深い暗闇に私が全てを任せてから何時間が経ったのかは分からない。
目を開けると付けっぱなしだったTVからは浮かれたバライティ番組が流れていた。

時計を見る事も、カーテンを開けて外の明るさを確認する事も無く、私はゆっくりと冷蔵庫を開けてそこら辺のスーパーで買ったサンドウィッチを食べてから、ビニール袋に入れられた小ぶりの錠剤をいくつか水で飲みこんだ。

水は非常に冷たかった。


それからぼんやりと時計に目線をやり、バイトの時間まであと何時間あるのか確認してから私は再びベットへと身体を投げる。
力の入らない、無気力な身体を柔らかいマットレスに預けて真っ暗な部屋でただただ時間が過ぎるのを待っていた。

カチカチと鳴る時計の音も、馬鹿騒ぎをしているTVの中の人間の声も何だかとてつもなく遠くで鳴っている音のように感じて、私は今自分がどこの空間に存在しているのかすら分からなくなってきて、それが異様に怖かった。


遠くで聞こえる時計とTVの音、それらが頭の中で膨張していくように私の脳みそを圧迫し始め、それに耐えられなくなった私はベットから落ちるように身体を降ろす。


そしてテーブルの上に置かれた小さなビニール袋に手を伸ばし、少しだけ光沢を持ったオレンジのシートに詰め込まれた小さな白い錠剤を6粒程プチプチと取り出し口に含んだ。

そして冷蔵庫に向かい、冷やされた冷たい水を手に取り白い錠剤を一緒に飲み込む。


それからしばらくすると遠くの別の空間で聞こえていたような時計やTVの音が、いつも通り部屋に鳴り響き出し私は「はぁ」と小さく溜め息を吐いた。

時計を見ればもうバイトの時間は迫っていた。

洗面所で顔を洗い、部屋に置かれた姿見の前へペタンと座って化粧品に手を伸ばす。

外に出れば私は何てことない普通の人間でなければならない、そこらに居る通常の女でなければならない。

この顔色の悪さも、死んだように黒く濁る瞳も、全て隠さなければと私はゆっくりと化粧を済ませた。
部屋のクローゼットに押し込まれた衣類を引っ張り出し、それらを身体に貼り付けるように着ると昨日から中身を取り出してもいない鞄を持って玄関へと向かう。


そして肌寒い玄関でいつものように靴を履いた瞬間、何だか全てが馬鹿らしくなった。

化粧を施したこの顔も、とかした黒い髪も、身に着けているそれなりの値段のする布きれも、手に持ったデザイン性の高い鞄も、そして何よりこの空間に意味も無く存在する自分という物質も。

「馬鹿みたい」

私はそう呟くと手から鞄をスルリとその場に落としてゆっくりと玄関を出た。
もう辺りは既に陽が落ちようとしていたが、まだ完全に陽が落ちていない分、自分の部屋よりいくらか明るい。


私は力ない足取りでアパートの階段を下りると、隣のビルの扉を開けてエレベーターに乗った。

小さな会社がいくつか入ったそのビルは6階建てで、マンションのような作りになっている。
そのビルのエレベーターに乗って扉を閉めると、迷いなく最上階のボタンを押して私を乗せた小さな箱が目的地へ着くのをただただ待つ。

ふわりと私の身体を運ぶエレベーターの中にポーンと目的地へ到着したという事を知らせる音が響いたと同時に目の前の扉が開く。


扉が開いたそこには何てことないありふれた景色が広がっていて、そこで私は更に嗚呼なんて馬鹿馬鹿しいんだろうと思う。

この世界はありふれていて見慣れていて何の意味も無いもので溢れている。
そこに存在する私という物質も実に無意味で、もう何もかもが馬鹿馬鹿しく思えてしまっていた。


私はエレベーターを降りると、ゆっくりと、空色が溢れる階段の踊り場へと向かって、そっと手すりに触れて高い空を見上げてみる。
そこには陽が落ちそうになりつつもまだ青い空が広がっていた。

