イチサンナナ | ナノ

初めてのレース

『――なら、山はあいつが取るっショ』
「俺もそう思う。クライマーはそれなりにいるが見所ある奴はいても抜きん出ている奴はそういないからな」
『120キロってのも問題ない。あいつは4日で1000キロ走りきる女っショ』
「ほう4日で1000キロ……1000キロ!?それはほんとか巻ちゃん!」
『ショ。前も話しただろ?総北の1000キロ合宿。今年選手として参加したアイツは俺達と共にちゃんと走りきったよ』
「…何の心配もいらないではないか」
『クハッ、んなもん最初からっショ!自転車に関することであいつの心配事は特にねーよ。水分取るの忘れて登っちまうくらいだ。それよりも――』
「それよりも?」
『…学校生活の方が心配っショ』
「巻ちゃん?」
『…何でもねえよ。…なあ、東堂』
「どうした巻ちゃん」
『…唯のこと、頼んだぞ』



8月30日。
ついにこの日がやってきた。
昨日から私は千葉の実家を離れ、箱学学生寮に入った。
そんなに多くの荷物は持ってきていないが、1日で片付け終わる量でもない。
しかし基本的に1人部屋なので、いくら散らかろうが誰にも迷惑をかけないのが素晴らしいところだ。
そんな段ボールだらけの部屋で迎えた30日。
今日は箱学自転車競技部で初めての【レース】。
――絶対に負けられない一戦だ。

「尽八くん。ここのローラー使っても良い?」
「ああいいぞ!存分に使ってくれ!」

早目に部室に入ったつもりだが、そこは既にレース前独特の慌ただしさに包まれていた。
私にとって負けられないレースだが、他の部員にとっても大切なレースらしい。
なんでも、今日の走りを秋の新人戦のメンバー選考の参考にするそうだ。
3年生が抜けて初めての大きな公式大会。
ここにいる全員が空いた椅子を狙う猛者だ。
――本気と本気の戦い。
それが出来ると思うと、どんどん楽しくなってくる。
早く。早く早く。
そんなことを考えながら、私はアップのためにローラーを回す。

「へえ、中々綺麗なぺダリングだな」
「そう?ありがとう」

いつの間にか来ていたらしい隼人が、私達に近寄ってくる。

「コース説明はしたと思うけど、一応今日棄権している部員を要所要所に配置して道案内させるから」
「了解。ごめんねありがとう」
「いーや、おめさんこそ大変だろう。引っ越してきた翌日に120キロ…一人だけ土地勘ゼロだ」
「まあね。でも下見代わりに道の状況は教えてもらったし、心配いらないよ」

そうか、ならよかった。
そう隼人は微笑んで、また後でと背を向ける。

「俺達は後ろからワゴンで追いかける。基本的には、先頭集団についていく」
「分かった」
「では唯、頑張れよ!」

俺も準備してくるから――隼人に引き続き尽八くんの背中を見送る。
…スタートまであと30分。
私はすっと目を閉じて、意識を集中させる。
途端に、先程までの浮ついた高揚感が体に沈み込むように浸透していくのを感じる。
――周りの喧騒が遠のいていく。

うん。コンディションは最高だ。


〜・〜・〜


「――ではスタート!」

言葉と共に旗を降ろすと、先頭から徐々に自転車が動き出していく。
集団中ほどの位置からスタートした唯を確認して、俺は急いで福達が待つワゴンへと乗り込んだ。

「このコースは2車線の海沿いの国道に出てからが始まりだ」
「そこから河津の交差点を右折するまでの間は平坦…スプリンターの舞台だな」

ゆっくりと走り出すワゴンから集団の様子を伺う。

「クライマーにとっては我慢のしどころだな」
「お、先頭が国道に出たぞ」

ほどなくして、前方に見える先頭集団が国道へと入った。

「…スプリンター共が加速し始めてるな」
「ああ。恐らく誰か一人が飛び出せば、始まるだろう…スプリント対決が」
「あ、唯だ」

さて誰から仕掛けるか…そんなことを福と話していると、隼人が集団から上がってくる唯を見つけた。
その顔はどこか楽しそうに、そしてただ前だけを見ていた。

「…あいつ、真ん中にいたと思ったが、割と前まで上がって来てんなァ」
「クライマーにしては早いペースだな」
「なるほど、平坦が遅いからクライマーやってるという訳じゃないんだな」

