「みょうじ」
「!こんにちは…先輩」
お弁当を家に忘れてきてしまって購買へ行き、この人だかりで果たして昼ご飯を買えるのかと悩んでいると師匠に声を掛けられた。
どうやらあの後に名前と顔を覚えられてしまったらしく、今みたいに校内で声を掛けられることが最近増えた。で、「さっき師匠に会ったよ」なんて沢村君に報告するとすごい羨ましがられる今日この頃。
でも私は、正直困っている。
別に先輩が嫌いなわけじゃない。嫌いじゃないけど、顔を合わせると何だか緊張してしまって名前を呼ぶことさえできなくなってしまう。
それを沢村君に話してみたら「師匠は凄いお人だから、圧倒されてんじゃないか」という答えが返ってきた。なるほど、そうかもしれない。
一番良い呼び方は『師匠』なのかもしれないが、どうにもその呼び名は本人はあまり好きではないらしいので、一先ず『師匠』とは呼ばずに『先輩』とだけ呼んでみるようにしてみた。そうするとすんなり呼べるので少し気が楽になり、以降私は師匠を『先輩』と呼ぶようになった。
何となく沢村君を通して知り合って、度々校内で顔を合わせては軽く挨拶をする。それだけの事なのに何処かむずがゆくて調子が狂ってしまうのは、やっぱり先輩がいると緊張してしまうからなのだと思う。
「師匠!」
「…沢村、その呼び方はよせと何度言ったらわかるんだ」
「師匠は師匠ッスから!」
「こんにちは、先輩。今日は宜しくお願いします」
教室には私と沢村君、そして先輩。なんでこの面子になったのかというと、まぁ私と沢村君が英語の中テストでクラス最低点を取ってしまったからで、土曜日の午前中から補修を受けた後にさらに先輩に教えてもらう事になったからだ。私は補修だけでお腹いっぱいだったのだけど、沢村君が先輩の英語の講習は凄く解りやすいから是非!と言うので、半ば強引に一緒に教えて貰う事になった。
そうして並んだ私と沢村君の前に足を組んで座る先輩。うわぁ、先輩足長いなぁ、なんて眺めていると、丸められた教科書が軽く頭を叩いた。
「ほら、みょうじ。教科書を開く」
「…すみません」
どうして高校に入れたのかという程、私と沢村君の英語力はどん底で、教科書を最初から復習しつつ問題集も解いて、また解いてを繰り返しの勉強をすることになった。
案の定、私と沢村君の出来は悲惨で、先輩は『バカもの』とか『そんなこともわからないのか』と呆れながら言いつつも、沢村君にもわかりやすいように教えている。さすが、先輩はやさしいなぁ。
私もそれに混じりながら勉強を進めていると、ふいに入口から沢村君を呼ぶ声が聞こえた。
「栄純君」
「お、はるっち」
「小湊君、どうしたの?」
立っていたのは小湊君で、少し肩で息をしながら教室に入ってきて先輩に軽く挨拶をすると駆け寄ってきて沢村君の腕を掴んで言った。
「監督が栄純君を呼んでるので、ちょっと借りて行っても良いですか?」
「げ」
「あぁ。行ってこい、沢村」
「そんなぁ、師匠〜」
そんなに嫌がるという事は、呼び出しの要件に何か心当たりでもあるんだろうか。そしてそれを見ても動じていない先輩は、その心当たりを知っているんだろうか。
兎も角、項垂れる沢村君を引きずって小湊君は教室を出て行ってしまった。
ちょっと待って。という事は、沢村君が帰ってくるまで私は先輩と二人きりじゃないか。どうしよう、すごく緊張する。
何となく先輩の顔を見る事が出来ず、私は問題集に視線を落とした。そのまま特に会話をすることもなく、黙々と問題を解いたり教科書を見たりしていた。
「みょうじ」
「!は、はい」
しばらくしてから名前を呼ばれて、驚いて顔を上げると先輩は問題集に視線を落としたまま言った。
「ここ、間違ってるぞ。もう少しよく考えてみろ」
「え?あ、はい」
トントン、と間違っているらしい箇所を人差し指で叩かれる。先輩の指はごつごつしているけど、長くて意外に色白な指だった。
指摘された箇所は単純な読解ミスで、案外早くに正解に辿り着いた。それを見計らってか、私の手が止まった頃にまた、先輩が私の名前を読んだ。
「みょうじは、他の野球部員の名前を知っているのか?」
「え?あー、はい。もっち先輩やますこ先輩。それから、みゆきかずや先輩なら知ってます」
もっち先輩やますこ先輩は沢村君の同室の先輩方で、よくゲームをしたりプロレス技をかけたりして遊んでいると聞いて名前はよく知っていた。みゆきかずや先輩は、少し意地悪な人らしく愚痴を聞いているので覚えてしまっている。あ、あと眼鏡。
それにしても、なんで急にそんな話をするんだろう。疑問に思ってちらりと先輩の顔を見ようと視線を上げれば、先輩は何かを考えているような顔をしたまま、やはり視線は私の手元に落ちていた。
「そうか。では、俺の名前は?」
「え?」
ふいに言われて一瞬戸惑ってしまった。
「俺も、名前は名乗ったはずなんだが」
