2024/5/11
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ふたりはやわいゆめのなか


※生理の話



 目を覚ました瞬間に形容し難い不快感をあちこちに覚える。月に1回程度の頻度で訪れるそれは、どれだけ経験しても慣れることはない。全身で不調を訴えてくる身体に引きずられるかのように落ち込んだ心が、今日これからの気分をあっさりと決めてしまった。せっかく今日は久しぶりに凪砂さんと会える日だというのに。

 凪砂さんが所属している劇団サークルの地方公演が千秋楽を迎えたのは昨日のことだった。互いの仕事が立て込んで一週間以上会えないことなんて今までざらにあったにせよ、離れた土地に長期間いるというだけでもやっぱり普段と違うものがある。
 それでも凪砂さんはほとんど毎日のように電話をかけてきてくれたけれど、話せば話すほどにそばにいて温もりを感じられないことへの寂しさは増すばかりだった。

 あれこれ考えていても仕方がないので、とりあえずのメイクと着替えを済ませて、重たい身体を引きずって出勤する。
 今日は私が帰宅する頃を見計らって凪砂さんがうちに来てくれる予定だから、最低限でもと床に落ちた髪の毛をフローリングワイパーで取り除いてから家を出た。

  *

 なんとか立っていられる程度には不調が酷い。アポの最中は気力で耐え切れるのだが、それが終わって帰ろうとした瞬間に腹痛と頭痛と眩暈が一気に襲ってくる。
 これはいつもよりまずいかも、と本能的に感じ取りながら、今日どうしよう、という考えが頭をよぎった。

 私用スマホを取り出して凪砂さんとのメッセージ画面を開く。「今日あまり体調が良くないので、もしかしたら会わない方がいいかも……ごめんなさい」とだけ送信する。
 おそらくもう新幹線もとっくに降りて自宅でゆっくりしている頃だろうから、きっとメッセージに目を通すのはしばらく先になるだろう。

 とにかく今日1日を乗り越えねば、という思いだけで身体を動かし、オフィスのある方へと足を進めた。

  *

 痛みと不快感を耐え抜きながらようやく定時を迎える。アポから帰ってきて以降特に大きな業務を振られることもなかったので、今日はもうこのまま定時で帰ることにした。
 お疲れ様です、お先に失礼します、と挨拶をしてオフィスを出てからスマホを開くと、メッセージが数件と不在着信が来ていた。よく見ると送り主は凪砂さんばかりで。
 仕事中だと分かっているはずなのに電話をかけてきていたあたりからして、相当動揺していたらしい。彼は普段あまり動揺が表に出ないだけに、その光景を見てみたかったかも、と少し悪戯心に近いものが湧いてしまう。

 「返信できなくてごめんなさい、仕事終わったよ」と送ればすぐに既読がつく。彼は頭の回転こそ早いけれどもそのぶん出力は不得手だから、いつも返信には少し時間がかかる。普通の相手ならば早く返信が欲しいともどかしくなるところだろうが、彼に限ってはそれを待つ時間が不思議と心地よい。
 オフィスから数分の場所にある駅へ向かい、ちょうど来ていた電車に乗りこむと通知が 2件。運良く座席が空いたので有難く座らせてもらってからメッセージを開いた。

 「お疲れ様。体調はどう?」「そろそろなまえさんの家に向かおうと思っていたのだけれども、今日は私がいない方がいい?」凪砂さんを戸惑わせていることに胸が痛む。
 せっかく凪砂さんが家に来てくれるというのに、もてなすどころかむしろ気を遣わせてしまいかねないと思って“会わない方がいいかも”なんて送ったけれども、本当は一緒にいてほしい、なんて自分勝手すぎるだろうか。

 そんなことを考えているうちに、気づくとメッセージが増えていた。「私にできることがあればさせてほしいし、一緒にいたい」「でも、なまえさんに無理はしてほしくないから」悩みながら送っていることが何となく分かる、歯切れの悪さを感じさせるメッセージだった。
 もう意地を張る意味なんてない、そう思って「凪砂さんさえ良ければ、来てほしいです」とだけ送り、ちょうど乗換駅に到着した電車をあとにした。

  *

 最寄り駅から5分。あまり駅に近すぎても騒がしくて困るし、かと言って遠すぎても不便だと選んだ1Kの鍵を開けて室内に入ったところで、またスマホが光った。「そろそろ着くよ」もちろん凪砂さんからのメッセージだ。タイミングはばっちりだったらしい。

 電車に乗りながらメッセージを送り合う中で、迎えに行くと粘る凪砂さんを何とか制止したのはつい十数分前のこと。
 確かに有難い申し出ではあったけれども、そこまで気を遣わせるのも申し訳ない。幸い動けないほどの痛みでは無いから、どうにか説得して真っ直ぐうちへ来てもらうことにした。

 散らかったままだったコスメやら食器やらを急いで片付けていると、外から車の音がした。どうやら部屋の前の道路で止まったらしいことを音で感じとり、凪砂さんかも、と思った少し後にインターフォンが鳴る。

「……なまえさん、いる?」

 インターフォン越しにそんな声が聞こえた。慌てて玄関のドアを開けて出ると、少し不安げな様子の凪砂さんがそこに立っていた。

「来てくれてありがとう……」
「ううん。むしろ、体調が優れないのにごめんね」

 そんなやり取りを交わしながらあまり広くない玄関で靴を脱ぐ凪砂さんに、ああ、帰ってきたのだなと不思議な感動と嬉しさを覚える。
 それと同時に、下腹部がぐっと痛んだ。