この前のクライムでは気にしなかったが、確かに唯はクライマーの平均的な平坦での速度よりも速いペースで走っている。
…1000キロ走るくらいだ。
体力に自信はあるということだろう。

「先頭しかけた!」
「追うぞ」

国道に出て1キロほどのところで、先頭集団が動く。
一人が飛び出したのを機に、山までのスプリント勝負が始まる。

「…なるほど。泉田のヤツ、体作ってきてるだけあってそこそこ頑張ってんじゃナァイ」
「そうだな。まだまだ未熟だが、伸びしろはピカイチではないか?隼人、お前気にかけてただろ」
「ああ。ああ見えてあいつ、意外に良い体してたからな」

目の前で繰り広げられる戦いを見ながら、俺達は目についた走りを分析していく。
スプリント勝負で一際目を引いたのは、1年の泉田だ。
入部した頃は特に見所なく同級生の中でも下の方の実力で、本人もやめようかと悩んでいたようだ。
しかしたまたま隼人が泉田の武器を見出だし、スプリンターとしての道を示すと彼はそれに向かって夏の間努力し続けた。
その成果が出始めているらしい。
泉田は半年前では考えられない走りをしていた。
これからの成長が楽しみである。

「…ま、ここは概ね予想通りだろう」

最初のスプリントを制したのは、俺達と同期の奴だった。
こいつを含めて健闘した他の面々共々、当初から予想していたメンバー。
そして舞台は変わる。
同時に、俺のテンションも上がってくる。

「だな。ここからが今日1番の注目ポイントじゃないか、寿一」
「ああ」
「一つのループ橋を経て伊豆半島最大の屋根、天城原峠へと向かっている――山だ!」

直に後ろのスプリント争いに絡まなかった者たちが追いついてくるだろう。
今度は平坦区間で脚を貯めていたクライマー達の出番だ。
箱根学園は山の上に立っているような学校。
それ故か、部員のクライマー数は少なくない。
それなりの実力の者もいる。
まあ、勿論山神と呼ばれる俺が一番ではあるが。

「来た!」

脚を休めながら坂を上る先頭集団に併走していると、後ろから6台ほど自転車が上がってくる。
――クライマー第一陣といったところか。
その中には唯の姿もあった。

「唯含めて、予想通りだな。この6人の中から山岳が出るだろう」
「お手並み拝見と行こうじゃナァイ?」

クライマー集団が先行していたスプリント組を捉えて抜かしていく。
先頭集団の交代に、俺達が乗るワゴンも少しスピードを上げる。
唯は真ん中の位置をキープし、依然として前だけを見て走っている。
その表情にはまだまだ余裕があった。

「黒田はクライマー志望なのか」
「今のままならな。あいつは元々のポテンシャルは高いようだし、クライマーでなくてもそれなりにはなると思うのだが」

唯の前を走るのは1年の黒田。
入部当初から荒北と衝突を繰り返していたちょっとした問題児だが、今は真面目に練習に取り組み1年の中では頭角を現し始めている。
泉田の幼馴染らしく、その運動神経の良さから様々な部の助っ人をやってきていたらしい。

「靖友が面倒見てるんだろう?」
「見てねーヨ。ああいうクソエリートチャンは嫌いなんだよ、俺。…けどまァ、根性はあるみたいだからな。俺に頭下げにきたくらいだし」
「ワッハッハ!そのあと俺の所にも来てクライムの何たるかを聞きに来たがな!」

黒田は今走っている唯を除いた5人の中で、多分トップの実力だ。
唯の実力は未知数だが、競るならそれはきっと黒田とだ、というのが俺達の見解。

「あ、しかけた」

山に入って2キロほどの直線で、まず先頭を走っていた2年がしかけた。
ダンシングで加速し、後ろを引き離しにかかる。
それについていったのは、黒田だった。

「…2人が飛び出してあとの4人は動かず、か」
「どうする、福チャン」
「決まり通りだ。先頭を追いかける」
「待って、動いたよ」

福の言葉を受けてワゴンが加速する――瞬間、隼人が窓の外を指差した。
慌てて外を見ると、今まで一直線になって走っていた唯が横に外れ始めた。
そして。

(――来る!)

