珪
石
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2024/5/11
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ほんの半歩さきのこと
「子供がこんなところに来るなんて、感心しないなあ」
喫煙所代わりに使われている一角に佇む少年の背中に、そう話しかける。振り向いた笑顔の中に見える意志を持った瞳をじっと見て、茶化すように笑った。
「ほら、どいたどいた。煙かかるよ。」
「……女性が煙草なんて、身体によくないですよ。」
ほんの少しだけ、勝ち誇った顔をする。彼自身は気づいていないかもしれないけれど、こういうところがまだまだ子供なのだ。
「いいよ。体調気にかけてる余裕があったら、こんな仕事してないから。」
ライターに手をかけ、小さな炎を灯す。瞬間赤く光る煙草の先端を見届けてから、それを口にくわえた。
「それより、学校行かなくていいの?今は仕事休みにしてあるみたいだし、ここに来る意味もそうないと思うんだけど。」
「忘れてるんですか?今日は日曜で、学校は休みですよ。」
言われてようやく腕につけた端末を見た。最近は色々と立て込んでいたから、曜日感覚がおかしくなっていたらしい。元から土日祝日など関係のない仕事ではあるので、このくらいはよくあることだ。
「にしてもわざわざ来なくていいでしょ。それに煙草も吸わないのにこんなところまで出向いて。タスクくんって、本当に物好きだよね。」
「なまえさんだって人のこと言えませんよ。僕のこと、気づかないふりしてくれたっていいのに。それこそ、わざわざ話しかける必要、ないですよね。」
にこり、と好青年らしい微笑み。この笑顔に多くの女性が落とされるのだろうな、とか、冷静に考えた。
相変わらず、よく口の回る子だ。この間まで大人の中に放り込まれていたからこそ身についたスキルなのかもしれない。あるいは、生きる術。
煙をゆっくりと吐き尽くすと、彼の姿が柔らかくぼやけた。その中でもはっきりと存在を示す赤。曖昧な水色と対をなし主張する鮮やかな赤に目を取られているうちに、いつの間にか煙は薄れてしまっていた。
異物を押し出すような咳の音によって現実に戻される。わざとではないにせよ、未成年のタスクくんに煙をかけてしまったのだ。あまり気分のいいものではないし、さっき一応忠告したからと言って開き直るわけにもいかない。
「苦手だったらなおさらこんなところ来なきゃいいのに。」
「……実は、あまりよく分からなくて。周りには煙草を吸う人もいませんでしたし。」
でもやっぱり駄目みたいですね、と困ったように笑う。確かに彼の直属の上司や同僚に喫煙者はそういなかったはずだ。強いていうなら私くらいだが、それでもこんな近くで吸ったことはない。そんなことをしたら、周りの他の同僚たちに怒られるのは目に見えている。
思えば私も、子供のころはこの煙が苦手だったっけ。あれだけ遠ざけていたのに、気づいたら今は自分が吐き出す側になっている。その理由は何か、なんてすぐにわかった。
頼りになる背中。自信に満ち溢れた表情。人を救うためにあるかのような、ごつごつと骨ばった、でも優しい手。あの人が辞めると聞いたとき、引き止めるために来たこの場所で、煙草の味を知った。結局彼はそのまま退職してしまい、半ば強引に連絡手段も絶たれた。
まだスマホの中に登録されたまま消していないあの番号は、単なる音声案内メッセージを流すだけのものとなっている。
そうだ、タスクくんは、あの人に似ている。自分の身の危険も顧みない、純粋さ。だからこそ脆くて、危なっかしい。そんなところに、私は惹かれたのだ。怖いものを隠すように何重にも封をされ隠してあった思い出が、たちまち蘇ってくる。
それを振り切るように、慌てて煙を口に含んだ。急いだせいか、呼吸器に直接煙が突き刺さる感覚がした。煙と同時に、咳が出る。遠い昔に思えたあの日の記憶が、鮮明に頭に蘇る。ニコチンでやられた頭がクラクラしてるせいもあるかもしれない。
「なまえさん?!」
「あー、やらかした。やっぱり余計なこと考えながら吸うもんじゃないね。」
誰が置いて言ったのか知らない、少し黒ずんだ銀色をした灰皿に煙草の灰を落とす。1センチほどの灰の塊が、ぽろりと零れ落ちた。
