2024/5/11
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その夢の名はさようなら


初めて会ったとき、綺麗だ、と思った。

それが、すべての間違いだったのだ。


蓮巳がなまえに出会ったのは、辺りでも特に大きい図書館。授業で出された課題が思いの外進まず、気晴らしに何か良い資料でもないかとこの図書館へとやってきたのだった。


生徒会業務に学生の本分たる勉強、そして紅月としての活動。いつもこなしていることだったが、さすがに身体に負担がかかっていたらしい。その日、蓮巳は倒れた。

といっても昏睡状態にあった訳ではない。ただの目眩だった。図書館のあまり柔らかくないカーペットに、頭から突っ込んだ。

意識はある。だけど起き上がる気力がない。そんな最中、突然上から声がした。


「あの、大丈夫ですか?」


控えめな音声だったのはここが図書館であることを配慮してなのだろう。疼痛のする頭にあまり響きすぎない、穏やかな声だった。

「館員さん、呼んできましょうか?」

蓮巳が少し顔を上げて見れば、同年代くらいの少女が床に膝をついてこちらを見つめている。体調不良とはいえこんな姿を見せてしまっていることが、突如恥ずかしく思えた。

「その必要はない。手間取らせてしまい、すまん。」

なんとかして上半身を起こし、そう礼を言う。しかしそれで身体の疲れが取れる訳もなく。


すると、蓮巳の目の前にペットボトルが差し出された。

「あの、これ……さっき出入り口の自動販売機で買ったばかりのものなんですけど、よかったらどうぞ。まだ、顔色良くないみたいなので。」

触れてはいなくともその冷気は空気を通じて伝わる。結露した水滴のついたままのそれは、蓮巳にとってやけに魅力的に見えた。どこにでもある、ただのミネラルウォーターだというのに。

「ああ、ありがとう。……少し待っていてくれ、小銭入れがあったはすだ。」

そう言いポケットを探ろうとする蓮巳の手を阻止する手がひとつ。その手の主は、静かに頭を横に振った。

「お金なんていいです。体調の悪い人にそんなことしたら、ばちがあたっちゃう。」


古めかしい言い方に蓮巳は懐かしさを覚えた。幼い頃、実家で悪さをしたときに言われた言葉とよく似ていたからだった。

「重ね重ね、感謝する。この礼は必ずしよう。」

「そんな、恐れ多いです。私はただ、当たり前のことをしただけですから。」

「いや、それでは俺の気が晴れない。そうだな……どうするのがいいだろうか」

2人で頭を付き合わせるように考えていると、先にもちかけたのは少女のほうだった。


「じゃあ、今度ここで会ったときにいかがですか?」

それは、蓮巳がそう頻繁にこの図書館に来ないことを知っての発言だったのだろうか。当然、少女にはそのつもりはないのだろうが。

ともかく、傍から見ればまだ警戒されているようにも取れる発言だったのたが、少女と蓮巳の折り合いを鑑みるにちょうどよく思えた。


「分かった。……名前だけ、教えてもらってもいいか?俺の名は、蓮巳と言う。」

「なまえです。あの、本当に体調、大丈夫ですか?」

「当然だ。これでも激務には慣れているんだ。」

「それ、自慢げに言うことじゃないですよ。えっと、私もう行かなきゃいけなくて。」

そう言って彼女はばつが悪そうな表情をした。

「ああ、引き止めて悪かった。では、な、気をつけて。」

「蓮巳さんこそ!」

スキップでもするかのように軽やかな足取りで出口に向かう背中を見送る。

彼女と話しているうちに体調も多少良くなっていたらしい。まだやることは残っている、と蓮巳も足を進めた。



今日のライブも大盛況。先日出された課題の内容をうまく取り入れ、普段と切り口を変えてライブをした。

そういえばあのときの少女とはまだ会えていなかった、と蓮巳はライブ後で普段より気分が高揚している状態で考えた。

あのあと何度もあの図書館へ足を運んでいるのだが、一度も会うことはできていない。とはいえそこは家とは逆方向にあるので、そう頻繁に行くこともできないのだが。


紅月のパフォーマンス自体が終わったとはいえ、まだ最後にステージに立たなくてはいけないのだ。気を引き締めよう、そう思った蓮巳は、また顔を引き締めた。


勝敗を決しないライブ形式だったため、気分はそう重くはなかった。ただ最後に出演者全員でステージに立ち、ファンサービスとして握手をし、挨拶をするだけ。

紅月は普段ファンサービスをあまりしないのだが、今日は他ユニットとの兼ね合いで行うという方針になっている。いわば、握手会。今日の杞憂はそれだけだったのだ。

だが、再びステージに立ったとき、蓮巳は思いがけない人を見かけることになった。


客席の最前席の端に、蓮巳にとって見覚えのある少女か手を膝において座っている。パフォーマンスの最中はそっちに必死で気が付かなかったが、それは紛れもなくなまえだった。

動揺というほどでもないが、驚いたのは事実だ。偶然でない、と考えてしまうのは、蓮巳の勝手な思い込みだろうか。あの日は制服を着ていたし、身分くらいすぐにわかるだろう。


握手会が始まる。最前列の席から誘導されていく中に、やはりなまえはいた。人数の関係で1人につき一ユニットしか握手できないのだが、なまえは真っ先に紅月の列へとやってきた。

順に握手をしていき、最後に蓮巳の前になまえがやってくる。

「実は、前から紅月のファンだったんです。あの時は言い出せなくて、ごめんなさい。」

「謝る必要はない。まあ、少し驚いたが、ファンと言ってもらえて嬉しくないアイドルなどいないからな。
そうだ、結局あれから礼ができていなかったな。あとで楽屋に来るといい、警備には言っておく。」

なまえは目を細めて笑った。

「今日はすごく饒舌ですね。体調、回復したならよかったです。それで、その、本当にいいんですか?」

「構わん。握手会が終わってからになるが、いいか?」

「そのくらい、いくらでも待ちます。」

そこまで話したところで、時間が来てしまい一度離れる。その後の握手会で蓮巳は、顔を引き締めるのに必死で鬼龍に「すごい顔になってんぞ」と言われるほどだった。


そして今、蓮巳の目の前にはなまえと、彼女と親しげに話す鬼龍がいる。
最初は意味が分からなかったが、少し考えて、まさかと思った。その予感が外れればいいのにと、何度考えたことか。

「ああ、言ってなかったな。俺の彼女のなまえだ。蓮巳の旦那は知ってるみたいだけどよ。」

鬼龍の隣に立ち、ぺこりとこちらに一礼するなまえ。その他人行儀な様子を見て、蓮巳は背中に氷でも入れられたかのような感覚に陥った。

そして同時に、薄々察していた感情、戦友とも呼べる存在の恋人に抱いてはいけない感情が、明るみに出る。


俺は、なまえが好きなのだと。

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