Another NO.6 | ナノ
光と闇

 私は工女の境遇がつまらないのであることは知つて居る。それにはなりたくないと思つて居る。郵便脚夫は資本のある人に虐待される女工などゝは違つて、お国の人が一緒になつて暮すのに是非廻さなければならない一つの器械を廻すやうなことをするものなのだ。
(『月夜』/与謝野晶子)




 声が聞こえた。
 瞬間的にこめかみを強く押さえるほど、高く貫く声だった。


 ――紫苑!


「……ぐっ……」
 呻く。ますます強くこめかみを抑える。
 今だけじゃない。過去にも何度も、そしていくつもの声を、『聞いた』。

 いやだ。
 助けて。
 なぜ。
 どうして。
 誰か。

 だが、それは高かった。ひときわ高く、そして鋭く自分の内部に突き刺さった。


 ――シオン!


「……くっ」 
 詰めていた息を大きく吐き出す。顔がゆがむ。
 ふと、気配を感じた。額から手を放す。
 明るくなった視界に、ゆらゆらと揺れる2つの人影。
 この距離になるまで気が付かなかったらしい。我ながらなかなかバカだ。敵なら死んでいた。
「……リコ、カラン」
 名を呼べば、人影は揺れ、近付いてきた。
 幼い姉弟は手を繋ぎ、こちらを見上げていた。白くまばゆい日光の中で、その手は目に焼き付くように黒く浮かび上がる。
 笑む。口元が緩んでいた。
 これほど醜い現実が傍らにある中で――しかし一方には、確かに強固な光がある。
「……イオリお兄ちゃん、どうしたの?頭いたいの?」
 リコが心配そうに、こちらをのぞき込む。その隣のカランが、こわばった表情でこちらを見ていた。
「いや……大丈夫。なんでもない」
「でも、顔が白いよ」
 リコの目の色が変わる。そのあどけない瞳に浮かぶ影。不安だ。
 紫苑が巻き替えたのだろう。その首元の包帯は、黄ばんでいながらも新しい物だった。
「無理しちゃだめだよ、イオリお兄ちゃん」
「無理なんてしてないさ」
 腰に縋るように抱き着いた、その幼い頭になだめるように手を置く。
 優しくはおろか、紫苑のように喉を詰まらせ死にかけたところを救ってやったわけでもない。だが、この2人はよく話しかけてくる。懐いている。
 気まぐれにふらりと立ち寄る、ネズミの家で時たま会うからか。ネズミの家に子どもがいる、その事実に始めはぎょっとしたが、なんでも、紫苑が読み聞かせをしているらしい。ネズミが「俺の家をなんだと思ってやがる」と半眼でぶつぶつ言っていた。
 あのネズミが顔を苦くしながらも甘受している。それが面白かった。可笑しく感じた。
「イオリお兄ちゃん」
 鼓膜を打つ声に、不安の響きのあるその声音に、はっとする。
「お兄ちゃんがそんな顔してるの、初めて見た」
「……そんなにひどい顔、だったかな」
「うん」
 カランの手が、ぎゅっとイオリの右手を握った。
「……今にも死にそうな、かお、してた」

 苦笑いに、口元がゆがむ。
 いまだ腰に貼りつくリコの頭を左手でくしゃくしゃとなでた。右手を痛いほど握る、カランの手は口元に運ぶ。
「大丈夫」
 そうだった。この2人もまた、つい最近この西ブロックで死の恐怖というものを身近に味わったのだった。
 あまりにも当たり前すぎる出来事に、もはや自分の感覚は麻痺している。だが彼らは、その恐怖をこの歳で味わったのだ。

「……俺はそう簡単には、死なないよ」

 だから安心して、お嬢さん。
 そう言って軽く手の甲に口付ける。ほんの戯れ程度だったが、カランは真っ赤になった。さっと手が引っこめられる。
 みるみるうちに耳まで赤く染まる少女に、思わず笑みが零れた。
「イオリお兄ちゃん!」
「なあに、リコ」
「そういうことしてると、またネズミお兄ちゃんに怒られちゃうよ!」
「え?なんて?」
「マショーのにんげん、て!」
 抑える前に吹き出した。
 空を仰ぎ、小さな身体を抱きしめたまま笑う。
 我ながら驚くほど、軽やかな笑い声が空に響いた。そう、驚きだった。自分の中にも、まだ心から笑うというこんな感覚が残っていた、なんて。
「……ぶふっ!」
「な、なに笑ってるのリコ……ふふっ」
「あははっ、カランお姉ちゃんも、笑ってるじゃん!」
 幼い、いくぶんか柔らかな笑声が、自分の笑う声に交じり響く。
 それは軽やかな明るさをもって、青空に吸い込まれるように広がっていった。

 ああ、と。
 イオリは頭上に広がる青に口角を釣り上げた。
 そう、こんなにも明るい光が、すぐ側にある。
 例えすぐ隣で、醜い人間の思惑が入り乱れていようとも。


 すぐ側で、1人の少女が捕らえられ、その悲鳴を夜闇に葬られたとしても。


|6/15|bkm

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