同じクライマーだからか、自分と似ているからなのか分からないが、直感的に理解した。
唯は何の前触れもなく一瞬で加速し、集団を置き去りにして上へ上へと登り始める。

「今の、は…」

初めて見たクライマーとしての唯に、俺を除いた車内は言葉を失った。

「ヒュウ、驚いたな。まるで尽八じゃないか」
「スリーピングクライムか…」
「ハッ、まさか東堂の女版がいるとはネェ」

驚きを隠せないらしい面々に、俺の口角は自然と上がる。

「確かに今唯が見せた加速は俺のソレだが、それは今みたいな場面で抜くときだけだ」
「アン?」
「どういうことだい?」
「俺は無駄な動きを一切なくしてスリーピングクライムを実現させている。コーナーワークやシフトチェンジ、全てにおいて無駄がない。こんなことが出来るのは天に三物を与えられた俺だけだな!」
「っゼ!」
「ウザくはないな!」
「尽八、続き」
「――今の唯を見ろ」

俺達を乗せたワゴンは、飛び出した先頭を追いかける唯に併走して走っていた。
斜め前を走る唯はダンシングで坂を駆け登って行く。

「…普通のダンシングだな」
「そうだ。唯にはスリーピングクライムを持続させる技術は無い」
「ンじゃあ、普通のクライマーにちょっと毛が生えたくらいじゃねえか」
「荒北は判断が早計すぎるぞ!ここからが唯の本当の走りだ」
「まだ何かあるのか」
「お、前の方に黒田たちが見えるね」

――隼人の言葉とワゴンが唯の真横に並んだのは同時だった。
唯は変わらず真っ直ぐ前だけを見て――笑っていた。
決して楽ではない斜面を登ってきているのに、笑っていた。
そしてギアを落とし…加速する!

「オ、オイ、今あいつギア落とさなかったか?」
「笑ってもいたな」
「尽八、彼女は…」

本日2回目のざわめきに、俺は笑った。
こいつらの言いたい事はよく分かる。
俺もあの日、全く同じことを思ったのだから。

「唯は山が好きだからな――巻ちゃん曰く【笑って登れる馬鹿】であり【テンション上がりすぎてギアを上げてしまう大馬鹿】らしいぞ」

俺の言葉に、荒北達は静まり返った。
その間にもワゴンと唯はペースを上げ、ついに黒田達を捉える。
自分を追いかけてくるプレッシャーに気付いたのだろう、黒田は苦しそうに顔を歪めながら後ろを振り向く。
既に黒田に引き離され始めている2年の隣に、唯はいた。
黒田は慌てたようにペダルを回し加速する。
この場面でまだ加速をして見せた黒田に感心したのも束の間、すぐさま唯も黒田のあとを追う。
――今まで黒田と競っていた2年は完全にちぎられた。
当初の予想通り、黒田と唯の山岳争いになる。

「…この斜度でギアを上げる大馬鹿として、途中でガス欠になったらどうすんだヨ」
「勿論その心配はあるが、唯はああ見えて総北合宿名物の4日で1000キロ走破をやり遂げた女らしいぞ」
「1000キロォ!?」
「…4日で、か」
「ヒュウ!そしてあの脚か。納得だね」
「…女だと思うのも馬鹿らしくなってきたぜ」

残りは800メートル。
俺たちは女子とは思えない雄々しい走りをする背中と期待の後輩の背中を固唾を飲んで見守った。



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