2024/5/11
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カナフ


 翼を失った天使が空から落ちてきた──そう錯覚してしまうほど、彼との出会いは突然だった。

 家に帰ろうと夜道を歩く私の前に突如現れた彼は、多少の混乱を隠しきれない表情のまま自らの身分を明かしてくれた。龍炎寺タスク。見せてくれた警察手帳のようなものに記されたそれが、彼の名だった。

「つまり君は、30年後からタイムスリップしてきたということ?」

「ええ、そういうことです。といっても、僕自身もまだよく分かっていないんですけどね……」

 外で立ち話をするのも何だと招き入れた自室にて、私が出したお茶を両手で抱えながら困った顔で話す彼はやけに達観した様子だった。
 もしかして30年後の日本ではタイムスリップは夢物語などではなく当たり前のものとなっているのかもしれない、なんて馬鹿なことを考えながら、彼の話をただ聞いていた。

「戻る手立てはあるの?」

「それがまったく。どうして飛ばされたのかは何となく分かるんですけど、ほとんど事故のようなものだったので僕もあまり理解していないんです」

「なるほど……?」

「ああ、でもさすがにあちらも僕がいなくなって焦っているとは思いますし、そう遠くないうちに帰れるとは思いますよ。ただ、それがいつになるかがはっきりと分からないだけで」

「何とも可哀想な話だね。……っていうか、いつ戻れるか分からないって言ってたけど、それまで行くあてとかあるの?」

「……いいえ。それであんな所にいたんです」

「そっか……」

「図々しいことだと承知の上でお願いします、僕をしばらくの間ここに置いてもらえませんか。もちろんあなたの迷惑にならないようにします。いえ、家事なら一通り出来ますからお手伝いもできます」

 必死で頼み込む彼の願いを聞き入れないほど私も鬼ではなくて。
 むしろ、たった一人こんなところに飛ばされてきて、不安に感じていないはずがない。それに、こんなに幼い男の子を夜道にまた放り投げられるだけの度胸も私にはなかった。

 捨てられていた猫を拾ったようなものだ。可哀想と思って一度拾ってしまえば、たとえ飼えない事情があれどもなかなか再び外に追いやることなんてできない。

 こうして、この奇妙な二人暮しは始まったのだった。


「おかえりなさい。ご飯、できてますよ」

「ただいま。ありがと、晩御飯にしようか」

 出来立てのごはんのいい匂いが鼻をくすぐる。食べ物の匂いで身体が空腹を思い出したのか、お腹が動く気配を感じた。

 最初は家に私以外の誰かがいることにさえ慣れず、仕事から帰ってきたら部屋の電気がついていることに少し驚いたりもしたけれども、彼との同居生活は取り立て問題なく進んでいった。

 共に時空を飛んだらしい近未来的な道具で何やら調べ物をすること以外に特に何もやるべきことがない彼は、ほとんど私の部屋でのみ一日を過ごしている。
 室内に籠り続けるのはあまり健康に良くないよ、と諭したこともあるけれども、彼にも考えがあるそうでそれは頑なに受け入れてはくれなかった。

 代わりにいつしか料理や掃除を初めとした家事にやたらと凝るようになったそうで、帰ってきて部屋が見たこともないくらいに恐ろしく綺麗になっていた日なんかは色々な意味で悲鳴を上げそうになった。

「タスクくん、また腕を上げたね」

「そんな、まだまだですよ」

 毎日和洋に関わらず様々な料理を作っては私にご馳走してくれる彼の顔はどこか誇らしげであり、そんなところから年相応の部分を感じ取る。
 一人暮らしを始めてからこんなにきちんとしたご飯を食べたことがなかったからこそ、彼の作る料理が身と心に沁みた。
 そしていつしか、彼は私にとって欠かせない存在になりつつあった。

 真っ白な紙に垂らしてしまったインクのようにその感情はとめどなく、そして消しようのないほどはっきりと広がる。
 彼には戻らなければいけない、戻るべき場所があるのに。ここに留まり続けることは、未来という生きる場所のある彼にとっても本望では無いはずだ。

 最近、ふと彼を見るとその身体が透けているように見えることがある。一度だけならまだしも、何度もその光景を目にすればそれが気のせいやまやかしだとは思えないだろう。

 多分もう、元の時代に帰るそのときまであまり時間が無いのだろう。あの出会った日からかなりの時間が経っている。タイムスリップを成し遂げるくらいに未来の技術が進んでいることを鑑みたら、彼を元の時代に戻すことくらいそう何年もの時間を要するものでもないはずだ。

 すっかり胃袋も心も掴まれてしまった私とは対照的に、他人とどこか一線を引いていて決して自らの内側を見せようとはしない彼。
 それは、いつか離れる日が来ることを踏まえてなのかもしれない。

 いっそこの世のすべての出来事を白紙に戻して、もう一度あなたと巡り逢いたい。そう願ってしまうのは、果たして罪なのだろうか。

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