「なんだこれ…」
研究室の前で足を止めると【忘れ物】と達筆な字で書かれた紙が貼り付けてある段ボールが置いてあった。
「東さんお疲れ様です」
昨日会った女性研究員がちょうど研究室から出てきた。
「ああ、お疲れ」
東は気になって仕方がない段ボールに視線を向けると女性研究員は淡々と説明してくれた。
「これはなまえさんへのプレゼントや恋文が入っている段ボールです。東さんと別れたという噂が流れ始めてから毎日いつのまにかなまえさんのデスクに置かれているので困ったなまえさんを見かねて私が作成しました」
「別れてないよ。俺達」
呆気にとられつつそれだけは否定した。
「そうなのですか。それはそうとなまえさんは今日お休みです」
「休み?」
「体調不良です。まあ原因は東さんでしょうけど」
バッサリそう言うと女性研究員は去っていった。
「厳しいなー」
ぐさりと来たが女性研究員の言うとおりに違いないので返す言葉がなかった。早く誤解を解かなければいけないのにもうずっとなまえに会えずにいた。原因は全部自分だ。
◆
なまえの22回目の誕生日の前日外出先で用事を済ませ帰ろうとしたら携帯が鳴った。画面を確認し電話に出た。
「国近かどうした?」
『東さんお疲れ様です。急ですけど明日って空いてます?みんなでごはんしようってことになりまして』
明日と言われてなまえの顔が浮かんだ。
「悪い。明日は大事な予定がある」
『そうですか。分かりました』
ではまたと言って通話が終了した。直接会って誘いたかったけど急いだ方がよさそうだと思いなまえに電話しようとしたその時。
「東君…?」
振り返ると昔隣に住んでいた幼馴染がいた。
「お前どうしてここに…」
両親の反対を押し切って結婚すると言って何年も前に三門市を出て行った。
「東君会いたかった!」
「戻って来てたのか」
「そうよ旦那とは別れたの。だから行くところがないの…お願い東君…しばらく泊めて欲しいの」
「悪いけど家に入れるわけにはいかない」
「どうして…?東君、結婚したの?」
「してないけど大切な人がいる。お前たしか家族はまだ三門市に住んでいるはずだろ」
「帰れるわけないじゃない!勘当同然で飛び出したんだから」
俺の服を掴んで縋るような目で見てきた。
「だからお願い東君…」
「駄目だ。話なら聞くから」
人目に付くのでとりあえず適当な店に連れていった。俺の幼馴染は両親が年を取ってから生まれた子なのでとても大切に育てられた。周りの人間もかわいらしく少し我儘なこの子をつい甘やかしてしまっていた。俺もその一人だ。そのせいか昔から誰かに頼らないと生きていけないような人間になってしまった。
結局その日はなまえに連絡できないまま話に付き合うことになってしまった。
ホテルに泊まるというので送ってから自宅につくと携帯がないことに気がついた。席を外している間にとられたのだろう。
昔から相手を困らせて気を引こうとするところがあったことを思い出した。すぐに取り返しに行きたかったが相手の術中に嵌っているような気がして明日の朝向かうことにした。
翌朝ホテルに向かうとロビーのイスに幼馴染は座っていた。
「携帯返してくれないか」
「なんのこと」
「誤魔化すな。分かってるんだから」
「さっきからうるさいから電源落としちゃった」
手を伸ばして取り返そうとしたがさっと背中に隠してしまった。
「ねえ彼女ってどんな子なの」
「お前には関係ない」
「教えてくれないと返さないから」
呆れてため息が出た。
「東君冷たい…昔はもっと優しかったのに…その女と会って変わっちゃったの?」
「いい加減にしないと怒るぞ」
「東君は怒らないよ私には」
そう言って口元に笑みを浮かべた。確かに俺は怒れない。こんな風にしてしまったのは俺達周りの人間のせいだ。その責任を感じて厳しくあたれなかった。
「分かった。もういい」
背を向けて立ち去ろうとすると背中に抱きついてきた。
「行かないでお願い…!」
「いい加減にしてくれ」
振り返りながら肩を押すと素直に離れた。
「なあ本当に別れたのか」
動揺したように肩が跳ね咄嗟に左手の薬指に触れた。そこにはまだ指輪があった。
「やっぱりな…。どうして戻ってきた。家はどうした」
「だってあの人浮気してたのよ!許せなくて…だから私も…」
「そんなことだと思った。俺、本当に行かないといけないから」
