7.吐いた酸素は十二色


手を掴まれたまま真っ直ぐに見つめられて、私は硬直していた。けれどもどこかに期待を持っていることを分かっているということは、一応物を考える余裕くらいはあるのだと思う。

彼が、『御幸』君。クリス君が怪我で逃した正捕手の座に居る人だ。そしてクリス君がおかしくなった原因と噂をされている人。

眼鏡の奥から覗く瞳が真っ直ぐに私を捕らえて離さなかった。私も私で御幸君から目が離せず、暫く見つめ合いとも睨み合いとも取れる不安定なかたちで私たちは視線を合わせていた。
話があると言うのだから御幸君から話を切り出すのかと思ったが口を開く気配はない。私も何をどう切り出したら良いのか定まらずに、ただ御幸君が話を始めるのを待つしかなかった。

待てども彼は口を開こうとせず。何か言い出しにくい理由でもあるのだろうかと思えば、ちらりと一瞬、御幸君の視線が泳いで落ちたと思えば、丹波君の足元へ向かって、また戻った。もしかして、丹波君がいると話しづらいことでもあるのだとうか。


「ごめん、丹波君。呼び出しといて悪いんだけど、御幸君と二人で話がしたい」
「でもお前」
「丹波君。お願」


美術準備室に、妙な空気が流れる。
しんと静に、そして重く。

呼び出したのは私の方なのに急に席を外せだなんて丹波君には悪いけれども、ここは我が儘を通したかった。それが通じたのだろうか、丹波君は諦めたように苦笑すると『困ったら呼べよ』と言って出て行った。有難う丹波君。今度ジュース奢るよ。

そうして、その背中を視線で追ってドアが閉まるのと、御幸君はまるでこれから海にでも潜って行くかのように深く息を吸って、貴重な酸素を吐き出すように、ゆっくりと話し始めた。


「いつから、クリス先輩と友達なんですか」
「去年の冬くらいかな」
「なんでクリス先輩と仲良くなったんですか」
「そうだなぁ、私の帰るバスとクリス君がリハビリに行くバスが一緒だったのが、きっかけかも」
「先輩はクリス先の彼女さんですか」
「違う違う。友達」
「クリス先輩は、先輩と居る時は普通なんですか」
「わかんない。クリス君の普通というのがわかんないから、何とも言えない」
「先輩と居る時、クリス先輩は元気ですか」
「それも、わからないな」

光の入らないビー玉みたいな目をして、遠くを眺めている時もある。暗く淀んだ目で窓の向こうの曇り空を見つめる時もある。でも、宝箱の鍵穴から漏れる宝物の光や、朝焼けのように希望を覗かせた光を一瞬見せる時もある。何をどうおもっているかなんて私なんかには分からないけど、決して常に絶望を抱いているわけではないことだけは知っていた。

それを思うと切なくなる気持ちのなかで細い光の路を見つけた気がして、無意識にふっと笑みが零れた。それに気が付いた御幸君は眉根を寄せた。


「ごめんね。その、元気だと思うよ。リハビリして復帰するんだって言ってた」
「本当ですか?」
「うん。本人が言ってたから」

しかし御幸君はなんとも言えない表情をしたまま、私の顔を見てまた視線を足元に落とした。一体どうしたんだろうか。ぽつりぽつりと言葉を零していた彼は、海の底に辿り着いて貝にでもなってしまったように黙ってしまった。

それから数分、御幸君は口を開かず、このまま突っ立っていても埒が明かないと思い、私は御幸君を席に促した。それから準備室にひそかに常備されているお茶を出して、一息ついてから今度は私から切り出した。

「クリス君が復帰するって言っていたのを、君は信じられない?」
「俺が正捕手って、言われました。自分はもう駄目だって」
「……そうなんだ」

それはいつの話なのだろうか。あのバス亭で最初に出会った時の彼の様子を思い出せば、御幸君が嘘を言っているのではないとわかる。暗く深く淀んでいた目を忘れはしないのだから。
だからきっと御幸君が彼にそう言われたのは、その頃なのだと思う。

思うに、これだけ彼の事を気にして聞いてくという事は、御幸君にとっての彼は憧れていた先輩や目標としていた人なのかもしれない。そんな人にそう言われれば、きっと傷ついてしまうだろう。軽々しく御幸君にかける言葉が見当たらなくて、私は口を噤んでしまった。

と思えば、御幸君がぽつりと呟いた。


「正直、すげぇムカついた」
「え?」


意外な答えに思わず聞き返せば、御幸君ははっきりと頷いた。

「悲しかったとかじゃなくて?」
「腹立たしかったんですよ」

湯呑を抱えるように持つ両手に力が入るのがわかった。

「勝手に背負い込んで、怪我して、諦めて」
「そうなんだ」
「あ、いや、すみません」
「いいよ。御幸君の話を聞かせて」
「……その、正捕手争いもできないままで。俺はもう無理だからお前が正捕手だよ、だなんて言われて」
「そっか」
「クリス先輩がすげぇ努力してんのも知ってたけど、けど、だから尚更ムカついて。誰のせいだよって話にもなったんです」
「誰のせいとかじゃないでしょ。それは君だってわかってるんでしょ」
「当たり前ですよ。俺のせいじゃない。他の誰かのせいとかでもない」
「うん」
「じゃあクリス先輩の運が悪かったって思うのもすげぇ腹立って気持ち悪いです」

ほろほろと零れるのは彼の本音なんだろう。彼はムカつくだなんて言ってるけど、きっとそれだけじゃなくて、悔しい気持ちとか悲しい気持ちとかも溢れているのだと思う。じゃなきゃこんな辛そうな表情しないだろう。
溢れる感情を溜め込んで涙を零さない代わりに言葉を零しながら、今初めて丁寧に気持ちを整理しているのかもしれない。微かに震えた指先が、酷く印象的だった。

パレットに絵具をのせる。考えるのではなくて、自分の気持ちを色で表現するために色を探ってのせていく。今の御幸君の言葉は、全部パレット上の絵具だと思った。沢山出してみた色は結局収拾がつかなくて、決まりが悪くて恥ずかしかったり情けなかったりしてしまう。恐らく御幸君もそんな感じなんだろう。

「そう、思ったんです…なんか。くそ、ごちゃごちゃしてわかんねぇ…」

がしがし頭を掻いて視線を逸らす姿に、思わず、くすっと笑ってしまった。それから、彼の事をこんなに考えてくれている人が居るんだと知れたことが嬉しかった。


「ねぇ、御幸君。待っててあげようよ。きっと彼はグラウンドに戻ってくるから」
「はい」


私の言葉に頷く御幸君、その口元には微かな優しい笑みが見えた気がした。

だから、早く戻ってきてよ。クリス君。



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