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 ハッと目が覚めて、見慣れた天井に安堵する。浅く乱れた呼吸を落ち付けようと、肺を膨らませてゆっくりと長く息を吐いた。そこで自分が気持ちの悪い変な汗をかいていることに気がついた。
 底なしの沼の中にいるような、暗くて深い、そしてとても悲しい夢を見ていたような気がする。

 しばらく天井を見つめていたが、ふと喉の渇きを感じた。水でも飲もうと上体を起こそうとしたとき、動かした手が温もりに触れる。

「…十四郎さん」

 自分が眠りについた時にはいなかったその人は、帰宅してすぐに力尽きたのか、上はシャツに下は真っ黒のスラックスのままだった。布団も被らずうつ伏せに寝ている。
 いつも眠りの浅い人なのに、こちらの動きにも声掛けにも反応しない。どうやら珍しく熟睡していて、かなりお疲れのようだ。

 その綺麗なかんばせをじっと見つめる。こうやって、朝日の差し込む部屋の中で彼の寝顔を見るのはずいぶんと久しぶりだなあと感慨にふけった。



 結婚してあっという間に1年たった。十四郎さんは真選組の副長という管理職の立場について長く、そろそろ身を固めろという上の方針で、それなりの階級の家の娘と見合いをした。その娘がわたしだった。
 ひと目見てその端正な顔立ちに、こんな人がと思った。引く手数多だろうに色恋には目もくれず真っ直ぐに突き進んできたであろうこの人が、最後にはこのような身の固め方をしなければならないのかと、そう感じた。
 自分は特段、目を引くような美人でもないし、男の人にちょっかいをかけられるようなスタイルでもない。花嫁修行と称してある程度の家事炊事は仕込まれたけど、それ以外に取り柄といえばおじいさま、おばあさま世代にはよく可愛がられる愛嬌ぐらいしか持ち合わせていない。

 見合いの場ではよく弾むというほどではないけど、さほど途切れない程度に会話をした。内容はありふれたものだった。天気の話、仕事の話、趣味の話…それらを話していると、口調は荒いがその内にはとても温かい優しさがあるように思えた。
 この方はとても素敵な人だ。わたしにはもったいないほど魅力的なお人だった。だからこそずっと感じていることがある。どうして十四郎さんに選ばれたんだろう、と。



 思いにふけるのをやめて、十四郎さんを起こさないように布団から抜け出す。
 あの人はいつも朝早くに家を出て、夜遅くに帰宅する。そのライフスタイルには合わさなくていいと言われてはいるが、多少意識しないと家の中で顔を合わすことが皆無になる。帰りこそ何時になるかわからないので朝は極力早く起きた。朝食は食べずコーヒーだけでいいと言うので、十四郎さんがそれをすすっている間、わたしも同じようにカップに口をつける。

 会話はあまりないが時折、合間を見計らってルーティーンのように「今日は遅くなりますか」「お体はしんどくありませんか」「お夕飯はどうしましょう」とそれらの質問を日替わりで投げかけるだけだ。
 十四郎さんの返事もだいたい決まっている。それを聞いて納得したように見せて、席を立ち玄関に向かうその人に着いていく。

「いってらっしゃい。お気をつけて」

 最後の決まり文句はいつもそう。「ああ」と短い返事を聞き、ピシャンと閉まる扉の前でしばらくそうしている。結婚とは忍耐だと、何時ぞや見たテレビ番組のコメンテーターが言っていた言葉を思い出す。

 休みもきちんとしたものはあまりないようで、家の中で彼がくつろいでいるようなことは見たことない。ごく稀に昼過ぎに帰ってくることはあるが食事は外でとってきていることがほとんどだし、ぼんやりと宙を見つめていたかと思うと鳴った携帯の相手に呼び出されていくことが多い。
 そんな状態なのでもちろん夫婦生活なんてものもない。籍を入れてから一度も、わたしは十四郎さんのぬくもりに包まれたことなんかないのだ。

 夫婦とは。その問いに悩み、答えは出ずその疑問を打ち消して終わる。

 コップに注いだ水を飲み干してふと気がつく。今朝見た夢は今の自分のことのようだったなと。
 この終わりの見えない結婚生活をどちらかが死ぬまで続けるのだろうか。なんの不自由もしていない、このぬるま湯にずっと浸らされているような感情を墓場まで持っていくのだろうか。

 わたしは、ひと目見て彼に惹かれたというのに。



 背後でカタンと音がする。振り返ると寝ていたはずの十四郎さんがいつの間にかすぐ近くに立っていた。

「なに、泣いてんだ」

 苦虫を噛み潰したような顔をうつむかせて、そう問うその人の言葉。それで初めて気がついた。つう、と自分の頬を伝う雫に。ハッとして慌ててそれを拭う。

「すみません、目にゴミが…」

 そう取り繕ってみたけど彼の表情は変わらない。

「…もう、終わりにするか」

 ぽつりと、呟くように言う言葉の意味を理解して、鉛のように重いそれは心の奥深くに刺さった。
 目が合わないことに不安が募る。…首を横に振らなくては。いつもその背中に焦がれて、振り返ればいいと、こちらを見つめてくれればいいと切望していたのに。まだあなたと何も思い出を共有できていないのに。

 スタートラインに立てていたのに走り出せなかった、そんな弱虫に対してなんたる仕打ちなんだろう。大きな背がこちらを向いた。名前を呼ぼうと口を開くと嗚咽が漏れた。
 その背中の引き止め方も、何もかも、十四郎さんはわたしに教えてはくれなかったのだと思い知って、ただただ溢れる涙を流しておくことしかできない。そうしている間にも背中が遠のく。そのぬくもりに包まれたいなど思うことすらもおこがましいことだったのか。

 ああ、わたしは愛されてなどいない。

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