荀攸様と婚姻を結んでひと月ほど経つけれど荀攸様はほとんど家にいない。お忙しいことは分かっているけれどこれでは顔も忘れてしまいそうだ。
元々家同士が親しかった為、母が懐妊したとき生まれてくる子が女の子なら荀攸様に嫁がせようということになっていたそうだ。そして生まれたのが私だ。私は生まれる前から荀攸様と夫婦になることが決められていたのだ。
このような言い方だと運命じみていて素敵だが実際は生まれた時からすでに生き方を決められていた。私には自由がなかった。
今だってそう。ずっと屋敷に引きこもる生活を強いられている。街へ出ようとすると侍女に止められてしまう。外に出さないようにとの荀攸様からの言いつけだそうだ。息が詰まって仕方がない。屋敷に縛り付けるなら帰ってきてそのお姿を見せて欲しい。
「退屈だわ」
「でしたら私と街に出ませんか」
独り言に返事があり驚いて振り返るとそこには荀イク様がいた。
「荀イク様!」
「なまえ殿お久しぶりです」
いらしていることなど全く気がつかなかった。情けない独り言を聞かれてしまった。
「荀イク様どうされたのです」
「公達殿に頼まれまして、今日は帰れないので様子を見てきてほしいと」
「そうでしたが…」
今日は帰れない?もうしばらく顔を合わせていませんが。
「丁度街に出る用事がありましてなまえ殿もいかがですか」
「ぜひご一緒させてください!」
久しぶりに外へ出られたことが嬉しくて私は浮かれてしまっていた。この後に絶望が待ち受けているとも知らずに。
荀イク様の用事が終わりしばらく街を散策していると前方に男女の二人組がいた。女性は遠目から見てもわかるほど美しい方で綺麗な微笑みを浮かべている。男性はどう見ても荀攸様だ。お姿を見たのはいつぶりだろうか。
ああ、やはり言いつけを守っておくべきだったのかもしれない。久しぶりに見た夫は知らない美しい女性と話していた。こんな残酷なことあるだろうか。すぐに二人に背を向けた。
「荀イク様すみません私、帰りたいです」
「………」
「荀イク様?」
「ええ、そうですね。帰りましょう」
荀イク様は二人がいる方向を見つめたまま顎に手を添え何か思案された様子だったけれど私には分からなかった。
屋敷まで送っていただき予定があるからとお戻りになられる荀イク様を見送った。
夕食も喉を通らず日が落ちるとすぐに寝室へ向かった。当然眠ることなどできずに天井をぼんやり眺めていると入口の方で物音がした。部屋が暗くはっきりとは分からないが明らかに侍女のものとは違う人影があった。
「誰かいるのですか」
寝室から出て思い切って声を掛けると相手のほうが私より驚いた様子でびくりと身体が跳ねていた。
「俺ですなまえ殿」
「そのお声、荀攸様!」
雲がかかっていた月が丁度姿を現し人影をはっきりと映し出した。そこにはやはり荀攸様がいた。
「どうして帰らないはずじゃ」
「文若殿からあなたが元気がなかったと窺ったので気になって仕事を抜け出してきました」
「どうしてそこまで…」
「あなたが心配だからです」
心配?私のことが?そんな眉ひとつ動かさないで言われても真実なのか分からない。けれど私はそんな荀攸様もお慕いしていたのに。
昼間見た光景を思い出して胸が張り裂けそうに苦しい。分からない。全然帰ってこないで放ったらかしにしていたかと思えば心配だと言って突然帰ってきたり。
「分からない…」
「なまえ殿?」
「分からない!私はあなたが何を考えているか分かりません!」
涙が零れそうになり顔を覆って俯いた。荀攸様は沈黙の後ぽつりと呟いた。
「やはり俺のような者より文若殿のような人がいいのですね。あなたは昔から文若殿といる時は楽しそうでした」
その言葉があまりに悲しくて声を荒げてしまった。
「荀攸様だって私のような物わかりの悪くて愛想のない女より美しくて賢い女性がいいのでしょう!」
荀攸様は珍しく驚いた顔をしている。
