2024/5/11
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アールグレイ


 一日中すっきりしない天気が続くでしょう。朝の情報番組で聞いた天気予報の通り、天気はもちろん気分まですっきりしない一日だった。
 緊急の案件が降ってきたり、取引先の無茶な要望が降ってきたり、日中ぱらぱらと降っていた雨なんかが可愛く思えてくるぐらいには。

 ホームに滑り込んできた電車のライトが眩しい。空調の効いた車内に足を進め、空いている座席に腰掛けた。
 今から帰る、と一緒に住んでいる恋人__凪砂さんにメッセージを送ってからスマホを鞄にしまうと、気が抜けたのか、うへえ、と情けない溜息のようなものが漏れて慌てて口元を隠した。幸いなことに電車が空いていたので近くに人がいなくて助かった。
 いつもの癖で手帳を取り出し、今後のスケジュールを確認しながら仕事の段取りを立てようとした。けれど疲れた頭では碌な考えは浮かばず、あーお腹空いたなあ、くらいしか考えられない。
 しょうがないので諦めて音楽でも聴こう、と白いワイヤレスイヤフォンとさっきしまったスマホを取り出した。すると、通知が1件。

「お疲れ様。駅まで迎えに行くね」

 かわいいなあ、なんて思いながら、お礼の言葉と共に到着時刻を送る。
 天下のトップアイドルであるEdenの乱凪砂に迎えに来させるなんて冷静に考えればとんでもないことなのだけれど、彼は在宅しているときはいつも私の帰宅が遅くなると決まって駅まで迎えに来てくれる。
 最初こそ人目を気にして遠慮していたが、どれだけ伝えても迎えに行くの一点張りで、仕方なくこちらが折れるしかなかったのだ。以前から薄々感じてはいたけれど、あれでいて意外と強情なところがあると実感したのはその一件が大きい。

 イヤフォンから流れる彼の歌声を聴きながら電車に揺られていれば、時間なんてあっという間に過ぎていく。気づいたときにはもう最寄駅で、慌てて電車を降りて改札に向かった。曲を止めながらエレベーターを下って改札階に着いたところで、改札の向こう側にしなやかな体躯の青年が立っていた。
 深く被ったキャップに美しく長い髪を隠し、さらに顔にはごく薄いグレーのマスクをつけているけれど、私にとってはある意味これも見慣れた姿なのですぐに分かる。

「……あ、なまえさん。おかえり。」

 私が降りてきたことに気づいたようで、凪砂さんの大きな手がひらひらと可愛らしく揺れる。
 改札を通り抜けてから「ただいま」と返すと、彼は嬉しそうに微笑んだ。たった数分の道のりなのに、治安も決して悪くはないのに、こうして迎えに来てくれることに気恥ずかしさと若干の優越を覚える。
 駅構内を出て灯りが薄くなるとともにさりげなく左手が繋がれ、そのまま二人で帰路についた。

「いつもありがとね」
「……なまえさん、今日もお疲れ様」

 ふと、凪砂さんの左手が持ち上げられる。てっきりそのまま肩にでも触れられるかと思っていたのに、思いがけずその指先は私の耳に触れた。凪砂さんと会えた嬉しさに気を取られてイヤフォンを耳から外していなかったことを思い出し、ごめん、今とるね、と伝えたが静止される。

「……Awakening Myth?」
「あたり。よく分かったね?」

 曲自体は凪砂さんと会う前に止めていたから、音漏れはおろか聞いているところさえも見られていないはずなのに。何で分かったの、と問うと、疲労が溜まると"強い"曲を聴く癖を指摘される。自覚がなかっただけに恥ずかしいが、言われてみればそれもそうな気がする。
 この曲ってめちゃくちゃ強いよね、とあまり賢くはなさそうな感想をかつて私が零したことも彼はしっかりと覚えているのだろう。
 右手でもう片方のイヤフォンを取り出して凪砂さんに差し出すと、マスクの下で彼が微かに微笑むのが分かった。

