短編 | ナノ
※逆トリ




「仁王くん」

思わず口から零れ落ちた名は的を得ていたのか、銀髪の彼は弾かれるように振り向いた。驚いた顔をしている。心底驚いているようだった。
なぜ俺の名前を知っていると言いたげな顔だった。知らないはずがない。私はあなたをずっと前から知っている。初めて知った日から随分と時間が経って、彼と同い年だった私はいつの間にか仁王くんよりも歳をとってしまっていた。

「なんで俺の名前知っとるんじゃ」
「なんでって、そりゃ」

君はこの世界では有名人だ。多分、そちらの世界よりよっぽど。

「もう何年も君のこと、応援してたからね」

いつの間にか成人してしまった私は、着慣れた制服を脱いで社会人という見えない服を着た。法律で守られていた時代は終わり、大人とは名ばかりの日々が続く。
スーツに身を包みデスクワークの日々。そして、見たくもない人間関係にどんどんと自分が消えてしまうような気がした。


そんな街のど真ん中で、君は突然現れてしまった。銀色の髪に特徴的な尻尾、切れ長の目、口元のほくろ。深緑のブレザーを着てこの大都会の真ん中で彼は戸惑っていた。そしてなにより彼が異質なものだというのはひと目でわかってしまった。


「どうなっとるんじゃ、ここ。立海もない、俺ん家も、テニス部も、みんな存在せん」
「……」
「俺も、存在せんのか?」


彼はこんなにも幼かっただろうか。いや私が歳をとっただけなのだ。彼はまだ中学生で、人より大人びているだけで。

「ううん。君の名前は仁王雅治。それは間違いないことだよ」


そう告げると、彼の蜂蜜色の瞳が揺れる。私はそんな彼の手を優しく握り締めた。








彼の名前は仁王雅治。私のよく知る人物だ。なんせ彼は薄っぺらい紙の中から現れてしまった人物だからだ。そしてあろう事か彼をよく知る私の目の前に仁王くんは現れた。
こちらに来て半日、思いつく限りの場所を走り回ってきたらしい。しかし何処へ向かっても言葉や乗り物お金や常識はすべて同じなのに、ここが彼の住んでいた世界ではないと悟ったようだった。

その証拠にいつも乗っていたはずの帰りの電車は彼の最寄り駅が記されていなかったらしい。仕方なく降り立った場所をうろついてみたが似ているようで全く違う。勿論、自分の家すら見つからなかったらしい。土地勘がある彼が地元で迷うはずがないのにだ。

携帯で親にかけてもテニス部にかけても『おかけになった電話番号は…』と返ってきて、ここが神奈川だとはわかるのに周りにいる人間すべてが自分を異物のように見つめてくると感じたらしい。


そんな中、仁王くんは私に出会った。驚いた顔で、目を見開いて立ち竦む一人の女性が視界に入ったらしい。そしてその女は一言呟いた。「仁王くん」と。まるですべてを知っている口ぶりだった。待ち焦がれていたかのように上擦っていた。

そこからは、冒頭に戻る。




「どこから話したらいいのかな。できたら仁王くんが混乱しない順番がいいんだけど…あ、私の名前は苗字名前だよ。適当に呼んでね」

目の前には熱々の蒸気が浮かぶティーカップをじっと見つめる仁王くんがいた。一人暮らしの私の家に連れてきてしまった。というより離れることを拒まれた。こんな得体の知れない世界で自分を知る人物を離したくなかったらしい。彼は無言で家までついてきた。そして私もそれを甘んじた。

「ここが俺が住んどった場所と違うのはわかる。いや、場所というより、」
「次元?」
「やっぱり、そうなんか」
「…うん。残念ながら」

目の前の仁王くんは目に見えて項垂れてしまった。「そんな嘘みたい話」と言いかけたが現実は変わらない。グッと言葉を飲み込んだ彼は私を見つめた。

「なんで俺を知っとるんじゃ」
「それは……私が君のファンだから?」
「ファン?」
「といっても正しくは君の登場する作品のファンかな」

そういうと仁王くんは瞬く間に怪訝な顔をした。けれど、このリアクションは予想済みである。

「馬鹿にしとるんか」
「ほら怒った。だから順番迷ってたのに」
「……すまん」

仁王くんは歳相応だった。そりゃ、彼は中学生で思春期で一般的に多感な時期だ。けれど、こんな風に素直に感情を表に出す彼を見れたことに少し嬉しく感じてしまった。

「君はね、この世界だと作品の中の人物なの。それにとても人気」
「……ほんに信じられん」
「だよねえ」

いきなり知らない世界に来て、貴方が漫画の中の登場人物だなんて言われて信じる方が難しい。
仕方ないので私の本棚から作品を取り出す。そして仁王くんの前に重ねた。

「読んでみて」
「……」
「これで信じてもらえるといいな」

そういって私は立ち上がる。すると仁王くんはビクリと跳ねた。蜂蜜色の瞳がぐらりと揺れる。縋るような目だ。
何だか胸の奥が擽られるような気持ちだ。思わず不安そうに見上げてくる少年の頭をポンポンと撫でる。

「大丈夫だよ、どこにも行かない。お腹空いたでしょ?」
「…空いた」
「夕飯作るから待ってて」

そういうと彼の緊張していた視線が少し緩む。そしてわたしがキッチンに引っ込むと、カサリと紙擦れの音がした。彼が冊子を手に取ったのがわかった。それと、息を呑む音と。

これからどうすればいいのだろう。わたしは未成年、恐らく戸籍も何も持たない少年を匿っている。それを考えれば私が連れ帰ったのは正解だったのかもしれない。あのまま補導されていたら彼にとっては好ましくない状態に陥っていただろう。それか、私と同じファンに出くわして…。

トリップものって最後どうなるんだっけ。大体みんな帰っていくものだと思ってるんだけど、私のこの心境も誰かが書き綴っているんだろうか。そんなことを考えながら、コンロに火をつける。


仁王くんがこの世界に来たのもなにか理由があるんではないだろうか。そして帰るのにもきっと理由がいる。

「あー服とか買い揃えなきゃな」

ありがちな展開。なんて一人呟きながら、カウンターの向こうに見える銀髪を眺めながら思った。


トリップしてきた仁王くんに出会う
2017.03.24