短編 | ナノ


その丸まった背筋がピンと真っ直ぐになる日が来ようとは、俺自身、データにないことだった。
焼き付ける太陽の下は仁王にとって最も苦手とする季節であり、状況であり、環境である。俺は中学から奴を知っているが、高校生となった今もそれは変わりないことだった。

仁王雅治、その名を口にした者は既に奴のペテンに掛けられていると言っても過言ではない。存在自体がひどく曖昧で、そして有耶無耶な男。立海で最も恐れられている人物。精市はその圧倒的かつ繊細なテニスで、周囲から敬意と尊敬により高嶺に上げられているが、仁王はまったく別だ。

奴のテニスは、過ぎ去った頃に恐怖を味わう。差し伸べられる手も、逃げ道さえ、すべてが奴のペテンにより歪み、変えられていく。追い詰められた敵はその絶対的窮地に己から試合を放棄する。

それが何故、あの掴めない仁王が何故。

いつもなら参加したがらない朝練に現れた仁王に柳生が感嘆の詩を述べたのは正しい判断だ。奴は極度の低血圧で、朝早くに起きるのは困難、いや、一日の体調を左右する。あの弦一郎でさえ目を瞑ろうとするほどのことである。

それが、何故。

夏休み一日目、昼休憩の時だ。どこか落ち着きのない仁王がそわそわと辺りを見回していると、一匹の真っ白い猫が立海の狭い柵を潜り抜けてやってきた。その猫を見つけるや否や、仁王は立ち上がり抱き上げた。

「仁王、その猫どうしたんだよぃ」
「入ってきた。逃がしてくるけえ先に食べとって」

そう言って立ち上がった仁王に、俺は直感的に何かを感じた。精市や弦一郎、他のメンバーは気にも留めないだろう。俺も、そのつもりだった。いつもと様子の違う仁王が、ただ偶然入り込んできた猫に構うようにこの場から去ることを。

仁王が小さく、その猫に「おかえり、名前ちゃん」と囁く声が聞こえなければ。俺が求める答えは此処にあると思いもしなかっただろう。

「名前ちゃん」

白い猫はそう呼ばれ、くるりと身を翻して地面に座り込む。小さく一声鳴き返した猫が少し背伸びをした瞬間、それは人の形へと伸び、そして形を成した。
真夏らしい真っ白のワンピースに、黒髪、真っ白い肌に真ん丸で澄んだ瞳。

猫が、人に。

「おかえり、名前ちゃん」

仁王が笑う。あの笑顔を俺は知らない。俺たちは知らない。立海の生徒は知らない、仁王がふざけて付き合っているお遊びの女たちも、きっと知らないだろう。もしかしたら、この笑顔を知っているのは、その笑顔を向けている猫だった少女だけなのかもしれないと、柄にもなく論理も確率も証明もなく、ただ漠然と思った。

「ただいま、雅治」

彼女が笑うと、まるで本当に小さな花弁の花が綻んだように当たりが明るくなる。ふと、地面に無造作に咲いていたシロツメクサがまだ蕾だったそれを緩やかに咲かせていく。その花だけではない、彼女の立ち尽くす周囲の花たちがこぞって咲き誇るのだ。小さく、ゆっくりと。
まるで彼女の感情に呼応するように、ゆっくり、ゆっくりと。

「手紙、昨日届いた。梟じゃから夜やったん?俺、ずっと起きとった」
「イギリスからずっと飛んできてくれたんだもの。いつ着くかなんて考えたことがないなあ。でも夜更かしはよくないよ、雅治、朝が苦手なのに」
「名前ちゃんが帰ってくるって知ったら、朝すっきり目が覚めたんじゃ。もしかして、なんか魔法でもかけとったん?」
「よくわかったね、そうよ。お寝坊さんな雅治のためにカモミールの葉っぱでできたお手紙に、ちょっとした魔法をね」

クスクスと笑う少女に、仁王は同じように笑う。ひどく甘く、それでいて心地良い世界だと思った。ここは立海であって、決して自然あふれるヨーロッパの野原ではないというのに。そこを流れる風はひどく緩やかだった。

「いつまで、日本におるん?」
「夏休みが終わるまで。九月からまた新学期だから」
「そうか、なら俺、名前ちゃんの話が聞きたい。向こうの話、ずっと聞きたかった」
「私も、雅治の話聞きたいのに」

ようやく動き始めた俺の思考回路は、一つに絞られる。仁王にとって少女がどんな存在か、そんなことは容易に想像出来る。今日、何故仁王が機嫌がよかったのか、それも想像出来た。
俺が知りたいのは猫から人間に成り、そして周囲の花たちの成長さえも、時を、その空間を変えてしまった少女が一体何者なのかだ。

「名前ちゃんの話が優先じゃき。滅多に帰って来れんしの。ありふれた俺の話なんかより、よっぽど名前ちゃんの話の方が価値がある。少なくとも俺はそう思っとるぜよ」

仁王はまた、笑う。いつも周囲をペテンにかける目を目一杯細め、下げて。頬を緩めて笑う。

「そんなこと無いよ、私みたいな魔女なんてイギリスだけじゃなくて世界中にいる。マグルが気付かない場所にね。でも、確かに雅治の言うとおり、中々会えないからなあ。あ、今日雅治の家に行くよ。うちの家族で日本に帰ってきてるの私だけなの、だから暫く雅治の家にお世話になるんだけどおば様に別に手紙を送って……ま、雅治?どうしたの、うわっ」

「うちの家族なんも教えてくれんかったナリ!ああああ、嬉しすぎるじゃろ!明日から名前ちゃんがうちに居るとか!」
「私も嬉しいよ雅治」

まさか俺がファンタジーやおとぎ話の中の登場人物であろうそれを、彼女の言葉を信じるなら、どうやら魔女を、それも東洋の魔女を見つけてしまったらしい。

某魔法学校の世界。
20120129 前サイトより