珪
石
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2024/5/11
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「夢見る少女」
※端折ってますが一応注意
裏通りの中の一角でさりげなく光るネオン。その前に立つと、しばらくして鍵が開く音がした。
立て付けの悪いドアは、私の全体重を使わないと開かない。まるでこれを容易に開けられるような客以外は歓迎されていないかのようだ。
「いらっしゃいませ、なまえさん。お一人ですか?」
「うん。パパ忙しいみたいで」
案内されるがままにカウンターへ座る。空の色がどうだとか、あまり中身のない話をしながら、ギィはカクテルを作り始めた。
シェイカーを振る動作と共に彼の銀糸のような髪が揺らぎ、奥のアクアリウムの光を反射している。いつもはふざけた言動が鼻につくから認めたくないものの、やっぱり悔しいけれど綺麗な顔立ちだ。
シェイカーからカクテルグラスへと、オレンジ色の液体が注がれる。すっと目の前に差し出されたショートカクテルからは嗅ぎ慣れた匂いがした。
「どうぞ。シンデレラです」
いつものシンデレラだ。オレンジジュースとパイナップルジュースにレモン、それで完成。つまりお酒なんて一滴も入っていない、ただの美味しいジュース。
初めて父と一緒にここへ来たときには、てっきりお酒だと思っていたからか何故か酔ってしまったのを覚えている。自分が悪いことをしているような気がして、ドキドキしながら飲んでいたっけ。
目の前で優しく、けれどどこか妖艶に微笑む初対面の青年──ギィに見守られながら、ちびちびと舐めるように飲んだシンデレラの味はまったく思い出せない。
流石に高校を卒業する頃にはこれの正体がお酒ではなくジュースだと気付いていたけれど、育ちの割に真面目だった私は20歳になるまで決してお酒を要求することはなかった。
パイナップルの香りのするそれをじっと眺めているうちに、ギィは再びシェイカーを振り始める。
「ご一緒しても?」
「どうぞ」
カクテルグラスを僅かに傾けて乾杯をする。薄いグラスだから当てるふりだけなのだと、いつの日かこの場所で教えてもらった。
グラスの中のドリンクを一口だけ飲み、カウンターに置く。やっぱり、アルコールの味なんて一切しない。
「……相変わらず、私のこと大人として認識してくれないんだ」
同じく一口だけ飲んではカウンターにグラスを置いたギィは、いつものやうな貼り付けた笑顔を浮かべてこちらの様子を伺っていた。
「大人? これは面白いジョークですね! 私、あなたが大人になっていただなんて初めて聞きました!」
そんなことをいつも通りのよく通る明るい声色で言いながら、ギィはカウンターの下に置かれているのであろうカクテルグラスを手に取った。拭く意味なんてないのではと思うほど透き通ったそれを、それはそれは丁寧に磨き上げていく。
「もうとっくに20歳も超えたんだけど。ていうか、パパが無理言ってここでケーキ食べたでしょ? ろうそくまで付けて」
「あのケーキはおいしかったですね!」
「はあ……とにかく、私はもう大人だから。お酒だって飲めるの」
「いえ、あなたはまだ子どもですよ。……身体がそう言っていますから」
グラスを吹き上げる手を一瞬だけ止めたかと思えば、彼の刺すような視線がこちらへと向けられる。
「身体? 子ども体型ってこと?」
自分の低い身長や幼い顔つきは自覚している。そのことかと思ったけれど、それは彼に「いいえ」と即座に否定される。
手持ち無沙汰かのように拭き上げられていたカクテルグラスが彼の手から離れた。音もなくなめらかにグラスが置かれるさまが美しい。だけど、そんなことも頭をすり抜けるほどに彼の美しい双眸から注がれる視線が私を捕まえる。
「あなた、まだ男性を知らないでしょう?」
「……は?」
耳を疑う言葉につい眉を顰めながらそう返すと、バカ笑い、とでも形容するのが相応しそうな、趣味の悪い笑い声が聞こえた。
けれどその直前に見えた、あの全てを見抜くような目は決して誤魔化しきれない。その歪さが彼らしさでもあり、きっと父がかれこれ何年もこの人を気に入りこの場所へと通いつめている所以なのだろう。
「男性を知らないのにもう大人だなんて面白い!」
「それは、そう…かもしれないけど…」
確かに私には男性経験はない。自分を大切にしなさい、という父の言いつけを律儀に守って生きてきたから、それを恥じるつもりは決してない。けれど、挑発をさらりと受け流せるほど私もまだ大人ではない。
それに、やけに男性の理想が高くなるのは一体誰のせいか、とつい思ってしまう。
サングラスと暗い照明を纏っていても分かる、恐ろしいまでに整った顔立ち。少し動く度に揺れる、長く美しい髪。同じ生物であることが信じられないほど、長く伸びた手足や指先。口先こそいい加減ながらも、ta-taのマスターとしても、情報屋としても決して手を抜かない姿。
年上の男性に憧れやすい年頃に、ただでさえそんなものがなくたって魅力的に見えるような人に晒されれば、並大抵の男性には惹かれなくなってしまうのも無理はない。
「……じゃあ、ギィが私のこと大人にしてよ」
「はい?」
色のついたレンズの奥で、ギィの目が丸く開かれるのが透けて見えた。よく見せるわざとらしい表情とはどことなく違って見えるそれは、きっと本心からの動揺が少しだけ溢れているのだろう。
いつも余裕ぶっている面を僅かながらも乱すことができてこちらも気分が良く、ついそのまま畳み掛ける。
「男の人としたことがないから私のことを子どもだって言うんでしょ。じゃあ、私が大人になったことを確認してみてよ」