「たまには1曲くらい聴きながら帰ろ。ま、聴き慣れすぎて飽きてるかもしれないけど」
「……これ、どうやって付けるの?」

 予想外の応答に軽く固まってしまう。そうか、彼が普段仕事で使うものとは形が違うだろうから、そもそも使い方が分からないんだ。

「えっと、耳の穴に……どう言えばいいんだろ。まあいいや、つけてあげるからちょっとしゃがんで」

 そう伝えると凪砂さんは長い脚を折り曲げて私に届く場所まで頭を低くしてくれた。キャップの真下に見える耳にそっとイヤフォンを差し込む。普段まじまじと見ることの無い部分だけに、それが目の前に晒されて心が妙にざわめくのを感じた。
 耳から落ちないかを確認してから、先程止めた曲をまた再生する。耳から流れる音楽に合わせて小さな小さな声で歌う凪砂さんとしっかりと手を繋ぎながら歩くと、曲が終わる頃にはマンションのエントランス前に到着していた。


 凪砂さんが滞りなく玄関の電子ロックを解除し、開いたドアから二人でするりと室内に入る。どこからか美味しそうな匂いがして空腹がくすぐられた。

「もしかしてご飯買ってきておいてくれたの?」

 お互いに仕事の時間が不定期な上に接待などで外で食べることも多いので、私たちは家できちんとしたご飯を食べることはかなり少ない。もちろん今日のようにお互い家でご飯が食べられる条件が揃う日も何度かはあるが、そのときももっぱらデリバリーやお惣菜に頼ってきた。
 私は今日のように残業になると料理を作る元気も時間も残っていないことが殆どで、たとえ凪砂さんの帰りが私より早かったとしても、見た目を仕事道具としている凪砂さんに万一のことがあっては困るので、なるべくキッチンに立たせないようにしてきた。

「……私が作ったんだよ」
「……え?」

 予想外の発言に私が固まっているのをよそに、凪砂さんはスキップでもしそうな程に軽い足取りでキッチンへと私を連れていく。キッチンに繋がるドアを開ければ、玄関で嗅いだ美味しそうな匂いをいっそう強く感じた。まだ作ってからそれほど時間も経っていないのだろうか、どことなく部屋の空気もあたたかい。

 まだ状況が呑み込めず固まっている私を放置して、凪砂さんは手をしっかりと洗ってから皿に料理を盛り付けていく。あ、私も手洗いしよう。
 少しは困惑の最中から現実に戻ってこられたらしく、プッシュをして出てきた泡に手を包まれながらそれはそれは丁寧に手を洗った。水で泡を流し、最後にタオルで水気を全て拭き取る。

 その間に凪砂さんはもうとっくに盛り付けを終えており、少し離れた場所にあるダイニングテーブルの上にそれらの料理を並べていた。
 至れり尽くせりと表現するのが相応しいほど上げ膳据え膳になっていた私は慌てて箸を二膳とコップをふたつ取り出して運ぶ。
 飲み物は……アイスティーでいいか。昨日作っておいたものがピッチャーにたくさん残っているし、無糖のまま飲むのなら食事にも合う。念のため凪砂さんにも確認してからピッチャーごとダイニングへと。
 身体を冷やしすぎてしまうのもいけないから、氷は無し。冷蔵庫でずっと冷やされていたのだから、それで十分だろう。

 ダイニングテーブルの上はまるでカフェのよう。中央に据えられたラザニア、ころころとしたミニトマトが可愛いカプレーゼ、湯気の立ったコンソメスープ。
 料理が趣味どころか料理自体ほとんどしてこなかったはずの凪砂さんがどうして突然こんなにお洒落なご飯を作るに至ったのか謎だったけれども、彼はもともと周囲には理解できない思考回路で動くことがあるからと納得する自分もいる。
 仕事の関係でこの手の料理のレシピや工程を見て自分でも作りたくなったとかぐらいは頭に浮かぶけれども、でもそんな仕事引き受けた話なんてしてたっけ?

「すごいね」

ダイニングチェアに座ってからそう話しかけると、向かいの席に座っている凪砂さんは少し自慢げな顔で笑った。

「……なまえさんをびっくりさせられて嬉しいな」
「最近仕事で教わったとか? それにしてもこのラザニアの焦げ目とかお店で出てくるものみたい。さすが凪砂さ、」
「……仕事じゃないよ」