「……なまえさん? お腹、痛い?」

 無意識のうちにお腹を押さえていたのだろう。ごめんなさい、と言おうとした瞬間に身体がふわりと浮き上がる。
 ようやく事態を認識したときにはもうベッドの上だった。

「ごめんね、立っているのも大変そうに見えたから」

 ついさっき軽々と私を抱き上げて運んだ彼が、あまり悪びれる様子もなくそう言う。凪砂さんは横になった私に布団を掛けてからベッドに腰掛け、そのままそっと私の頭を撫でた。

「……ごめんなさい……」
「……どうして謝るの?」

 痛みの波で時折視界が霞む中で、きょとんとした顔の凪砂さんが見える。

「だって、せっかく来てくれたのに」
「……私としては、来てよかったと思ったけれど。もしなまえさんがこの家で一人のときに倒れてしまったら心配だから」
「それは……そうかもしれないけれど」
「……ちょっと待っていて。えっと、ケトルを借りてもいい?」

 凪砂さんからの突然の申し出に、その意図が読めず少し戸惑う。

「あ、うん……? いいけど」

 そうは言ったけれどこの人ケトルなんて普段使ったことあるんだっけ、と若干失礼なことを考えながら、あっちにあるから、とだけ伝えてその背中を見送った。

 すると、痛みに隠れて強烈な眠気が身体を襲う。ベッドで横になっているせいで眠りのスイッチのようなものが入ったのも関係があるのだろう。
 意識を揺るがすほどのそれに身を任せ、どこかへ電話をしているらしい凪砂さんの声を聞きながら意識を手放した。

  *

「……なまえさん、なまえさん」

 時間にして10分も経っていなかっただろうか。誰かに名前を呼ばれた気がして目を覚ますと、どこか泣きそうな顔をした凪砂さんが目の前にいた。

「ごめんなさい、寝ちゃってた」
「……よかった。痛みで気を失っているのかと思ったよ。茨は寝ているだけだって言っていたけれど、あまりにも反応がなかったからもしかしてと思って」

 どうやら、さっきの電話の相手は七種さんだったらしい。仕事の話もあっただろうに、それを置いてまでここへ来てくれたことに申し訳なさを覚える。

 ……なんてことを考えていたら、不意に凪砂さんから何かを差し出される。
 これは…何か棒状のものにハンカチが巻かれて、それがゴムで留められていることだけは分かるけれども、一体何だろう?疑問を隠せないままにそれを受け取ると、ほんのりとした温かさが手に伝わった。

「……ここに来るまでの間に茨に電話で聞いていたら、身体を温めた方がいいって言われて。それで、この湯たんぽの作り方を教えてもらったんだ。ちょうど私が今日飲んでいた水のペットボトルもあったから、お湯の作り方を教わって、冷めないようにとハンカチを巻いてみたのだけど……どうかな」

 凪砂さんが話すのを聞きながら、正体がわかったそれ__ペットボトルの湯たんぽを下腹部にあてる。すると、ほんの少しだけ痛みが和らいだ気がした。じんわりと伝わる温かさが心地よい。

「ありがとうございます……」
「……何か飲む? まだお湯も残っているし」
「あ、じゃあ白湯で……」
「分かった。すぐに持ってくるから、待っていて」

 そう遠くはないキッチンへ向かう凪砂さんの背中は頼もしい。やっぱり来てもらってよかったなあ、でもしてもらってばかりで恐れ多いなあ、なんてことを考えていると、マグカップを持った彼が戻ってきた。
 礼を言ってそれを受け取り、火傷に気をつけながら中の白湯をゆっくりと飲む。

「おいしい……おかげでちょっと元気になったかも。あ、凪砂さんも何か飲む? 大したものはないけど、何か淹れようか?」
「……私は大丈夫。それよりもなまえさん、まだ顔色が悪いように見えるし、このまま横になっていた方がいいんじゃないかな」

 私から彼に何もできていないことに申し訳なさを感じていつも通りふるまおうとしてみたけれども、やっぱり、この人の前で嘘はつけないのかもしれない。

「じゃあ……お言葉に甘えて。でも、せっかく来てくれたのに、退屈じゃない?」
「……私なら大丈夫。それより、他に必要なものとか、してほしいこととかある? 私にできることなら何でもするから、教えてほしいな」

 そう言われてしまい、今私が凪砂さんにしてほしいこと……何があるかを必死に考えていると、ふと頭にある考えが思い浮かんだ。
 けれどそれはあまりにも図々しすぎて、すぐに頭の中でそれを否定する。そんな私の思考を読んだのか、彼が口を開いた。

「……何かあるんだね。教えて?」

 その綺麗な顔と声を存分に活用してそうお願いされれば、抗うことなんてできなかった。

「……一緒に、寝てほしい、です」
「……そんなことでいいの?」
「そんなことだなんて……」

 私からすれば大層なお願いだった。別に普段から一緒に眠ることはあるけれども、それは成り行きで”そういう風“になっただけで、わざわざお願いするのも無粋な、気が引けるものだったから。

「……私も、久しぶりになまえさんと会えたのだし、もっと触れ合いたいと思っていたから。なまえさんがいいのだと言うのなら、そうしたい」

 そう言いながら凪砂さんが私のベッドに入ってくる。身長にして数十センチの差がある身体に抱き締められると、全身を包み込まれているかのような感覚に苛まれる。
 あまり高くはないはずの凪砂さんの体温が、その髪や身体から香るシャンプーやら柔軟剤やらの香りが、ホルモンのせいで不安定になった心と身体をゆったりと癒してくれる。

「……気持ちいい、です」
「……うん、私も。なまえさんを傍に感じられて、嬉しい」

 まさしく微睡にぴったりの温度のなかで、再び眠気が訪れる。今度は随分と穏やかなそれに充てられながら幸せを感じていると、頭の上から「……おやすみ」と凪砂さんの声がして、私はそのままゆっくりと目を閉じた。

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