珪
石
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2024/5/11
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もう一度、あの夏で
海へ行こう。
そう言って突発的に海岸方面の電車に乗ったのは、今からちょうど2年前、8月はじめのことだった。どうして一人で海へ行こうとしたのか、そもそもなぜ一人だったのかさえも思い出せないけれども、あの少し混ざり気のある水色は、はっきりと覚えている。
波打ち際に座りぼうっとしながら聞いた波の音も、あと少ししたら海の向こうへと消えてしまいそうな橙色の態様も、少し遠くの海水浴場から聞こえる人々の騒ぎ声も、何もかもがひとつの芸術作品のように幻想的に思えた。
夕暮れ時、少し肌寒くてふと顔を上げると、ちょうど私の視線の先に誰か人がいるのが見えた。よく見ると少年、だろうか。大人と比べれば随分と小柄だけれども、少女にしては体つきががっちりしている。夕日のせいでシルエットしか見えなかったからこそ、そう感じた。
綺麗だなあ、そう暢気に思いながらそのまま空を眺めていると、視界の端にいたその少年の姿が突然消えた。驚いてそのまま目線を下に下げれば、どうやら下に降りたらしい。そのまま言ったら波しぶきで濡れちゃうのにな、なんて考えていたけれども、少年は足を止めない。そこで少し、ぞくっとした。
ここは海水浴場ではない。だから、ライフセーバーはおろか、人影もあまり……いや、私の他にはほとんどいないと言ってもいい。実際は私のようなもの好きも訪れているわけだが、さっきからほぼ微動だにもせず一言も発してさえもいなかったので、彼は気づいていないのかもしれない。
そこまで考えて、やはり嫌な予感がまた頭をよぎった。その間にも、少年は下のほうへ行ってしまう。その背中に死のにおいを感じて、慌てて追いかけた。昔から、水と死はつながりが深いのだ。少年が波に攫われて亡くなった、なんて話は、現代でもよく聞く。
「待って!」
反射的につい、手首を掴んでしまう。びくり、少年の肩が大きく跳ねた。思っていたよりずっと細い腕に多少たじろぐ。振り向きざまに見えた顔は、少女のようでもあった。だけど、その雰囲気はどこか勇ましげで。大人になろうと背伸びをしていた頃の自分を彷彿とさせる、そんな子どもだった。
「僕に何か?」
男の子にしては少し、高い声。赤みの入った、白い肌。だけど『僕』という言葉とその雰囲気からして、少年で間違いなさそうだった。薄幸の美少年、そんな言葉が似合いそうだと感じた。しっかりとしているように見えて、どこか不安げで、今にも消えてしまいそうな。不謹慎だけど、誰もいない夏の海が似合う少年だと思った。
「あ……えっと、そこ危ないよ。段になってるから分かりにくいんだけど、海に入ると深いかもしれないし……それに、泳ぐならあっちの海水浴場のほうが」
「ああ、本当ですね。ありがとうございます。」
にっこりと笑って見せたその顔はまさしく好青年。実際は、青年というには幼すぎると思うのだけれども。
だけど彼は私に一礼した後そのまままた先へ進んでしまった。ああ見えて頑固なのか、それともさっきから考えている”嫌な予感”そのものなのか。後者だったら本当に勘弁してほしい。目の前で人が死に向かうところなんて、誰だって見たくないのだ。
そう思いながら最悪の事態を想定し動けるように見守っていたら、ついに砂浜のところまで降り終えた少年の姿が一瞬、波に消えた。反射的に目を閉じてしまったけれども、まさかね、と思いながらゆっくりと開くと、彼はちゃんとそこにいた。
再び観察してみたところ、どうやら波に打たれて遊んでもいるようだった。服どころでは済まず、全身びしょ濡れ状態だというのに、彼は微笑んでいた。
どこか異様なその姿がとても美しく思えて、そのまま見入ってしまう。どんな風景画にも勝るとも劣らない、そんな光景。それを汚してしまうのは少し恐れ多かったけれど、自分の中のお節介が発動したのか、気づかぬ間に鞄の中からタオルを一本取り出し再び少年のもとへと向かっていた。
「風邪、引いちゃうよ。」
はい、これ使って。そう言いながら、さっき鞄から出したタオルをひとつ、少年へと差し出す。とはいえ、身体じゅうすべてがずぶ濡れの状態の彼にこれひとつで足りるのかは疑わしい。
「大丈夫です。」
「私が気になるの。ねえ、さっきから何をしてるの?」