 危うく凪砂さんを置き去りにして話を進めてしまいそうだった。いけない、彼のペースに合わせずにどんどん突っ走ってしまうのは私の良くない癖だ。

「そっか。あ、じゃあ仕事仲間とか? 確か、同じ事務所にも料理が得意な子がいたよね。料理サークルみたいなのがあるんだっけ」

 私自身はアイドルにはそこまで詳しくないけれども、凪砂とさんと同じ事務所の子は特に彼の話にも登場しやすいから流石に覚えてきた。

「……そうだね。私はそのサークルには入っていないのだけれど、彼にお願いして私でも作れる料理のレシピを教えてもらったんだ」

 彼の仕事仲間との話を聴くのは好きだ。職業柄個性的な人も多いし、聴いていて退屈しない。何より、凪砂さんがそうして周りの人と関わっている光景を想像できるだけでもすごく嬉しくなるから。
 それに、彼の低く落ち着いた声は耳に心地よくて、疲れた身体を内側から解してくれる。

 どうして突然料理を? と聞こうとしたけれども、何だかそれも無粋な気がしてやめた。
 というか、凪砂さんの行動は大抵が突拍子もないものなので、今回の件だって気まぐれみたいなものかもしれないし、そのまま話し続けることでご飯が冷めてしまうのも勿体無い。

「いただきます!」
「……召し上がれ?」

 何と言うのが適切かを探るかのようなトーンでそう言う凪砂さんの姿が何だか面白くて、軽く笑いを零してからカプレーゼに手をつけた。


「ごちそうさまでした!」
「……お粗末さまでした。なまえさんのお口にあったかな」

 現代の若者からはあまり出てこない言葉を何の躊躇いもなくさらりと、いや、今度はむしろ自信ありげに言った凪砂さんがまた面白くて少し笑ってしまったけれども、きちんとお礼と感想を伝える。

「すごくおいしかった。私好みの味っていうか。それに見た目もお洒落だったし、家でこんなに素敵なものが食べられるなんて贅沢な気分……」
「……良かった。作っているときもこれでいいのか悩んだのだけれども、こうやって喜んでもらえて安心したよ」

「ありがとうね。いやー、なんか何でもない日なのにこんなにいい思いしちゃっていいのかな……。あ、お礼にちょっといいお茶でも淹れようか? お礼になるか分からないけど」

 そう言いながらダイニングテーブルに手を置きそのまま立ち上がろうとすると、凪砂さんの手が私の手に覆い被さる。

「……なまえさん、ちょっと待ってて」

 物理的にも言葉でも動きを静止され、そのまま為す術なくまた椅子に腰掛けざるを得なくなる。かと思えば、彼の手はすぐに私の手から離れ、そのまま彼自身ごとどこかへ行ってしまった。
 きっと向かった方向からしてキッチンなのだろうけれども、でもなんで止められたのだろう? おもてなしスイッチのようなものでも入っているのだろうか。
 少しずつ凪砂さんのことを理解できてきたような気がするけども、まだ分からないことばかりだ。

 そんなことを考えているうちに凪砂さんがまた私の前に現れる。……普段あまり使わない、大きな平皿を持って。

「……ハッピーバースデー、なまえさん。こうして一緒にお祝いできること、嬉しく思うよ」

 一瞬だけ思考が固まり、何を言われたのか理解できなかったけれども、凪砂さんがテーブルの上に置いた平皿に載っていたものを見てようやく理解する。
 彼の体躯もありさっきは見えなかったけれども、そこにはチョコレートケーキがホールでひとつ。そしてチョコレートプレートには「Happy Birthday なまえ」の文字。

「そっか、私誕生日……」
「……忘れてたの?」

 凪砂さんが目を丸くする。自分の誕生日を忘れるなんて、彼からすれば有り得ない感覚なのだろう。

「一応ちょっと前までは覚えてたんだけど、仕事だったし何かするつもりもなかったんだよね。だから普通に過ごしちゃったし」
「……そうか、私たちは誕生日に仕事があってもイベントだったり差し入れだったりで誕生日を意識せざるを得ないけれど、普通の社会人はそうじゃないんだね」
「そうだよ。凪砂さんたちが特殊なだけで、私みたいな一般人からしたら誕生日も1年のうちのただの一日に過ぎない、ってこともあるくらいだからね」

 また一つ世の中のことを知った、とでも言いたげな様子で頷く凪砂さん。ある意味リアルだけれども、こんなあまりにも現実的すぎることを知って楽しいものなのだろうか。
 いつまで経ってもその感覚は私には理解できないのだろう。けれど、彼がそれで良いのならわざわざ口を挟むことでもない。

