2024/5/11
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雨の檻から逃げだして


竹刀が体にぶつかる音だけが、やたらと頭に響く。
悲鳴をあげればもっと強く打ち付けられ、肌を赤黒く染めるだけだった。もう、抵抗もしない。ただ歯を食いしばって痛みに耐えながら睨みつけることしかできない。誰をだ。誰でもない、何もない宙に向かって。

修行と称され行われてきたこの行為は一族の子供なら誰でも通る道で、これを避ける方法はふたつ、この村から抜け出すか耐えられずして死ぬか。容赦のない修行を乗り越えなければ、安定した生活を送ることはできない。
村から抜け出したもののすぐに見つかり、贄として無残に殺されるのが常だ。

性別も、年齢も関係ない。年を重ねるにつれて同じ年齢の者は減り、あとに待ち構えているのは一族の滅亡、それだけだ。

こんなところで無様に死ぬのだけはごめんだ、こいつらを先に殺す。いつしか、そんな気持ちで日々の意味もない痛みを我慢するようになっていた。


ちょうど、その頃だった。なまえという女のことを認識したのは。

俺と年はそう変わらないくらいで、肌は周りのやつとは比べ物にならないほど変色している。おそらく女という性別のせいで、同年代の男よりも理不尽で厳しい修行をさせられているのだろう。手入れもすることのできない長い髪は、何かで結う事もなく下ろされていた。

10代前半まで生き抜く女は少なく、俺の知っている限りではなまえくらいしかいなかった。それもあって、俺はあいつに興味を持ち始めていた。

とはいっても、話しかける事はおろか近づく事さえままならない状況で、かろうじて知る事ができたのは名前だけ。どんな声で話すのかも、知る事ができなかった。

そんななか、修行を終えて休む俺の耳にひとつの知らせが届いた。

生贄。村の子供のひとりを神のもとへ差し出し、この先起こりえる不幸を避ける儀式のことだった。

格別珍しい話ではない。死んでから行くか生きながら行くかの違いだけだ。そう、たかを括っていた。

しかし現実はそうではなかった。いや、確かにその通りだったが、ひとつだけ思いもよらないことが起こった。

今回の生贄は、10代前半の若々しい女子。村のほぼ全員が集められた中で一族の長が告げた言葉に、俺は硬直した。まるで、なまえそのものじゃないか。

そう思っている矢先、なまえの名前が呼ばれた。無言で長のもとへ向かうあいつの後ろ姿を、睨むように見つめた。長の横に立ったなまえが、こちらを見た気がした。

覚悟はできているな、嫌という程聞かされたその低くしわがれた声に今までにないほどの殺意を覚えた。どうして迷いもなく頷く。そこまで考えたところで、ようやく分かった。なまえは、これを覚悟していたということを。

小雨とはいえ雨が降る中、神に捧げられるなまえのことを見送る大人たちのせいであいつの姿を見ることはできない。白い着物を着させられたなまえなんて見たら、現実を受け入れられる気がしたというのに。

呪文のように唱えて、長が祠の扉に手をかけた。ゆっくりと閉じて行く祠。完全に閉じられてからしばらく経つと、鬱陶しいほど群がっていた奴らはどこかへ行ってしまった。所詮、そんなものだ。

木の陰に隠れ様子を伺っていた俺は、誰もいなくなったことを確認して祠のほうへ向かった。馬鹿なことに、そこには鍵なんてかけられていなかった。こんなことをする輩なんていないと思っていたのだろう。

ギィ、と鈍い音を立て、扉が再び開いた。差し込んできた光に照らされたなまえは、そこにふさわしくないほど綺麗だった。

「どうして」

掠れた声が聞こえた。俺は何も言わずなまえの手首を掴み、そこから出した。そのまま、重い腰のなまえを引っ張り逃げるように走った。

どれほど走ったのか。気づけば見覚えのない景色が広がっていた。一応今通って来た道はわかるが、ここで引き返せば意味がない。いつ一族の奴らに見つかるか、時間の問題だった。

「大丈夫か」
「やだ、離して……!」

立ち止まりなまえのほうを振り向きながら話しかけると、返ってきたのは拒絶だった。暴れて抜け出そうとするも、男女の差かそれがかなうことはない。

「静かにしろ。あまり大きな声を出したら見つかるだろ」
「わたし、帰る」

もうこれ以上進む気はない、というように、なまえはその場に座り込んだ。力が抜けたように足がだらりと地面に投げられていた。

「あんな場所にいたって飢え死ぬだけだ」
「死なないよ、だってわたし、 神様のところにお嫁に行くんだもの」
「何言ってんだ」

うつろとした視線が宙をおよぐ。それは修行のときの俺と同じで、どうしても重ねてしまった。

「このまま行けば村の外には出られるはずだ。行くぞ」
「っやだ、」

ありえないほど強い力で、手首を持っていた手を振り払われた。嘘だろ、と唖然としている間になまえの背中は遠くなっていった。

こんな形で、初めて声を聞くことができるだなんて思ってもみなかった。

クソ、と独り言を言い、来た道を引き返す。むしゃくしゃしていたせいもあって、つい道を間違えてしまった。
惹かれるようにして垣根を突き破れば、見たことのない建物が立っている。祠によく似た小さなその中央には、札の貼られた巨大な石が置いてある。その石から、黒い何かが浮き上がるのが見えた。

興味と不安を半分ずつ抱きながら、強くなる雨に服を濡らすことも構わず恐る恐る近づいていく。気づけば手は札を剥がしていた。蛇に似たそれは石からさらに姿を出し、石は光を放ちはじめた。紫色の怪しい光が、目の前で照りつける。背中に取り付くそれを見て、もうどうにでもなれという気分だった。

気は進まないが、村に帰るしかない。あいつらを殺すまで、俺は逃げるわけにも死ぬわけにもいかなかった。そう言い聞かせて村に足を踏み込めば、やたらと静かで眉をひそめた。

何かがおかしい。

その正体は、石になった人間だった。はは、と空気の抜けた笑い声が知らぬ間に上がる。これで、俺の目的の一部は達成されたということか。顔を動かさず目だけで肩を見れば、例のそれが揺らめいていた。

あとは、なまえだけだ。誰にも邪魔されないなかで、あいつを連れ出すことは容易だ。さっきのように追手なんてものも考えなくていい。走って祠へ向かい扉を開ければ、物音ひとつしなかった。今日だけでこれで5回目だ、いい加減錆も剥がれたということか。

雨のせいで外も中も暗くよく見えない。目が慣れて見えてきたかと思えば、死装束のように真っ白の着物を着た何かが横たわっていた。

何も考えず、それに触れる。人ならざる冷たさだった。それもそうだ。もうこれは人ではない、ただの石だ。

「どうして」

同じ言葉を、少し前になまえの口から聞いた。俺のものとは思えないほどか細く、震えた声。これで、忌々しいあの一族も全て消し去って、何にも縛られず自由になれるというのに。

一緒に行くぞ、そう声をかけても返ってくることはない。硬くなったなまえの頭を撫で、そういえば髪に触ったことがなかったと思い出し、ひどく後悔した。

動くたびに揺れていた髪は、もうびくともすることはないだろう。髪だけでなく、身体すべてがそうだった。だが、仕方がない。そうしてしまったのは、他でもない俺なのだから。


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