ひたすら走った。どこへ向かっているのかなんて自分でも分からない。振り向くと何かが追って来る気配がしてその何かから逃げるように必死に走った。


『助けて…!誰か助けて!!』


ガバッと顔を上げると見慣れた自分の部屋だった。

またおかしな夢を見てしまった。これで何度目だろう。

まだ頭がぼんやりする。机に突っ伏して寝ていたらしく体が痛む。頭を押さえながら体を起こすと勉強をしていたことを思い出して憂鬱になった。水でも飲んで気分をすっきりさせようと部屋を出てキッチンへ向かった。


「なまえさん」


その少し掠れた声に名を呼ばれるとびくりと体が勝手に跳ねる。振り向くと射るような冷たい目がそこにあって思わず視線を逸らしてしまう。


「何かご用ですか。おばあさま」


この人は私のことをなまえさんと呼び私はこの人をおばあさまと呼ぶ。これだけで普通の祖母・孫の関係ではないと分かるだろう。

私の生まれた家は所謂名家で両親を幼い頃に亡くした私はずっと祖母に厳しく育てられてきた。子供が私しかいないので必然的に跡は私が継ぐことになっている。けれど私は…。


「何かではありません。お花のお稽古の時間ですよ」


「はい…」


頷くとおばあさまは冷たい声で言った。


「あなたはこの家を継ぐ大事な跡取りなのですからしっかりして頂戴」


おばあさまはこの世でもっとも大切なものはこの家だけだと本気で思っている。そして小さい頃から私にそう言い聞かせてきた。

有名な学校に通いたくさんの習い事をさせられ作法を叩きこまれた。そしていつかおばあさまが決めた人と結婚をしてこの家を継ぐのだ。

それが普通だと思っていた。けれど同い年くらいの女の子たちを見て自分は普通じゃないことを知ってしまった。彼女たちはおしゃれをして友達とおしゃべりやショッピングをし毎日とても楽しそうに過ごしていた。

心の底から笑っていた。私が最後に笑ったのはいつだっただろう。それすら頭に浮かんできてくれなかった。生きるのがとても窮屈に感じてしまった。こんな生活もう限界だ。


変わりたい。いつもそう思っていた。だからといって今までの日常が突然変わることなんてない。




いつも通り学校を終え足取り重く帰り道を歩いているとビルの大画面テレビにボーダーの隊員だという人のインタビューが流れていた。

始めはなんとなく眺めていたテレビに映るその人がとてもきらきらと輝いて見えた。気がつけば食い入るように見てしまっていた。ボーダーという組織に今まで感じたことのない不思議な気持ちがふつふつと湧き上がってきた。


ここに行きたい。ただそれだけを強く思った。


おばあさまに内緒で私はボーダーの試験を受けた。そして合格した。正直受かるとは思っていなかったので自分でも驚いてしまった。特別運動ができるわけではないし勉強も得意とは言えなかった。

でも合格の知らせを貰った。私は文字通り飛び跳ねて喜んだ。こんなに嬉しかったのは生まれて初めてだった。

そして訓練が始まり自分のあまりの戦闘センスのなさに絶望することとなった。どのポジションに挑戦してもまるで役に立たなかった。



ある日の狙撃の訓練後止まっているトリオン兵にすらまともに当てられず落ち込みまくっている私に追い打ちをかけるような出来事が起こった。

自販機で飲み物でも買って気分を落ち着かせようと思ったところに二人組の話し声が聞こえてきた。


「あのみょうじってやついるじゃん」


自分の名前が聞こえ自販機の影に身を隠した。


「あーあの何もできない人?」

「なんでボーダーの試験に受かったんだろな」

「確かに。コネとかじゃない?」

「コネでも役に立てばまだいいのに何もできないじゃん」

「確かに。何しに来たんだろ」

「ここは遊び場じゃないのに真剣にやってる人に失礼だよな」


クスクス笑う声に悔しさと悲しさそして恥ずかしさで胸が締め付けられた。

あの人たちの言うとおりだ私は何もできない。どうして私はここにいられるのだろう。俯いて自分のつま先を見ていると視界が歪んできた。泣いてはダメだ。泣いたって何も変わらない。


『泣くのはあなたの心が弱いからよ』


おばあさまの言葉を思い出して呼吸が苦しくなってくる。私はたまにこんな風に息ができないくらい苦しくなる時がある。

それはたいてい家のこと、おばあさま絡みのことだ。そんな時はただ治まるのを待つことしかできない。服の胸のあたりを握りなんとか堪えようとした時、突然頭上から声が聞こえてきた。