率直にそう聞くと、彼は海の奥のほう、水平線を見つめるかのように視線を移動させた。それにつられて、つい私もそっちを見てしまう。あの向こうに何があるのか気になって、泳いでいこうとしたのは幼い頃の話だ。
「……波に、当たりたくて。」
遠い目をする少年だ。そう、思った。大人びたその表情にいったい何が込められているのか、探ってはいけない何かを感じる。この子は、私が想像している以上に何か年にそぐわない経験をしてきているのかもしれない。そんなことを感じせる雰囲気だった。
「それは見てて分かるけど。危ないし、下手すると自殺志願者か何かと見間違えられるよ、ここ。場所が場所だし、ね。」
「そう……ですね。すみません。」
伏し目がちになった瞬間、彼の髪がちょうど目についた。夕焼けに照らし出されたそれは、後ろに見える海よりもずっと綺麗で、この世のものとは思えないもののようにも見えた。すごく美しい海の写真にも引けを取らない、透き通った青色。それに差し掛かる、オレンジ色のやわらかな光。
あのこの世離れでもしたかのような光景は、2年が経った今でも、私の記憶から消えずに残り続けていた。あの後何度あの海岸へ行っても、再び彼に出会うことはできなかったけれど。
「どこから来たの?」
「超東驚です。」
「ああ、じゃあ私と同じだ。あっちにも海はあるけど、やっぱりここの海とは比べ物にならないよね。」
彼が私の質問に答えてくれたことに対して多少驚きつつ、それとなく会話を続ける。話している限りでは、ただの少し大人びた少年、それだけなのに。
「寒く、ない?」
「大丈夫です。」
「大丈夫、大丈夫って言うけど、本当なの?今日は暑いとはいえもう夕方だし、これから夜になると冷えるよ。着替えはある?」
「ないです、けど……」
そうだろうと思った。そもそも、彼は荷物を持っていないのだ。ポケットに必要なものだけ入れているといった様子で、本当に必要最低限のものしかないらしい。ここから超東驚まではそこそこの距離があるのに、どうしてそんなことをしたのか不思議で仕方がなかった。
「うーん……この辺りで、服が買えそうなところ……あ、あった。ほら、行くよ。」
「えっ?」
「せっかく海に来たのに、邪魔しちゃってごめんね。でも、お店が閉まっちゃう前に早いとこ着替え、手に入れておかなきゃ。昼間ならともかく、この先日が沈んだら乾きそうにないし。」
彼の細い手首を軽く掴み、立ち上がる。あまり強く握ればその白い肌に跡がついてしまいそうで、怖かったのだ。それほど、彼は触れたら壊れそうな雰囲気を醸し出すときがあるのだ。今も、そう。
スマホで調べたお店へと向かい、楽に着れそうな服を探して彼の好みを聞く。彼はそんなにお金を持ち合わせていないからと言ったけれど、私が払うから好きなのを選んで、と言えば、さらに遠慮した。
彼の正確な年齢は分からないけれどおそらく10歳以上離れているのだし、ありあわせで購入する服の代金ぐらいはゆうに持っているのだ。ほとんど押し切るようにして服を買い、その袋を彼に渡した。まだ、夕日は水平線の上に見えていた。
「これで大丈夫。今から海に行くのはあまり褒められた行為ではないけど、別に海に入るわけじゃないんだよね?」
念のため、確認しておく。時間も時間だし、これ以降はここにずっといられる保証がなかったから。それに、ここまでしておいて言うのもなんだけれど、これ以上付き合うのは迷惑なのではないか、そう感じたのだ。
彼は『波に当たりたかった』と言った。それに込められた感情は分からないが、なんとなく、ときどき無性に雨に打たれたくなるあの感覚と似ているのではないか、そう感じたのだ。
それは、自分の無力さに落ち込んだときや、すべてを投げ出したいときに感じるもの。だから、誰か人がいる場では意味がないのではないのか。そう、考えたのだった。
「……私はこれで帰るけど、本当に気を付けてね。」
「でも、まだ服のお金が」
「いいよ、気にしないで。その代わり、もしまた会うことができたら、その時は」
そこまで言って、言葉に詰まる。私は、彼と何をしたいのだろう。何を求めているのか、自分でも分からなくなってしまった。やっぱりなんでもない、と先ほどの自分の言葉をもみ消す。
「それじゃあ。」
そのまま、なんてことない道で彼と別れたきり、あの青い髪の少年には、再び出会うことはなかった。
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