2024/5/11
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首筋に手をかけ愛を囁く


月永レオにとって、音楽とは人生そのものだった。

すなわち、生命。作曲という行為は彼にとっての拍動であり、呼吸。
それならば、彼が記すあの楽譜は彼の声、とでもいうのだろうか。あるいは、生きた証。月永レオという天才の生涯を記した、手記。

自他共に認める天才であった彼は、誰よりも音楽を愛した。


「レオ」

彼の、ペンを握っている手を掴み、そのまま持ち上げる。流れるように書かれていた沢山の音符は止まり、残るのは必死で私の手から逃れようとする彼の抵抗のみ。

「離せよっ、なまえ!」

私の腕を振り切ろうと試みるもののそれは無駄に終わる。

しかし私が掴んでいるのは彼の片手だけで、それも私自身もが右手一本で彼の動きを制している状況となっていた。体格に恵まれていないとはいえ彼は男だし、振りきれないわけがないのだ。とすれば、彼が力を抜いている事は明白だった。


こうしている間にも珠玉の作品が、世界的損失、と呟く彼は普段通りの様子だ。
と言っても、この間彼が学校に戻ってきてからの彼の挙動に基づいて言うならば、だが。



昔のレオはこうではなかった。

少なくとも私が知り合ったばかりのころは。それがあの一件で学校へ来なくなり、随分と時が過ぎてようやく会うことが叶ったとき、愕然とした。

月永レオは、どこへ行ってしまったのか。

幸いと言っていいのか分からないが、彼の音楽だけは以前と全く変わりがなかった。溢れる才能とただただ音楽が好きという純粋な感情をこめた楽曲。私が彼の作る曲に魅了されたあのときと、何一つ変わっていなかった。

それが逆に、私にとっては残酷だった。

音楽の天才としての月永レオは死んでいない。では、彼自身は?


彼の言葉を借りるなら、天才である月永レオがいなくなってしまえば世界的損失だ。それが免れたというなら、客観的に見ればプラスのことだ。もちろん、私個人としても。
しかしその代わりに、私が愛していたレオ自身は、消えてしまった。


ならば、天才としての月永レオを殺してしまえば。その才能の対価に、かつての彼は帰ってきてくれるかもしれない。いつまでたっても今の彼を受け入れる事のできない私が、唯一考えついた方法。確証もなく、代償もとてつもなく大きいのに、私にはそれしか見えていなかったのだ。

彼を殺すのは簡単だ。その筆をとり上げ、紙を破り、必要とあらばその腕を折ってしまえばいい。呼吸ができなくなり、心肺の停止した人間が生命活動を終えるのと同じだ。そうしたら、私の愛した彼は帰って来てくれるだろう。


私が愛したのは、あのときの彼。彼が戻ってきてくれるのなら、ひとりの天才を葬れることができるほどには、強く愛していたのだ。そこに月永レオという天才が生きていなくとも、かつての彼をまた愛することができるのなら、それでいい。


しだいに彼の腕が青黒く変色してゆく。それ越しに見えたレオの顔は、天才なんかじゃない、ただの人間の顔だった。


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