「見てしまったのです。荀攸様が見知らぬ美しい女性と親しげにしているところを。帰ってきてくださらないと思っていたらそんなことになっていたなんて。こんなのあんまりです」
泣き顔を見られたくなくて荀攸様に背を向けた。
「すみません…もう休みます」
寝室に戻ると床に座り込んで寝台の淵に顔を埋めた。なんてこと言ってしまったのだろう。もう取り返しがつかない。きっと本当に嫌われてしまった。どうしよう。どうしよう。
涙が止まらなくて頭の中もぐちゃぐちゃで只々どうしようと思っていると突然背中に温かい感覚がしてお腹にぐるりと何かが巻き付いた。それは荀攸様の腕だった。
「荀攸様…んっ」
驚いて振り返ると後ろから抱きしめられたまま唇を塞がれた。長い口付けが苦しくなって巻き付いている腕を叩くと唇が離れたけれど身体を抱きかかえられ寝台に下ろされ荀攸様が馬乗りになった。寝台が軋む音がして我に返った。
「荀攸様っ…」
「安心してください。襲いかかったりしませんから」
そう言っておきながら私に覆いかぶさり首元に顔を埋め背中に腕を回され苦しいくらい強く抱きしめられた。頬にあたる髪がくすぐったくて荀攸様の服を掴んで身じろいだ。
「すみません。もう少し…もう少しだけ」
荀攸様は切ない声でそう告げた。泣きそうになり荀攸様の背に腕を回した。
少しして身体が離れ荀攸様は私の隣に横になった。
「突然すみませんでした」
「いっいいえ…」
恥ずかしさで赤いであろう頬を荀攸様の手が優しく撫でてくれた。
「誤解されたくないので言います。あなたが見たという女性は飲み屋の従業員です」
「え?」
「以前、郭嘉殿と文若殿と行きました。偶然街で会い声を掛けられました。また店に来いというただの営業です」
「そうでしたか。そういう店には行ったのですね」
「誤解です。普通の飲み屋です。女性は郭嘉殿の趣味です」
あまりにまじめに返答してくださるので笑ってしまった。
「ごめんなさい、意地悪を言いました。先程はひどいことも…」
「気にしないでください。俺もつまらないことを言いました。俺は嫉妬深く、独占欲が強くて心配性のようです」
「そんなことありません」
「いえ、文若殿に嫉妬しました。それにあなたにもしものことがあったらと心配で街にも行かせませんでした。これからは自由にしていただいて結構です」
「いえ、すべて私のためにして下さったことですもの嬉しいです。それに出かけるなら荀攸様とがいいです」
「ありがとうございます。それにしても喧嘩なんて初めてしましたね」
「はい」
そうかあれは喧嘩だったのか。一緒にいれば衝突することだってある。なんだか新鮮な気分だ。
「あの、お仕事は大丈夫なんですか?」
「気付いていたのにわざと黙っていた文若殿に任せます。仕返しです」
「荀攸様ったら」
こんなに話す荀攸様は初めてで嬉しくて楽しい。
「起きているあなたを見るのは本当に久しぶりです」
「え?まさか…」
「はい。どんなに忙しくても毎日一目あなたを見ないと落ち着かなかったのでこっそり顔を見に帰っていました」
それはつまり寝顔を見られていたということだ。
「そんな、恥ずかしいです…起こしてくださればいいのに」
「あまりに愛らしかったのでとても起こせませんでした」
今日の荀攸様は本当におしゃべりだ。いつの間にか頬を撫でていた手は頭を撫でてくれていた。
「寂しかったですか」
「はい…」
「あと少しでこの忙しさも終わります。そうしたら毎日必ずあなたのもとへ帰ります。待っていてくれますか」
「はい。もちろんです。荀攸様お慕いしております」
「俺もなまえ殿を愛しています」
荀攸様の腕の中へ引き寄せられた。
「休みましょうか。たくさん話ができてよかったです」
「私もです」
「またこうして話をしましょう」
「はい」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい荀攸様」
腕の中で瞳を閉じると額に口付けをくださった。
私とても幸せです。