「……そういうことは簡単に言っちゃいけません、ってお父上から習ってませんか? ああ、むしろ子どもにそんなことを伝える方が教育に悪いですね!」
さっき拭いたばかりのカクテルグラスをギィはまた拭き始める。あからさまな動揺を見せているようでいて、どこかわざとらしい。まるで敢えて動揺を演じているような。
「はぐらかさないで。たまにはちゃんと話聞いて」
「……本気で言ってるんですか?」
「じゃあ、どうすれば本気だって信じてくれる?」
「さあ、私には何も?」
私に出してくるものとよく似たカクテルを口に含みながら、彼は真意の読めない笑顔を浮かべる。見た目は同じでもそのグラスの中身は私のそれとは全く異なる。
ブロンクス、という名前のカクテルらしい。いつの日だったか、父がウィスキーを嗜みながらその名前を教えてくれたことがある。
そういえばギィはこうしてよく父とお酒を酌み交わしているけれど、それでよくきちんと仕事ができるものだ、と密かに思ったことがあったっけ。
ギィが再びカウンターにカクテルグラスを置いたところを見計らい、強引にそのグラスを奪い取り、そのまま一気に自らの口の中へと流し込む。いつものオレンジジュースの後ろから、刺すようなアルコールが襲う。くらり、と頭が揺れる。
「なまえさん」
さっきまでのわざとらしい動揺とは違う、焦りの籠った声が聞こえた。彼が好んで飲むようなカクテルだ、きっと度数もそれなりに高いのだろう。見た目はオレンジジュースだというのに、奥に隠されたアルコールがしっかりと主張し私の視界を揺るがす。
「これで、本気だって分かった?」
初めてのアルコールに意識を乗っ取られながらそんな言葉を絞り出せば、カウンターの向こうから溜息のような音がした。
「……私、まだ死にたくは無いんですけどね。ああでも、あなたが自ら望んだのなら、お父上も怒りはしないでしょう」
*
小さなネオン看板の前に立てば、鍵が開く音がする。相変わらず立て付けの悪いドアは、何故か前よりもほんのわずかに軽く感じた。
「いらっしゃいませ。今日もお一人で?」
店内にいるのはギィたった一人だけ。それと、カウンターの奥にある水槽に入った魚たち。
そういえば、父と来たときも含めて他のお客さんがいるところを見たことがないような、という今更の気づきは心の中にしまっておく。
彼にとってこの店はただの箱でしかなくて、本職は別にあるのだから。
「……うん」
まるで何事も無かったかのようにどうでもいい話をしながら、彼はカクテルを作り始めた。
この間のことは私の勝手な夢だったのだろうか。いや、そんなはずはない。あの日感じた熱は、きっと気のせいなんかじゃない。
彼がシェイカーを振る音をBGMに、初めて感じた異性のぬくもりが生々しく甦り顔がわずかに熱くなった。ta-taの薄暗い照明はそんなことをも誤魔化してくれる。
それはもしかして、あの日の駆け引きさえも覆い隠してしまったのだろうか。
「……なまえさん」
「! な、何」
思考に耽っていたところで突然名前を呼ばれ、慌てて返事をする。
どうせこの間抜けな様をニヤニヤと笑われているのだろうと思って顔を上げれば、予想外にも真剣な顔をしたギィがそこにいた。
「どうぞ」
たった一言、その言葉に続いてすっと差し出されるのは、いつもと同じショートカクテル。だけど何故だろうか、いつもよりも若干赤みが強いように見える。照明のせいか、それとも。
「……」
恐る恐る匂いを嗅ぐと、わずかなオレンジの香り。それと、正体は分からないけれど、どこかで嗅いだことのある香りが鼻に抜けた。
ああ、なんだいつものシンデレラか。そう思いそのままグラスを傾けると、途端に今まで味わったことのない、重い何かが喉の奥に触れた。
フルーツのようでもありながら決して違う、口の中が熱く焼けるような刺激とむせかえるような香り。そこでようやく、“どこかで嗅いだことのある香り”の正体に気づく。
「……これ、いつもと違う」
「ええ! 気づいていただけましたか!」
「パパがよく飲んでる……ウィスキー? ねえギィ、これ」
「ニューヨークです。今のあなたにぴったりかと思って」
再びグラスを傾け、その中身を僅かに口に含む。まるで、初めてここへ来たときのようだ。アルコール分なんて一切ない、ただのジュースをお酒だと思って恐る恐る飲んだあの日と同じ。
「……おいしい」
程よい甘みと酸味が広がる、名前に劣らないすっきりとした都会的な味。異国の都市の名前を冠したカクテルは、12時を過ぎる前に帰らねばならないお姫様とは違い、たとえ日付が変わっても魔法が解けることも眠ることもない。
「あなたの味覚はお父上に似ていますからね」
「そうなの?」
「ええ。……お酒をあまり飲んだことのない方に出すカクテルではないでしょうけど」
「どういうこと?」
「いいえ何も。ご一緒しても?」
こちらに伺いを立てるより先に、ギィはいつものブロンクスが入ったグラスを持ち上げている。それに合わせるように私も初めてきちんと飲んだカクテルを彼のグラスに近づけ、会釈をするようにほんの少しだけ傾けた。
ショートグラスに残っているカクテルは、よく見るとオレンジ色をしていた。あの日初めて見た、サングラスの奥に隠されていた琥珀のような瞳を思い出す。
もう一度あの琥珀を目にすることはできるのだろうか、そんなことを考えながらギィの顔を見ると、彼は目を細めて笑った。
その表情に顔が火照るのを感じながら、少し酔いが回っちゃったかも、と独り言のように呟いてそれを誤魔化した。
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