俺を庇って利き腕を怪我した名字と色々あって勉強することになった俺は、ただいま名字の家のリビングで自分を落ち着かせていた。

異性の家に遊びに行くなんてことは、小学校高学年になってから殆ど無かったから妙に緊張してんだ。
そんな気持ちを掻き消すかのように、麦茶をイッキ飲みした。

それにしても、名字いつもと雰囲気が随分と違ってたな。
ふわふわしてて、いい匂いで……って俺は何考えてんだよ。

怪我をさせたのに名字は俺のために勉強を教えてくれるってんだから、きちんと集中しねーとあいつに対して失礼だよな。

「桃城くん、準備出来たよ」
「おう」

兎にも角にも、俺は名字の教えたこと全部覚える為にぜってー集中する。

そう意思を固めた瞬間、思わず力が抜けてしまいそうな香りが鼻をくすぐった。

うわ、名字の部屋、めちゃくちゃいい香りがする。

「ちょっと散らかってるけど、どうぞ」
「いや、全然綺麗だと思うけどな」

妹の部屋とは全く違う、所々にドライフラワーやぬいぐるみが置いてあって全体的にピンクっぽい色調の部屋。

いつも埃っぽい野郎しかいない空間にいる俺にとっては、異空間のようだ。

敷かれていたクッションに座ると、ローテーブルの上に教科書がキチンと並べられていた。

「それじゃぁ、やろうか」
「よろしくおねしゃーす!」

緊張をどうにか解そうと、いつも通りのおちゃらけた俺になる。

名字は早速俺の苦手分野を説明し始め、俺もモードを切り替えた。
思った以上に分かりやすい説明と覚えやすい語呂で教えてくれるから、1人だけでする勉強よりもずっと集中できる。

思ったよりもハイペースでテスト範囲の苦手分野が克服出来て、気づけば数十ページ分の内容が終わったので、一旦キリのいいところで休憩することに。

「名字は家庭教師にでもなれるんじゃねぇ?スゲー分かりやすい」
「本当に?でも、桃城くんの集中力も凄いよ。流石テニスやってるだけある。それに地頭がいいよ」
「そうか?へへ、照れるな」

さっきまで石のようにガチガチだった姿勢も崩されて、そこそこリラックスモードになってきた。

腹も減っていたので、遠慮せずに茶菓子に持ってきてくれたクッキーを食べる。

「うめぇ!これ、名字が焼いたのか?」
「うん、喜んでもらえてよかった。集中した後だから、余計美味しく感じるのかもね」
「いや、それ差し引いても美味い」
「いっぱい頑張ったから、たくさん食べていいよ」
「よっしゃぁ!」

こんな美味い茶菓子が出てくるなら、毎週頑張れそうだぜ。なんてついでに言ってみれば、名字は“それなら毎週家に来る?”なんて冗談交じりに言い出すもんだから、クッキーが喉に詰まった。

「ごぼっ…ごほっ……」
「大丈夫?ほら紅茶」
「ん……はぁ、サンキュな名字」

勢いで飲み干してしまったけれど、紅茶も美味かった。

じゃなくて、そんな冗談言ったりするんだな名字は意外と大胆な女の子なのかもしれないな。

もしかして、他の男にもそんなことよりも言ってたりしてたんだろうか。

「桃城くんテニスの練習があるだろうから、継続的に勉強の日を決めるのは無理だと思うけど、何か分からないところがあればいつでも私に聞いて」
「なんか悪ぃな、俺が怪我させちまったのに勉強教えて貰って」
「だから、気にしないで。あれは事故なんだから」
「でも」

女の子の体に傷をつけた事実に変わりはなくて、それは重罪だ。
らしくない台詞を言おうと開いた口に、甘い味覚が広がる。

クッキーを口にぶち込まれた。

「しつこいよ。それに、もしも桃城くんがあの時怪我してたら、最悪テニスできなくなっちゃってたかもしれないじゃない?」

確かにその可能性は否めない。
大好きなテニスを、そんなことで終わらせたくはない。
それに、怪我でおさまってもブランクがあれば弱くなってしまう。それも嫌だ。

それでも、それに代わって名字の腕は……。

「あのね、私はテニスしてる桃城くんが好き」

真っ直ぐに目を見て話す姿に、俺は目を離せなくなっていた。

告白されているようだが、何となくそれとは違う雰囲気でときめいたりはしない。

それに、あまりにも澄んだその目がきっとその気持ちに純粋で嘘なんて絶対にないのだと、何故かそう確信できる。

「ついこの間見たの。テニスコートに居る桃城くんを。凄い気迫で一生懸命で、汗だくになりながらも少しだけ笑ってラリーしてるあの顔は、どうしても忘れられなかった。羨ましかったよ。あそこまで熱中出来るものが私にはなかったからね」

右腕を少しだけさすって柔らかく笑う彼女は、俺のことを宥めるように優しくか細いその手で俺の右腕に触れる。

「だからね、私で良かったって思ってる。桃城くんがあんなに楽しそうにしてる姿が見れなくなっちゃうなんて……」

痣はやはり腕だけではなくて、大きく手にまで広がっているのか、痛々しい紫色が見え隠れした。

俺よりも、こんな細い手で、本当に痛かっただろうな。ごめんな。

それでも、俺のことを庇ってよかっただなんて言ってくれる女の子は、もしかしたら

「寂しすぎるからね」

名字だけ、なのかもしれない。

そう思うと同時に、俺の中の胸の奥底の感情が、紅茶に入れたミルクのようにブワッと広がっては口から台詞として零れ出した。

「あのさ、名字。俺、練習も試合も、テニスめちゃくちゃ頑張る。お前をぜってー後悔させない」
「うん、桃城くんはそうじゃなくちゃね」
「だから、その、俺が頑張ってるかどうか、見張っててくんねーか……?」

まとまりのつかない俺なりの気持ちを、精一杯伝える。

今のこの気持ちは、何か全然分かんねーけど、とにかく名字は、俺の中で特別になったのは確かだ。

「うん、いいよ。ただし、サボったら承知しないからね」
「へへっ、んなことしねーって」

俺はもうひとつクッキーを口に運ぶと、ふと思いつたお願いごともしてみる。

「もし…嫌じゃなかったらさ、試合で勝ったら、菓子作って来てくれよ」
「いいけど、そんなに食べたかったらいつでも作るよ?」

すっかり無くなったクッキーが入っていた皿を嬉しそうに眺める名字は、ゆっくりと左手で紅茶を飲む。

「それじゃぁいけねぇな、いけねぇよ。名字の菓子は俺が頑張った時にこそ1番美味くなるんだから」
「そういうの嫌いじゃないよ」

最後のひとつを、俺の口元に持ってくる名字。
その匂いは、君と同じでやっぱり特別な感じがした。

「次は何が食べたい?」
「そうだな、次は……」

大きく口を開けて、勢い余って名字の指ごとクッキーを食べる。

ワニか、と笑う名字の味がほんのりした気がした。
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