「みょうじ?」


ハッと顔を上げると背が高くて髪の長い人が私を覗き込んでいた。


「大丈夫か?」

「東…さん?」


訓練生に狙撃を指導してくれた人だ。


「顔色悪いぞ、気分でも悪いのか?」


東さんは私の頭にぽんと大きな手をのせた。何故か払いのけようとは少しも思わなかった。それどころかさっきまで苦しかった呼吸が何事もなかったかのように元に戻っていた。私が何も言わずぼんやり見つめていると東さんは首を傾げた。


「どうした」


どうしたのだろう。


「何かあったのか」


何か…いろいろあった。


真っ先に浮かんだのはおばあさまのことだ。黙ってボーダーに入隊してしまった。知られたらきっと怒られるだけではすまないだろう。そしてこの有様…。


私は何がしたいのだろう。頭が上手く回らない思考がまとまらない。


「助けて…」


勝手に口から出た言葉に我に返った。


今、私なんて言った…。


目の前の東さんは驚いた顔をしていた。


「みょうじ…?」


頭にあった手が伸びてきて逃げるようにその場をあとにした。


どこに向かって走っているのかも分からず何個目かの角を曲がった時ついに息切れになり足を止めた。振り返ったが誰もおらず少し安心した。


私、何を言ってるのだろう。


息を整えるように大きく深呼吸をした。


「おお!みょうじこんな所におったのか」


大きな声に驚いて一歩後ずさるといつの間に現れたのか目の前にふくよかな体格をしたお偉いさんらしき人が立っていた。


「え?あ、あの…」

「わしは開発室室長の鬼怒田だ」

「え?たぬき?」

「き・ぬ・た だ!」


馬鹿者!と頭にチョップを食らった。さっきなでなでしてもらって癒されたのに何をするんだと思ったけど全然痛くなかったのでまあいっか。


「それで開発室室長の鬼怒田さんが私に何のご用でしょうか」

「お前を探しておったのだ」


そう言うと私の前に一枚の紙を突き出した。


「これは入隊試験の…」

「そうだ、ここを見ろ」


指差した所を見ると私が解いた問題があった。大きく丸がしてあって爽快だ。


「これが何か…?」

「これは開発室のエンジニアがわざと解けないであろう問題を入れたのだ」

「え?」

「この問題はかなり高度な技術を持ったものしか解けないような問題だ。それを今回の入隊試験ただ一人、みょうじだけが解いた」

「それって」

「つまりみょうじ、お前はエンジニア向きだ!いや、エンジニアにしか向いておらん!」


何故か鬼怒田室長が踏ん反り返っている。


「わ、私がエンジニア!?」

「なんだ自覚がないのか」

「ありません!まったく」

「なら何故解けた」

「何故と言われましても…その図を見たら頭に勝手に解き方が浮かんできて…」


上手く言葉にできずにうんうん唸っていると鬼怒田室長は素晴らしい才能だなと言って豪快に笑った。


「よし!それじゃ早速、研究室に来い!みんなお前を待っておるぞ。凄い奴が来たとな」


鬼怒田室長は嬉しそうにニヤリと笑うと先を歩き出した。先程までの重い気持ちが嘘のように晴れやかな気持ちでいっぱいになり鬼怒田室長の後ろを追いかけた。


「みょうじなまえ。16歳です。よ、宜しくお願い致します!」


研究室に着いて名前を名乗るとおお!女子だ!JKだ!と様々な反応が返ってきた。




あれから数日が過ぎ自分はエンジニア向きだと知って研究室で働くようになってから毎日がとても楽しかった。


「なまえか?」

「あ、蒼也くん!」


幼馴染の蒼也くんと久しぶりに再会した。


「まさかこんな所で会うとはな」


蒼也くんは珍しく驚いた顔をしている。


「うん…」

「あのばあさんが許してくれたのか」


首を横に振った。蒼也くんは幼馴染なので私の家の事情も知っている。


「やっぱりな、あのばあさんが認めるはずないか」

「蒼也くんおばあさま苦手だもんね」

「苦手じゃない。嫌いなんだ」


不機嫌そうな蒼也くんに苦笑いした。




そして数ヶ月が過ぎた頃。おばあさまに見つからないようにこっそりボーダー基地へ向かおうと足を忍ばせていた。この時間は家にいないはず。そう思っていたのに。


「なまえさん」


その声に背筋が凍った。振り返ると左頬に鈍い痛みが走った。突然のことに対処できずその場に倒れてしまった。駆けつけてくれた使用人さんの悲鳴で我に返り頬を叩かれたのだと分かった。そしてついにこの時が来てしまったと思った。


「あなた、わたくしの目を盗んでボーダーとかいう所に行っているそうですね」


おばあさまはいつもよりさらに冷めた目で私を見下ろした。


「今すぐ辞めてきなさい。分かりましたね」


そう告げるともう私に興味などないという風に背を向けて行ってしまった。


興味がないのならいっそ放っておいてくれたらいいのに。


歯を食いしばってその言葉を飲み込んだ。


また息が苦しい。



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