役目を終えた部屋の天井から、とうとうソレは姿を出した。
「ナル……!」
額からゆっくりと、頭部だけが天井からぶら下がった状態で。
一秒が永遠に感じる。早く、誰か。助けてっ。誰か、誰か――…瑞希先輩ッ。
焦るあたしを嘲笑うかのように、ソレは瞼を開かせて、ニタリと笑った。視線は合ってないのに、ぞわりとする笑みに、悲鳴が漏れた。
「あれがこの学校の霊なら、何もできない。大丈夫だ」
女性の霊は、以前見た富子の母親よりも恐ろしい形相で、生きた気配は感じられない。
青白い肌に、にたにたと笑みを浮かべるソレ。同じ人間だったとは思えない不気味さ。容姿だけで呪われるんじゃないだろうかと思わせるような雰囲気を持っていた。
視線が合ったらきっと連れて行かれる――…、
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン!」
根拠もないのにそう確信して生唾を飲んだあたしの耳に、力強いぼーさんの声が聴こえた。
ふっと身体が軽くなって、あたしはそこで初めて、霊から圧力を感じていたんだと知った。助かった、どくんどくんっと脈が速い。
「なんだ……今のは」
「とうとう、ここにも現われるようになったらしいな」
ぼーさんが意変に気付いて駆け付けてくれて助かったのに、ナルの通常運転な落ち着いた声音を耳にしても、震えは止まらない。
寧ろ、助かった今、アレが如何に異常だったのかを静寂があたしに突き付けている。
「大丈夫か?怖かったか?」
「……うん……」
張りつめていた意識が緩んで、力が入らなくて。情けなくもへたりと床に座り込んだ。
ぼーさんの柔らかい声音が有り難い。冷えた体温に、身に染みた。
冷静になって来ると、不意に夢の内容を思い出して、あっと掠れた声が零れる。
「どうした、麻衣?」
夢の中でナルに会って、彼と見たこの学校の校舎には至る所に火の玉――鬼火が灯っていた。
鬼火なんて見た事なかったし知識なんてない筈なのに、蠢く火の玉が鬼火だと解かった。そうだ…この部屋の位置にも鬼火を見た。
「っ、」
――なんてことだ。
あたしは震える手の平で口を覆った。
あたしの青褪めた顔を見たナルとぼーさんが、眉をひそめて何か言い掛けたんだけど、廊下から慌ただしい足音が響き渡って二人とも口を閉じる。三人の視線が扉に向かった。
『麻衣ッ!』
「瑞希せんぱいっ」
『大丈夫…だった、?』
「せんぱ〜い、瑞希せんぱいッ」
ナルみたいにいつも冷静で、温和な笑みを絶やさずゆったりとした雰囲気の先輩の登場に、麻衣は涙が出そうになった。
霊気を感じて走って来た瑞希は、室内を見渡してナル、ぼーさん、最後に麻衣に視線を巡らて。しゃがみ込む麻衣に駆け寄る。
瑞希が来たので、麻衣の前で顔を覗いていたぼーさんは一歩下がった。
「あれは……ナルを狙ってるんだ」
麻衣は、中腰で屈んだ先輩の腕を掴みぽつりと呟いた。
瑞希と一緒にベースの中に入室したリンの視線も、様子の可笑しい麻衣に集まる。
「――なに?」
『麻衣?』
「この部屋じゃない。あれはナルに現れたんだ。あれは良くない。ナルが危ない」
うわ言の様に虚ろな眼で呟く麻衣を見、
『……』
「だから、あれは邪悪なの。学校中にいる鬼火。あれはその中の一つなんだよ。ナルを狙ってる」
ナルと瑞希は顔を見合わせた。
「……麻衣、起きてるか?」
「起きてる。あたし錯乱したりしてない。自分でもなぜだか分かんないけど、分かるんだもんっ!」
『(そうだった…)』
発展途上だけれど、この後輩にはトランス能力があるんだった。
典子さんの幽霊屋敷にて、富子の母親――大島ひろの過去を夢を通じて見ていた。今回も、無意識に発動していたのだとしたら、彼女の言葉は本物だ。
