祝福よ、ここに

  禪院直哉が女と出会ったのは随分と昔のことである。天下の禪院家当主の嫡男たる直哉の婚約者候補として、女は禪院家にやって来た。

「なおやさま、おめにかかれてこうえいでございます。わたくし……」
「あー、かしこまらんでええよ。そういうの苦手やねん」

 おそらく慣れていないのだろう堅苦しい挨拶を、舌足らずな話し方でする少女。見る人間によっては可愛らしく映るのだろうが、直哉にはうざったいだけだった。そこそこの家柄ではあるものの禪院たる自分には遠く及ばない。容姿も子供らしい愛嬌はあるのだろうが、記憶に残る程の美人ではない。直哉にとって取るに足らない雑魚。それが少女に対する直哉の印象だった。父であり当主である直毘人の手前あからさまな態度は取らなかったが、直毘人も直哉が少女に何の興味も持たなかった事などバレているだろう。
 婚約者候補の女など他にも掃いて捨てるほどいる。家柄も、容姿も、もっと良いのを好きに選べるのだから、わざわざこんな雑魚を気に留める必要もない。


 幼い直哉はまだ知らない。現実とはいつだってままならないものであり、予定通りに事が進む方が珍しいのだと。




「お帰りなさいませ、直哉様」
「おん。暫く部屋で休むから誰も近づけんなや」
「かしこまりました。お嬢様がいらっしゃっておりますが、お引き取り願いますか?」

 お嬢様。禪院家に女は多々いるが、直哉が知る限り“お嬢様”などと呼ばれる人間は一人だけだ。直哉の最愛、この世で唯一の人、絶対に手放せなくなってしまった女。

「……〜っ!! 来てんのやったら早う言えや!」
「申し訳ございません。奥の客間にご案内しております」

 女中がそう言ったのを聞くや否や、直哉は屋敷の奥へ駆け出した。廊下を走るな、だとか小学生でも知っている常識も今の直哉には届かないだろう。無駄に広い屋敷を今日ばかりは恨みたくなりながら、彼女が待つ部屋へと急ぐ。

「来るん、ならっ……連絡くらい、よこさんかい」
「あら直哉様、お帰りなさい」

 勢い良く襖を開き、息を切らした直哉に女は優しく微笑んだ。


 こんなはずではなかった、と直哉は思う。取るに足りない雑魚だった少女は、その後も禪院家に何度も訪れた。立場が違うとはいえ、仮にも客人にする態度ではなかった直哉に愛想を絶やさず、慎ましく連れ添ってくる姿に直哉は堕ちた。初めは同じ部屋に居ても少女の事などないものとして扱っていたが、一度気まぐれに言葉を交わした。それがターニングポイントだったのだろう。
 話す時間が増え、少女がやって来るのを待つようになった。少女のことを知りたいと思った。好みを聞いては同じ物に興味を持った。彼女の好きな茶菓子を用意するためにわざわざ自ら店に足を運んだ。そのうち、少女を待つ時間が焦れったくなって直哉の方から家を訪ねた。もちろんアポなど取っていないのでちょっとした騒ぎになった。この時少女が困ったように笑ったので、その後直哉は少女を禪院家に呼びつけるようになる。
 少しずつ、少しずつ執着心は肥大化していき、ある日直哉は「あの女、俺のにするからな」と直毘人に宣言した。それから彼女が直哉の婚約者となるまでそう時間はかからなかった。

閑話休題。

「まぁ、そんなに慌ててどうされたのですか」
「お前が急に来るからやろが……」
「お帰りは本日だと伺っていたのですが……?」

 こてん、と首を傾げながら女は言う。彼女がやって来る日は直哉が手ずからお茶菓子を用意し、いつもの3倍は時間をかけて身なりを整えているのだが、女の知るところではないだろう。わざわざ男の醜い独占欲と見栄を口に出す直哉でもない。

「はぁ……まぁええわ……。ほんで、何の用やねん? お前が連絡も無しに来るんやから大事なんやろ」
「そんなに大袈裟なものではありませんが……。そうですね、直哉様には早くお伝えしたいと思いまして」
「おう」
「私、家を出ようと思うのです」
「……おん?」

 この筋金入りの箱入り娘がか?外に放り出しておけば二日と経たずに死んでしまいそうだと言うのに。白魚のような手を見るだけで、水仕事なんて一度もしたことが無いのが分かる。とてもじゃないが他人の世話なしに生きていけるタイプではない。直哉とて人のことを言えないけれど。

「家出てどないすんねん。そもそも、よう親父さんが許したな」
「家を出るように申し付けたのは父ですので」
「は」
「父とひどい喧嘩をしまして。それはもう盛大なのを」

 「そしたら勘当されてしまいました」今晩の夕飯を告げるような気軽さで女は言う。話の衝撃が大きすぎて直哉の頭には半分も内容が入ってきていない。大体、話す内容と喋り方のテンションの温度差が激しすぎる。グッピーは死なないかもしれないが直哉は死ぬ。
 目の前でフリーズする直哉を余所に、女は話を続ける。

「家とは縁を切ることになりますから、当然直哉様との婚約も無かったことになるでしょう。いえ、正確には別の者が私の代わりをするでしょうね。何れにせよ私は二度と禪院家に立ち入れなくなりますので最後のご挨拶をと思いまして……」
「…………」
「あの、直哉様? ……きゃっ」

 女が何か言いかけていたが知ったことではない。そんなことより、この女は今何と言った?自身の元から去ると、これが最後になると言っているように直哉には聞こえた。それは駄目だ。それだけは駄目だ。彼女だけは、生涯自分のものでなくてはならない。あの日、父に宣言した日に……そう決めたのだから。これだけは当主にも、たとえ神であっても覆すことは許されない。無論、彼女も。

「何をアホなこと言っとるんや。冗談のセンスないなぁ」
「私、本当に……っ!」
「どこの誰が何言おうと、お前は俺の物で、俺の隣もお前だけの物や」

 先ずは彼女を閉じ込める事から始めよう。禪院に立ち入れなくなるなら、禪院から出さなければいいのだ。

「絶対、放したれへんからな」

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