背を向けると今度は追って来なかった。
しばらくは大学へ顔を出さなくてはいけない。なまえに会うことすらままならずらしくない苛立ちが募った。
翌日大学へ行くための準備をしながら普段は執着することなどないのにやはり携帯がないと不便だと思った。
新しく買うか…。
そんな事を考えていたらインターフォンが鳴った。ドアを開けると幼馴染が立っていた。
「お前どうしてここが…」
「昔の知り合いから聞いたの。昨日はごめんなさい。これ返すわ」
携帯が差し出されたので受けとりポケットにしまった。
「いい加減帰った方がいい。心配してるだろ」
「心配なんてしてないわ。きっと私がいなくて清々してる。あの人出張って言って浮気相手と会ってたのよ。騙されてた…。家でずっと帰りを待っていた自分がバカみたい。それで喧嘩になって飛び出してきたの」
そう言うとまた抱きついてきた。
「離れてくれ…」
「いやっ!一人は嫌なの…ねえお願いそばにいてよ!」
困惑しているとバサリと何かが落ちる音がしてそちらへ視線を向けた。そこには茫然と立ち尽くすなまえいた。頭が真っ白になったがすぐ我に返り幼馴染を引き離そうとしたが逆に腕の力が強くなった。なまえは踵を返して走り出してしまった。
「なまえ!」
追いかけようとしたが腕を離してくれず上手く動けなかった。なまえはそのまま行ってしまった。身体を強引に引き離してため息をついた。
絶対勘違いされた。
いや、勘違いされてもおかしくない。今まで連絡も取れなかったからきっと心配して来てくれたんだ。それなのに知らない女と抱き合っていたのだから。
終わったか俺…。いや、終わらせて堪るか。
なまえが落とした袋を拾った。中には食材が入っていた。それをぼんやり眺めた。
「悪かった」
「え?」
「何も知らないで帰った方がいいなんて無責任なこと言って。でも実家のご両親は心配されているのは本当だ。この間偶然会った。どうしてるか知らないか聞かれた。もちろん知らなかったから何も答えられなかったけど酷く心配されていた」
「家を出て何年も経つのにまだ心配してくれてたなんて…」
「お前には大切にしてくれる家族も帰る場所もある。でもあの子にはそれがないんだ…」
「ごめんなさい…浮気されてこんなに傷ついて苦しかったのに東君の彼女に同じことして…最低…どうかしてた。私どうしたら…」
「あの子のことは俺に任せてくれたらいいから」
「私、実家に帰る…両親に今までのこと謝って旦那ともちゃんと話し合いする。たくさん迷惑かけてごめんなさい」
何度も頭を下げてようやく帰って行った。部屋に戻りなまえに連絡したが一度も繋がらなかった。
◆
その時のことを思い出してため息をついた。すぐに追いかけて探せばよかったのにあの時の俺は何をしていたんだ。後悔ばかりが募った。大学なんて放り出して会いに行けばよかった。そんなことしたら逆になまえに怒られてしまうか。そんな事を考え苦笑した。
そしてようやく本部へ行ける時間ができたのになまえには会えなかった。
避けられてるなこれは…。
おまけに別れたなんて噂が立ちなまえに好意を寄せていた連中が積極的になり始めた。何もかもが絶望的な方向にしか向かっていない気がして頭を抱えたくなった。そして止めに今日のこれだ。
「休み?」
「体調不良です。まあ原因は東さんでしょうけど」
嫌な汗が背中を伝った。俺のせいで体に不調まできたしているなんて。
1日どう過ごしたか覚えていないほどフラフラになりながら帰宅した。一生分の疲れが今日来たみたいな重い身体でソファに倒れ込んだ。
癖でテレビをつけるとドラマがやっていた。内容なんて一切入って来ないのになんとなく眺めていると知らない女優の顔がアップになった。大きな瞳がなまえに似ているなとぼんやり思った。あー会いたい。
『ねえ私達って本当に付き合っているの?』
『何を言っているんだそうに決まっているだろう』
テレビの中の二人のやり取りに思わず見入ってしまった。
『信じられないわ!だってあなた私に付き合おうとか好きとか言ってくれたこと一度もないじゃない!』
血の気が一気に引いた。さっきまでの重い身体が嘘のようにサッと立ち上がった。こんなところでダラダラと知らない二人の恋愛事情なんて見ている場合じゃない。
いや、あれは俺達なのかもしれない。
気がつけば家を飛び出していた。