珪
石
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2024/5/11
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恋しい指先
ぷつり、ぷつり。
1針1針、心を込めて。
そんなことを心がけながら慎重に指を動かしていると、どうしても動作はゆっくりになってしまって、自然と倍以上の時間がかかる。
でもこうするしかないのが現実であって。この遅さが身の丈に合う速度なのだ。
だって、これ以上速く手を動かしたら、どこかを刺すか縫い違えるか、糸が絡まるかのどれかだ。そこに成功という言葉はない。つまりは逆に時間がかかってしまう。
練習と称して自分に課した縫い物の完成サイズは直径10センチメートル。決して大きなものではないし、そんなに難しいものではない。
ただただきっちりと糸を引いて、布を織り込んで固定できるように気を遣いながら、まっすぐ縫っていくだけだ。しかし、私にはそれがとても難しいものだったのだ。
指に貼られた絆創膏は両手合わせて4つ、これ以上増やさないようにとこれまで以上に集中して取り組むけれど、なかなか上手くはいかなくて。
こんなんじゃ衣装なんて夢のまた夢だ、まだ長方形のままの布を見つめながらそう考える。
布はしの処理の作業は地道で、だけどほつれないようにするためには大切な過程であることは分かっているけれど、まったくうまく行かない。どれだけ気をつけて縫っても、ぐにゃりと歪んだ線になってしまうのだ。
はあ、とため息が出た。でもこれも特訓の一部、彼のようになるために乗り越えなくてはならない。そう自分に言い聞かせて、縫い物を続けた。
「やっとできた……!」
なんとか端の処理を終えたらもう、部活動が終わる時間だった。そんなにかかったなんて、と作業の遅さに驚くと同時に、それだけ長い間集中してできていたことに対して少し感動する。
勉強だってこんなに集中したことないのに。
あと少しで鬼龍先輩が部活を終えてやってくる。今日はプロデュースもなくて時間にも余裕があったから、一緒に帰ろうと約束していたのだ。
それなら、彼が来るまでここで縫い物の続きをしていよう。もう一度、視線を手元に移した。
「おい、そこで何をしている」
輪っかが少しだけ出来上がってきたところで、後ろから声がした。怒るようなトーンのその声の持ち主はよく知っている人物、生徒会副会長の蓮巳先輩だ。
もちろん本当に怒っている訳ではなくて、これが先輩の普通なのだそう。
「えっと、鬼龍先輩を待ってるんです。先輩は部活を終えられたんですか?」
教室の入口に立つ蓮巳先輩の着ている服は袴だ。今日は弓道部も部活があったらしい。
「ああ、そうだ。それよりなまえ、鬼龍ならまだ道場だぞ。後輩の指導に熱心に取り組んでいた。」
反射的に時計を見ると、部活終了時刻から30分ほど過ぎていた。まだかなと少し思っていたけれど、なるほどそういうわけかと納得する。
「教えてくださりありがとうございます。道場、行っても大丈夫ですかね?」
「知らん。」
「ですよね……」
「だが、なまえが来てくれるとなると奴も喜ぶだろう。珍しく長引きそうだったからな。」
「ありがとうございます!」
彼のよき理解者。そう言って正しいのかはよく分からなかったけれど、同じユニットで共に切磋琢磨し合う仲間だけあって2人なりの間合いを持っているのだろう。
「先輩は、どうしてここに?」
この階には3年生や生徒会、紅月に関係する教室はなかったはずだ。
「……戸締りだ。窓を開けたままにする輩がいるらしい。」
苦虫を噛み潰したような顔をしてそういう蓮巳先輩の影に会長、もとい天祥院先輩が見えた気がして、あははと苦笑いを返しておいた。鍵をかけ忘れている人物に心当たりがあるのを隠すためにも。
蓮巳先輩にもう一度お礼を言って、裁縫道具を鞄に突っ込んでから道場へと急いだ。
遠目に見ても道場の明かりはこうこうとついていて、だんだん暗くなってきた外とは対照的だ。
上靴がパタパタと音を立てるのも気に構わず、肩にかけたスクールバッグの紐を握り直して走るとすぐに道場の入口へとたどり着く。
廊下と畳との境界線の、ちょうど廊下側に上靴を揃えて置き、恐る恐る声をかける。返事が返ってきたのを確認してから、ゆっくりと扉を開けた。
「姉御?!どうしてこんな遅くに?!」
「どうした鉄、……ああ、なまえか。すまねえ、遅くなっちまったな。来てくれたのか。」
「いえ、むしろお邪魔してしまってすみません。練習、どんな感じですか?」
「ちょうど最後に1戦やろうかと思ってたところだ。悪いがあと少し待っててくれ。」
「分かりました。ここで、見ててもいいですか?先輩が空手するところ、見てみたくて。」
一瞬だけ、鬼龍先輩の眉間のシワが消えて目が大きく開かれた。驚いた顔、というわけだろう。
「構わねえよ。……余計に負けられねえな。」
「大将、お手柔らかにお願いしますッス……!」
文字通り一瞬で勝負はついて、終わりの挨拶をしてから先輩がこちらへと向かってくる。飛びかかるかのように抱きついて、その瞬間ふわりと汗の匂いがして。
不思議と嫌だとは思えないその香りは、彼が近くにいることを強く示してくれているようだった。
「俺は別にいいんだけどよ、鉄がいるってこと忘れてねえか。」
はっと我に返り、腕を解いてから鉄虎くんのほうを見ると、顔だけでなく耳まで真っ赤になっていた。
それもそうだ、こんな、バカップルみたいにいちゃつく(といっても私から一方的にだけど)姿を目の前で見せつけられるようにされて、気まずさを感じずにはいられないだろう。
悪いことしちゃったかな、とどうしようか探しあぐねていると、鬼龍先輩がかがんで私の耳元に口を寄せた。
「後で存分に甘えればいい。だから少し待っててくれるか?」
瞬間的に、私の顔も熱くなる。鉄虎くんのがうつったみたいなそれを、なんと隠そうと手で頬を覆ったけれど隠しきれていないのはなんとなく察した。
「いい子だ。」
そう低音で囁かれて、惚れずにはいられないと思うのです。
不躾にも、早く2人きりになりたいな、なんて考えてしまった。
今日起こったことを話して、ああでもあの特訓のことはちょっと内緒にしておきたいかな。突然裁縫が上手くなっていたら先輩は驚くだろうから。そんな日が来るのはずっと先かもしれないけれどと、今日の成果を思い出しながら考える。
恋人ですとアピールするかのように手を繋いだって、外が暗かったら分からないだろう。それなら、と少し大胆になる気持ちを落ち着かせて、ようやく頬から手を除ける。
あ、もしかしたら絆創膏で今日の特訓のこと、分かっちゃったりしないだろうか。先輩はその辺の察しがいいから、気づかれそうだな、なんて。
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