「体調悪いんだったら、なおさらやめておいたほうがいいですよ。」
「いや、違うけど。でもまあ、ありがと。」
ポケットの中を探り、飴の小袋を取り出す。分かってはいたが、全部コーヒー味。仕事中、どうしても眠気が取れない時に食べるものだったからだ。
「はい。あげる。退屈でしょ」
出てきた2、3個の飴を全て、タスクくんの手のひらの上へと流し込む。彼は、ありがとうございます、と小さく言い、端から封を開けて中の飴を口へと入れた。一瞬置いて、ほんのわずかではあるけれど、彼の顔の目元あたりが引き攣った。
多少は糖分を含むといえブラックコーヒー味、さすがに彼にはまだ早すぎたのだろう。
とはいえ、彼は時々大人に混じってコーヒーを飲んでいた気がする。もしかしたらあの時は、何かを入れて甘くしていたのかもしれない。
「コーヒー、飲めなかったっけ」
「ここまで苦いのは飲んだことがないんです。いつもは砂糖を入れてたので」
苦笑いを浮かべながら、そんなことを言う。ああ、やっぱり彼はまだ子供なのだ、そう思い知らされた。どれだけ大人ぶった言動をしていても、まだまだちっぽけな少年でしかないのだと。こんなこと、彼に言ったら怒るだろうけれど。
「そっか。ごめんごめん、配慮が足りなかったね。まあこの時間なら夜寝れなくなるなんてこともないでしょ。」
「だと、いいんですけどね。」
「お詫びに飲み物でも奢ってあげる。まあ、そこの自販機限定で、だけどね」
「いいですよ、そんな」
「子供が遠慮しないの。ほら、何がいい。」
子供、と私がそう言った瞬間、彼の顔がほんの少しだけ歪んだ。それに気付かないふりをして、灰皿の底にまだ赤く光る煙草の先を押し付け、彼の腕を引いた。
結局、タスクくんが望んだのはホットのココアだった。私もついでに飲み物を買って、さっきの場所へと戻る。相変わらず、誰もいない。
冷え切った手の感触を取り戻すためか両手でまだ熱い缶を抱え込むようにして持つ彼を見て、少し申し訳なく思った。
「タスクくんは、さ」
「はい」
「……怖くない?この仕事」
こんなこと、聞いてもいいことなのか分からない。だけど、ずっと気になっていた。彼はきっと、この仕事に誇りを持っているし、それは同僚たちの誰よりも強いものだと感じていた。
だからこそ、押し潰されてしまわないか、不安になった。その責務の重さにやられて、この場所を去っていく人はそう少なくない。私や他の仲間たちと比べてまだずっと未来の開けているはずの年齢である彼に、そんな形で挫折してほしくなかったのかもしれない。
それか、罪滅ぼし。どちらにせよ、タスクくんにとってはいい迷惑だ。
「……正直に言うと、怖いと思う時もあります。名誉ある仕事だということは分かっていても、かえってそれが重荷になって。
仰々しく言われていても、結局何もかもできる訳じゃないんだと思うと、虚しくなるんです。」
でも今はそんなことないですよ、と笑う彼を見て、年相応の子どもらしさを感じる。そこにいたのは、無理に背伸びまでして大人になろうとなんてしていない、等身大の男の子だった。
それを見て、少し、本当にほんの少しだけ安心する。やっぱり彼は、こちら側に来るべき人間ではないのだ。
「そっか。それが聞けて、安心した。ありがとね。変な質問してごめん」
「構いませんよ。僕も、こんなこと人には、ましてや同じ職場で働く人には言えないと思ってましたから。」
また、大人ぶった返事をする。それはきっと、もはや癖になっているのだろう。タスクくんの事情はここで働く者ならば大抵の人が知っている。多少はその影響もあるのかもしれないけれど、今の私には、周りの彼への態度が彼を大人のように振る舞わせてしまうのかもしれないと、そう思えた。
「……こっちに、来ちゃダメだよ」
聞こえるか聞こえないかくらいの、本音が漏れた。
「え?何か言いましたか?」
「何でも。じゃ、そろそろ仕事に戻ろうかな。タスクくんも、体調とか崩さないようにさっさと帰りなよ。」
手に握ったままだった煙草の箱を潰れてしまうくらい強く握りしめ、建物の入口へと足を進める。自動ドアの前でさっきまでいた場所を横目に見ると、彼はいつの間にかいなくなっていた。
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