「どうしてだか分かんない。でも、鬼火を見た瞬間、あれは邪悪なものだって分かった。霊なんてもんじゃない、むしろ鬼だよ。絶対に危険なものなの」
動物が本能で危険を察知する、麻衣のはそれに近い。
危険察知能力に長けている彼女がそう言うのだから、危険なのだろう。私も実際に先程、この眼でしかと見たから、麻衣を信じられる。
『ナルを狙って…た?』
「そうなんです!あの女…ずっとナルを見てたっ!あたしと一度も眼を合わせなかったんですッ!ナルを狙ってるからっ」
滝川さんとナルが目配せしているのを横目に、私は麻衣の背中を擦った。
麻衣とナルの前に現れた霊の様子は、私とリンさんの前に現れた霊と似ている。同じ霊…じゃないとは思うけど、関係ないとは言い切れない。
私の仮説通りなら――…麻衣は正しい。
『麻衣、落ち着いて。今はもういないから』
あの霊もリンさんではなく私を狙ってると考えると自然で……正直心当たりがある為、心に反して笑みが零れる。
麻衣が落ち着いた頃、除霊に取り掛かっていた真砂子達が戻って来た。
「――私達のところにも現われました」
全員が集まって報告し合う中、リンさんも珍しく口を開いた。ナルの視線が彼から私に意味深に向けられ、こくりと頷く。
「マジかよー」と滝川さんの心底疲れてるといった声音が鼓膜を震わした。
「そんなはず、ありませんわ」
寄せられる相談内容から、幽霊はいると踏んでいた滝川さんやナル達は、やはりといった表情を浮かべているが……。霊媒として優秀な真砂子は、否定の声を上げた。
「この部屋には霊なんていません」
私が“視た”と、言ってしまうと、友達の意見を覆す事になってしまう。
真砂子を追い詰めるような発言は出来なくて、口を噤んだ。
「じゃあ、僕らが視たものはなんだと?」
「……分かりません。でも、それは霊じゃありません。絶対に違います。――そうでなきゃ、あたくしは霊能力を失くしたことになります!」
ナルにまで責められて、真砂子の語尾は半ば叫ぶように荒げられた。ツキンッと心臓に痛みを覚えた。
真砂子は狙われてないから視えなくて当然なんだよと言えたらいいんだけど…まだ言えなくて。掌を握りしめた。
「瑞希っ、霊が出たってホントなんですの?」
『…まさこ…』
「ホントに霊だったの?」
霊媒者の意見が割れた。
複雑そうな先輩と、切羽詰まった真砂子を交互に見て、麻衣は険悪な雰囲気になるのではとおろおろした。
瑞希先輩は、友達である真砂子と後輩の麻衣には甘くて、ナルに対する冷たい態度は取らない。知ってるけど、意見が割れて、二人の関係にヒビが入るかもしれないと不安になる。
先輩が何と言葉をかけるのか、麻衣はごくりと唾を飲んだ。
『ど、どうだったかな…一瞬しか見えなかったから……霊だと、…断言できない…かも』
瑞希が真砂子の様子に心苦しくなって、『ね?リンさん!』と勢いよく振れば、リンさんは珍しく狼狽えてみせた。
「瑞希もこう言ってるし、見えないってことは、新怪談のほうでしょ。なんか特殊な霊なのよ」
「……そんなこと……」
綾子さんが言う新怪談とは、怪奇現象が起こり始めた同時期から、学校内で都市伝説のような噂が流れ始めた――従来の怪談話とは全く違う新しい怪談なのだそうな。詳しい話は割愛する。
怪談は所詮、面白おかしく人が作ったもので、霊はいないと断言できる。
ああでも、人から人へ語り継がれる中で、人の思いから生まれる妖怪もいる。本物の怪談だとしたら、いるのは霊ではなく妖怪だ。
「とにかく、相手の得体が知れないんだからさ、夜は学校にいないほうがいいと思う。真砂子、帰ろう」
「松崎さんの言う通りだ。今日はこれまでにしたほうがいい」
綾子のフォローにそっと小さく息を吐き出した瑞希を一瞥して、ナルは帰宅を促した。
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