苦笑しながら視線を上げた先輩と、目が合う。どきり、と心臓が鳴った。どうしよう、緊張する。先輩の名前を呼ぼうとすると、緊張してしまう。どうしよう。
「た、滝川先輩」
「ちょっと予想外の答えだな」
「あはは…」
震える唇から出た呼び名に、先輩はまた苦笑した。私も笑っていいのか、どうすれば良いのかわからなくて、掠れた笑い声が漏れただけになってしまった。
それからまたしばらく、無言のまま勉強を続けた。たまに私が間違ったりしている時は、先輩が一言声を掛けてくれるくらいで、あとはさっきと同じ通りに問題集をひたすらやっていた。
そうしてどれくらい経った頃だろうか。いくら考えても分からないところがあった。こんな難しいの私にわかるわけない。緊張してしまうけど、ここは先輩に聞いてみよう。
「あの、先輩」
声をかけるが、返事が無い。
どうしたんだろうと思い頬杖を突いた横から顔をのぞくと、先輩は目を瞑って小さな寝息を立てていた。どうやら寝てしまったらしい。先輩だって三年生だし、部活に勉強もあって、きっとすごく忙しいんだろう。
別に今すぐ聞かなきゃならないことではないし、後でゆっくり聞いてみよう。
そこまで考えて、ふと一つの考えが頭に浮かんだ。
先輩は今寝ている。もしかして、これなら緊張せずに名前を呼べるんじゃないだろうか。
すーすー聞こえる寝息。寝ていることをもう一度確認してから、いざ、先輩の名前を呼んでみた。
「…クリス先輩」
ぽつり、と、名前を呼ぶ声が教室に消えていった。
案外緊張せずに、すんなりと呼べた。なんだ、やればできるじゃないか、私。
何だか嬉しくなってしまったせいか、そこで普段なら思いもしない考えが頭を過ってしまった。
先輩の苗字は<滝川>だけど、下の名前ってどっちだろう。沢村君も他の人たちも、先輩の事は<クリス>って呼んでるから、<クリス>と言うのが下の名前だろうか。でも外人にはミドルネームがあるから、<クリス>はミドルネームで、じゃあ本当の名前は……。
思い出すのは、沢村君に教科書を届けに行った夜。優しい声で紡がれた、先輩の名前。
「ゆ、優先輩」
静かな教室。
カチ、コチと時計の秒針の音。
それから吹奏楽部の練習の音が、やけに大きく聞こえた。
一瞬何も考えられなくなってから、その後すぐに恥ずかしさが込み上げてきた。熱が顔に集中して、くらくらする。今更無意味な事だとは分かっていたけど、思わず両手で口を塞いでしまった。
何を言ってるんだろう、私は。
聞こえていないだろうか。聞こえてないよね。先輩、寝てるよね。
ちらりと顔を覗き込めば、もとのまま小さな寝息を立てて目を瞑っている。
大丈夫、大丈夫。今のは聞こえてない。
と、その時。
「ただいま戻りやした!」
「うわぁああああ!?」
急に入口から大声が聞こえて、私も思わず大声をあげてしまった。
びっくりしすぎて心臓飛び出るかと思ったわ。沢村君のバカ!
「ど、どうしたんだよ」
「なな、何でもないの!びっくりしただけ。」
どくどくと高鳴る心臓。変な汗まで出てきちゃったじゃないか。
不思議がる沢村君を他所に、私は平常心を取り戻そうと深呼吸をした。そうして段々と落ち着く心。
「あ、師匠。起こしてしまって、すいやせん」
「いや、寝てはいなかったから大丈夫だ」
「え?」
せっかく落ち着かせた心臓が、どきり、と鳴った。
今、先輩はなんて?
起きていた?
「先輩、寝てました…よね?」
「いや、起きていた」
「でも先輩、目を瞑って…」
悪戯っぽく上がる口角。
落ち着け、落ち着け私。
「#みょうじ#がなかなか名前で呼んでくれないから、少し意地悪をしてしまったんだ」
ということは、やっぱり。全部聞かれていたということ?いやいや、でも先輩は目を瞑って、寝息が聞こえていて…。
嘘でしょと思い先輩に視線を向ければ、ふっと柔らかい微笑みが返ってきた。
一拍遅れて全部理解した。先輩はずっと起きていて、寝ていたと思ったのは、寝たフリで、私が先輩の名前を呼んだのも知っているんだ。
集中する熱。高鳴る心音。
「やっと名前で呼んでくれたか。まぁその呼び方も、想定外だったが」
頬杖をついたまま、悪戯っ子みたいに笑う先輩。
訳もわからずキョロキョロする沢村君。
恥ずかしさと、よくわからない気持ちが交互に込み上げてきて、気づけば私は教室を飛び出していた。
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お詫び
以前、掲載していた『続・名前で呼んで』ですが、手違いで本文8割ほど削除してしまいました。
覚えている範囲内で書き直したのですが、話が変わってしまっているところもあるかと思います。大変すみません。
以後、気を付けます。
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