「青いなぁ」

青い空に白い雲、ありきたりで見慣れたその馬鹿馬鹿しいものを見ながら私はそう呟いた。
そう呟く自分の声すら、ありきたりで聞き慣れた馬鹿馬鹿しい音だった。


私はあまり何も考えないまま、触れていた手すりに足を掛け、ゆっくりとその手すりに不安定な両足を乗せて、揺れる空を見ながら立つ。

すると少しだけ空が近くなったように感じて、もう一度空を見上げると、相変わらず何も変わらない青々とした詰まらない光景が私の眼球に反射したのだった。


そして私は足を上げて、まるで地面を歩くかのように宙を踏んでみせた。



その踏み出した小さな一歩が、私の全てを大きく変えて落ちていく。


空気が、冷たい。
笑える程に、冷たい。
落下していく身体を包む空気が、面白いくらいに冷たい。

急激に堕ちていく身体が寒さと柔らかい空気に包まれて痺れる。


仕事終わりに彼と一緒に歩く朝方も、薬を流し込む水も、こんな冷たさだったな…なんて思って彼の顔を思い浮かべて落下途中に私は小さく笑った。

私が死んだら貴方は泣いてくれるかな、なんて可愛い事考える暇なんて無いくらい、空気は冷たくて、遠くなっていく空は相変わらず嫌になるほど青かった。

それでもその時一瞬だけ頭の中に浮かんだ彼の顔は、やっぱりあのへらへらとした可愛らしい笑顔だった。


あぁ、泣いてくれるかな、でも私は貴方の笑顔が好きなんだ。


おかしな話だな、貴方のそのどこか抜けたような陽気な笑顔が好きだったのに、今は泣いてくれる事を祈っているだなんて。

そんな下らない事を考えていたらふわふわと冷たい空気の中、私は気を失った。

その後に背中からズシンと衝撃が身体中に響き、一瞬だけ全身に激痛が走った気がしたが、もう私にはそんな事はどうでも良かったし、なにより朦朧とした意識の中ではあまり痛みを感じる事は無かった。





その後に私が目を開けると辺りは真っ白で、私は何をやって何処に居て今何をしているのだろうと頭が混乱する。
痛む身体の刺激を堪えつつ絡まる思考を落ち着かせて、ぼんやりと白い天井を見ながら今の状況を考えると、ここは病院なのだと理解した。

私は、空を眺めながら落下して、彼を思いながら意識を失ったのだ。
てっきり自分はすんなりと死んでしまうんだと思って宙に身体を預けたのに、今こうして私は激痛と共に生きている。


ああ、めんどうな事になったな…と思いながら、人間って意外と丈夫なのだという事を身を持って実感していた。

しばらくそうして真っ白な天井を見詰めていると、少し向こう側で病室独特の扉の開く音がした為、私はゆっくりと目を瞑る。
そして人間の足音が近づいて来るとシャッとカーテンの開く音がした後に、ビニール袋のガサガサという音が聞こえた。

うっすらと目を開けてみると、私の右側に見慣れた人間がそこには座っていた。

小さな椅子に腰を掛けて、コンビニのビニール袋から500mlのお茶を取り出して小さな冷蔵庫に入れる彼が見えたが、私は特に何もせず再びゆっくりと瞳を閉じる。

「はぁ…」

すると次の瞬間に疲れたような、寂しそうな彼の溜め息が聞こえた。
そんな彼の顔が見てみたくて、小さく目を開くと、片手で頭を抱え思いつめたような顔で俯く彼の顔が私の濁った黒い瞳に映り込む。

じっとそんな彼を見ていると、彼は私の視線に気が付いたのか、ふと私の方を見て、私と彼の視線がパチリと合った瞬間に彼はハッとした顔で頭を抱えていた手を直ぐ様どけてみせた。


「…名無しちゃ…ん」

そして私を呼んで、次に「大丈夫…なの?」や「お茶、飲む…?」なんて聞いてきた。
その声は実に力無く、いつものあの明るい声音とは程遠かった為、私は戸惑い彼の言葉に返事をする事が出来なかった。


「名無しちゃん、どうして」

それでも彼はその寂しそうな顔と暗い声で私の名を呼び、言葉を続け、光を反射させて鮮やかに彩られた瞳で私の濁った黒目を見詰める。


「笑って…」
そんな彼を見て自然と出た言葉はたった一言で、私のその声は掠れかけて実に憐れなものだった。


「名無しちゃん何言ってるの、こんな時に…」
「笑ってよ」
「名無しちゃん…」
永遠と寂しそうに、心配そうに私を見詰める彼の顔が嫌だった。
何故なら私は彼の陽気で気の抜けた可愛らしい笑顔が好きだからだ。

「ねぇ、笑ってよ」
「…」
「笑ってよ!」
「名無し…!」

私の声に被せて彼は力強く私の名を呼んで私の言葉をかき消す。

「笑って…よ…」

笑顔が見たい、彼の笑顔が今すぐ見たい。
辛そうに私を見る彼の顔を見詰めているのが心底苦しかった。
眉を潜める彼のこんな顔は初めて見る。

「こんな時にそんな事…」
彼が私を見詰めながらそう言いかけた時、彼のジーパンのポケットから携帯の震える音が微かに聞こえた。
どうやら彼の携帯に電話がかかって来ているようだ。