「……ねえ、ろうそくを差してもいい?」

 待てをさせられている犬のような顔で私を見る凪砂さんにまた笑ってしまいながら、一緒にろうそくを指し始める。
 せっかくの美しいケーキに傷をつけることにどこか後ろめたさを感じながら、数本のろうそくを立てていく。凪砂さんは年齢の数だけ用意してくれていたみたいだけれども、流石にケーキが穴まみれになるのは勘弁して欲しい。

 マッチを使ってろうそくに火を灯せば、凪砂さんが部屋を暗くする。ハッピーバースデートゥーユー、とそれはそれは贅沢なアカペラを響かせられ、ろうそくの明かりしかない部屋の中でこっそり気恥ずかしくなった。
 凪砂さんが曲を歌い終えた頃を見計らってろうそくを吹き消すと、彼のいる方から拍手が聞こえる。そして、また部屋が明るくなる。

 いちごにチョコレート、ラズベリー、それにマカロン。目の前に置かれた、私と凪砂さんの好きなものが詰まったケーキは、決して有り合わせで用意したものでないことが見るだけでも分かる。

「もしかして、このケーキも自分で選んできたの?」
「……茨に教えて貰って、オーダーしておいたんだ。帰り道に受け取りに行ったんだけど、『傾けず真っ直ぐに、慎重に持ってくださいね』って茨に釘を刺されたよ。茨が運転手にも伝えのか、送りの車もいつも以上に安全運転だったよ」
「そうだったんだ。慎重にケーキ持ってる凪砂さん、ちょっと見たかったかも……」
「……どうして?」
「あー……そんなことより、せっかく買ってきてくれたんだし、早く食べよ?」
「そうだね」

 いつの間に持ってきたのか、普段あまり使わないケーキナイフで彼がケーキを4等分する。飾り付けを崩さないよう、丁寧に、計算でもしているのかと思うほど美しくカットする様だけでも絵になる。
 というか、私が切ったら等分するだけでも精一杯で、こんなに配分を考慮して切ることなんてできないだろう。

「……なまえさん、どれがいい? 私のおすすめはこれ」

 チョコレートのマカロンをたくさんのいちごとラズベリーが囲んでいる部分をおすすめされ、じゃあ、とそれを選ぶ。
 普段そんなことはしないだろうにそつなくお皿へケーキを移動させる凪砂さんの姿に流石だと感心しながら、お礼を言ってケーキの乗ったお皿を受け取った。
 凪砂さんが自分用のケーキをお皿に取ろうとしているところを見て、慌ててキッチンへ向かう。

 あまり待たせるのもと思ってケトルにお水を注いでからボタンを押し、ティーポットとカップ、アールグレイの茶葉を取り出す。
 思っていたよりも早く沸いたお湯でポットを一度温めてからそのお湯を捨て、そこに茶葉を3杯。そしてまたお湯を注ぎ、急いで蓋をする。ちょっとお湯が跳ねてしまったけれど、ほんの少しだったからあまり気にしないことにする。
 蒸らしはダイニングですればいいから、とりあえずこれをダイニングへと運ぼうとティーマットの乗ったトレイに乗せた。

「……大丈夫? 火傷にならないといいけれど」
「うわっ、いつの間に?!」

 思いがけず声をかけられて、お世辞にもかわいいとは言えない反応をしてしまう。
 てっきりダイニングテーブルにそのままいると思っていたけれど、よくよく考えれば何も言わず突然立ち上がってしばらく戻ってこないとなれば疑問に思ってこっちへ来るのも当たり前だろう。
 これだけ大きな身体を持つのにその気配に気づかなかったのは、凪砂さんが気配を消すのが上手いからなのか、それとも私がお茶を淹れることに集中しすぎていたのか、それともどっちもだろうか。

「……私、なまえさんを驚かせてしまった?」

 申し訳なさそうな様子で俯く凪砂さんに罪悪感を覚える。確かに驚きはしたけれども、おそらく彼がさっき心配してくれた火傷云々の件は私がお湯を跳ねさせてしまったことがきっかけだし、あれは全く凪砂さんのせいではない。
 そのことを慌てて伝えると、動揺でまともな説明になっていなかっただろうに彼は安心した顔で頷いてくれた。

「……それならよかった。私も何か手伝えることはある?」
「あー……もう紅茶は淹れ終わっちゃったし、あとは待ってるだけなんだよね。だから先に向こう戻ってて大丈夫だよ」
「……それなら、このトレイを運ぶね」

 特に何ももすることはないよ、という旨を伝えたはずが、気づけば私が運ぼうとしていたトレイを凪砂さんに取られてしまう。
 どこまで私の話を聴いていたのか疑いたくなるぐらいには若干噛み合わないことがままあるけれども、おそらく彼なりに話と場の状況を解釈した上での行動だから困るというほどのものでもない。もてなされてばかりで申し訳なさはあるけれども。


 ダイニングテーブルに戻ると彼がティーカップを並べておいてくれた。並べ方や椅子の配置からして向かいではなく斜め隣に座ってほしいという意図を感じたので、それに応じることにした。

 そろそろ時間もちょうど良いので、一度ポットの蓋を取り軽くスプーンで混ぜてからその中身をカップの中へ回し注ぐ。
 琥珀色の液体がティーカップを満たすと同時に、茶葉の良い香りがふわりと漂った。

「……私、なまえさんが淹れてくれる紅茶が好きだよ」
「あ、ありがとう……?」
「それと、紅茶を淹れているところも。さっきも、キッチンになまえさんがいるのを見て声をかけようか迷ったのだけれど、邪魔をしてしまうのも勿体ないと思って」
「……?」

 いまいち意図が読めない発言が続く。凪砂さんが私にとって理解できないような脈絡のない話をすること自体はそこまで珍しいことでもないけれども、どことなく違和感……とまでは行かないが、いつもと違う様子を感じる。
 もしかして、とこれまでの彼の挙動も踏まえて一つの仮説が頭に思い浮かんだ。

「なんか凪砂さん、楽しそう……?」

 彼は興味関心の幅が広く好奇心旺盛だが、それにしてもいつもより若干浮き足立っているように感じる。普段なら見かけでは多少なりとも冷静沈着に見えるのに、今日はかなり隠しきれていない。

「……今まで、こういうことをする機会があまりなかったから」
「そうなの?」

 “こういうこと”__手間暇をかけて用意をして誰かの誕生日を祝うことも、誕生日ケーキを自ら買って帰ることも、もしかしたらどれも彼にとっては初めてのことだったのかもしれない。
 あまり踏み込まないようにしているけれども、彼の出自が常人のそれとは異なることぐらいは分かっている。そして、それを憐れむことがいちばん彼を傷つけるということも。

「まあ、そういうこともあるよね」

 生まれ育ちを“かわいそう”“大変だったね”と評価することは誰だってできる。だからこそ、私ぐらいは凪砂さんがここまで歩んできた道を、そういうものとしてそのままに受け入れたいと思った。
 そんなことを考えて我ながらあっさりとした返事をすると、彼はふわりと笑った。

「……来年もまた、こうしてお祝いできたらいいな」

 もちろん、という思いを込めてテーブルの下に隠れた凪砂さんの手を握ると、彼はまた優しい笑みを浮かべてこちらを見つめた。

「……あの、ムードを壊すようで大変申し訳ないのですが、ケーキ食べても……?」
「……ああ、ごめんね。せっかくなまえさんが淹れてくれた紅茶も冷めてしまうよね」
「こちらこそごめんなさい……その、ケーキ食べたかったからっていうより、なんか気恥ずかしくなっちゃったから……いやケーキも食べたいんだけども……!」
「……気にしないで。……あとで、ね」

 その言葉が意味することを少しだけ想像し、顔に熱が集まる。
 いまいち読めない笑顔を浮かべる凪砂さんに若干の恐れを感じながら、照れ隠しも込めて彼が自ら頼んでおいてくれたとっておきのケーキを口に運んだ。

 朝からのすっきりとしなかった気分がすべて吹き飛ぶほどの、チョコレートの甘さとベリーの甘酸っぱさに舌が包まれる。それは、なにものにも変え難い、幸せを詰め込んだような味がした。
 どんなに陰鬱なことをも消し去ってしまうほどのものを、凪砂さんはいつも私にもたらしてくれる。それはきっと、これから先も。

 何気ない日も特別な日もすべてに彩りを与えてくれる彼に、少しでも何かを返したい。
 何もかもを持っていると言っても過言ではない凪砂さんだけれども、誕生日を祝われている私よりもずっと楽しそうに祝ってくれているさまを見て、きっと私が彼へと与えられるものはまだまだたくさんあるのだと感じたから。
 そんなことを考えながら、チョコレートの甘味をアールグレイの風味で包み込んだ。

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