それでも彼は気にせず私を見ていた。

「ねぇ、携帯鳴ってる」
「どうでもいい、そんなの。」

「いつものお店の、女の人からかもよ」
「どうでもいいよ」

私は軋む身体の痛みを堪え、ベッドから身を乗り出し彼のジーパンのポケットに手を伸ばした。
「ちょっと、名無しちゃん…!」
抵抗しようとする彼を無視し、彼のポケットから素早く携帯を取り出して画面を見てみれば、明らかに源氏名であろう女の名前が表示されているのが見えた為、私はそのまま通話ボタンを押してみた。

すると携帯の中から女の人の声が微かに聞こえた為、携帯をゆっくり彼の耳元へ当ててみると彼は悲しそうに携帯を手に取る。

「どうでもいいよ」
そう言いながら彼がギュッと強く握った携帯は、みしみしと嫌な音を立てた。

彼は強く握った携帯を耳から離すと、パッと立ち上がり、次の瞬間に物凄い勢いで目の前の壁へと携帯を投げ付け、その瞬間に携帯の画面は真っ暗になって床へ転がる。

私はその光景を静かに見ていた。

見た事無いくらいに苛立つ彼の顔も、宙を舞ってから壊れて転がる無残な携帯も、静かにこの真っ白な空間でただひたすら息を潜めて眺めている。


壊れた携帯に目もやらず、彼は俯き荒く息をしながら私の身体を支えるベッドへ片膝を付く形で上がり、ギュッと私の身体を抱き締めた。

不思議なくらいに真っ白な掛布団のシーツを握り締める私の拳は震えながらゆっくりと解かれ、そして私を抱き締めるその逞しい彼の腕にそっと乗せられる。


「ごめんね」
すると彼は強い腕の力とは裏腹に、実に弱弱しい声でそう謝ってみせた。

「どうして謝るの…」

「ごめんね」
どうしてと聞いても彼はただただそう呟きながら私の事を痛いくらいに抱き締め、そして微かに震えていた。

「俺が、俺が情けないからこんな事に…」

そんな彼の身体は暖かくて心地良い。
私の肌をかすめる冷たい空気や、私の器官を通って沁み渡る冷たい水よりずっと、ずっとずっと心地良かった。

その瞬間、私の氷のようだった心が溶けるように何かから解き放たれ、訳も分からず目からはポロポロと涙が流れ落ちる。




「ごめん、俺謝るから…だから、だからもう俺を置いて消えようとしないでよ…」
「私本当は…本当は…」



しにたくなんてなかったんだ。



今の今まで気が付かなかったけれど、私は彼の暖かさに触れて、彼の全てを愛し、彼に全てを愛され、そして暖かい光の中で生きたかったんだ。
見慣れた景色も、飽きるほどに生きてきた私という存在も、何もかも受け入れて生きていきたかったんだ。
それでも現実は上手くいかない。
理想は幻想になり、叶わぬ幻想は苦痛に変わり、その苦痛はやがて私の心を締め上げ、文字通り苦しめ痛めつけていた。


そんな苦しい理想と上手くいかない現実の中で生きる為に私は全てから目を逸らし続け、そして目を逸らす為に死のうとしたのだ。


「私本当は…」

その事が頭の中で理解できていても私の口からはそれ以上の言葉は出てこなかった。
何故か言葉にして声に出して伝える事が出来なかった。


「私…」
「ごめんね…」

それでもひたすらにごめんねと呟く彼の身体からは、ごめんねと言う度に小さく喉が振動してその振動が私の首元に伝わる。
その振動が、彼の生を強く私に知らせ、そしてそれを感じ取る私も今ここに生きているのだとそう思った。


私はそっと彼の腕に添えていた自分の掌を彼のその暖かい背中に回し、彼同様にギュッと強く抱き締める。
その瞬間、身体に痛みが走り、息が苦しくなったが、その事で私は生きているのだという事を確かめられた気がして何だか無性に幸せだった。


「もうしないよ」


たった一言、私がそう言うと彼は小さく名無しちゃんと呟いて首筋に優しくキスをした。

それからずっと、彼は私の痛む身体を抱き締め続け、白い空間で彼の暖かさに包まれたまま、私は再び目を瞑った。

次目が覚めたら、きっと彼は笑っているだろう。
きっと彼は私に見慣れた陽気な笑顔を向けて、いつものように名無しちゃんとどこか抜けた声で私の事を呼ぶのだろう。

そして私はそんな見慣れた光景を見て幸せだと、そう感じるのだろう。





慣れた景色と崩れた日常
.



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -